肖像出典:Wikipedia
En-Sophにて連載していたエミール・ブートルー『自然法則の偶然性について』を電子書籍販売サイト「パブー」にて一つにまとめた。pdfやe-pubで読むことができる。まとめる際、細かい訳語や誤字脱字を修正し、短い訳者あとがきを追記した。以下、その「あとがき」を転載する。
ここに、エミール・ブートルーが国家博士号取得のために提出した主論文『自然法則の偶然性について』(1874)を全訳した。副論文として提出されたのは『デカルトにおける永遠の真理について』(de Veritatibus Aeternis Apud Cartesium)である。フランスでは、博士号取得用の主副の二論文の提出は伝統的なもので、ブートルーに多くを学んだアンリ・ベルクソンは主論文として(あの有名な)『意識と時間』を、副論文として『アリストテレスにおける場所論』を提出している。フランスの大学には、自身の哲学的達成を主、よりアカデミックな研究を副として、区別して執筆する伝統があり、ブートルーもこれに倣っている。また、この時代の副論文はラテン語で書くことが制度化されていたが、これをのちに仏訳したのが、フーコーの師匠であるジョルジュ・カンギレムである。
始めに断っておかねばならないが、訳者(荒木)はブートルーの専門家でもなければ、そもそもフランス哲学についての専門知を有するものではない。一人の門外漢にすぎない。それ故、力を尽くしたものの適切な訳を提供できているかどうか甚だ心許ない。読者の叱正を請うばかりである。
この書物には一体何が書かれているのか。端的に要約してみれば、機械的決定論の必然的世界観に対し、自然科学の立場からそれを反駁し、偶然性の概念でもって存在の自由を肯定した書であるといえる。ブートルーは仮想反論者を反駁するかたちで、その叙述を進める。一種の問答法である。この本の読みにくさは、何処までが仮想反論者の主張でどこからがブートルーの主張なのか一読では明瞭に分からない処にある。訳出に当たっては、訳者補記〔〕を挿入して議論をわかりやすくしたつもりではあるが成功しているかどうかは定かではない。
では、そもそも必然性とは何なのか。ブートルーは先ず、絶対的必然性なるものが、抽象の産物、人間の頭のなかにしか存在しえないものだということを強調する。これがデフォルトの認識だ。そして区分けする。第一に論理的分析的必然がある。これは同一律的演繹に求められる。例えば三段論法のようなものだ。第二に先験的綜合的必然。これは経験に先立って決定されたものだ。カントを念頭においているのだが、具体的にいえば因果関係や実体属性関係や全体部分関係などがこれに当たる。第三が経験的綜合的必然。これは経験によって明らかになる必然性で、実証科学で用いられるものだ。たまに譲歩しながらも基本的にこれら必然性を論破するのがブートルーの仕事だ。
存在論や論理学の分野からブートルーは批判をはじめるが、それは抽象的なものにとどまらない。自らの仮説に立って彼は、〈無からは何も生じない〉とか、〈原因は結果に等しい〉とか、〈存在の量は不変〉など絶対的必然性の証明に与していた具体的な科学的諸定式を次々と批判していく。ブートルーには存在の位階制度という発想がある。単なる存在、類(ジャンル)、数学的力学的対象である物質、物理的化学的対象である物体、生物、人間という具合に。これに応じて、各段階にあると思われている必然性を論破していくのだ。
ブートルーが必然性を論破していく際によく用いているのは、細部(ディテール)の決定不能性が、翻って全体の決定不可能性、即ち偶然性に結びついている、というタイプの考え方だ。目に付く所を列挙してみよう。
「細部の極小の変化は宇宙の大混乱bouleversementを折り込んでいる」(第一章)
「真の集合にはその細部に偶然性の何らかの萌芽rudimentがあらねばならないのではないか?」(第二章)
「最も重要な力学的集合に関する平均内に抗い難く存続している非決定性は、細部の偶然性にその由来を本当にもっているのだ」(第四章)
細部の変動がたとえ小さくても集合全体を一変させかねない可能性がある。第四章の最後に出て来る比喩でいうならば、雪山を飛ぶ鳥の嘴から一粒の種が落ちれば、それによって、谷間を埋めるだろう大きな雪崩が起きることもある。ここにインプットとアウトプットの対応を約束しない、複雑系科学の予告を見取ることはたやすい。
さて、このように存在の階段を登っていくにつれて、各段階の偶然性は、単なる必然性の欠如ではなく積極的意味をもっており、極めて高度な段階、つまり人間にあってそれは合目的性の原理の発動を許す条件となっていることにブートルーは気づく。この偶然性は、倫理の問題に直結し、意志という必然性と調和する。偶然的であるが故に必然的でありうる。人間の倫理的領域において、背反すると思われていた必然/偶然が和解する。ちなみに全く目的性をもたない盲目的な原因をブートルーは偶運hasardと呼び、偶然性contingenceと区別して使用している。
元々、訳者がブートルーに興味をもったのは、ブートルーの偶然論を批判的に継承した主著『偶然性の問題』を書いた九鬼周造が、具体的に如何に本書を読んだのか(彼は昭和五年に演習のテキストとしてブートルーの偶然論を選んでいる)、それを知りたかったためだ。その研究は未だ十分な水準に達せず、今後の私の課題としたい。最後にひとつ、ブートルーの妻は「ポアンカレ予想」で有名なあのポアンカレの妹だったことを付け加えておきたい。