↑『ビオストーリー』、第4号、2005・11、18p
吉野裕子(1916‐2008)。ヒロコ、旧姓赤池。民俗学者。50歳頃、習っていた日本舞踊の扇に関心を持ち、独学で調査を始める。以降、在野で日本の蛇信仰や陰陽五行などを研究し、発表を続ける。主著に『扇――「性」と古代信仰の秘密を物語る「扇」の謎――』(学生社、1970)、『陰陽五行からみた日本の祭』(弘文堂、1978)、『蛇――日本の蛇信仰――』(法政大学出版局、1979)。その他多数。
◎ 吉野裕子略年譜
1916年 10月5日、東京にて赤池濃の三女として誕生。1919年 父の赴任に伴い朝鮮半島へ。3年後帰国。1936年 女子学習院高等科卒業。1939年 吉野英二と結婚。1947年 津田塾大学英文学科入学。1952年 津田塾大学英文科卒業。1954年 学習院大学女子部教諭、57年まで。1963年 日本舞踊を習い始める。1970年 初めての著書『扇』。1975年 『隠された神々』(講談社)。1976年 学習院女子短期大学非常勤講師。1977年 『陰陽五行からみた日本の祭』で東京教育大学文学部から文学博士号を授与。1982年 『日本人の死生観』(講談社)。1987年 『大嘗祭』(弘文堂)。上海復旦大学、上海大学より招聘され、講義。1990年 『神々の誕生』(岩波書店)。1994年 『十二支』(人文書院)。2005年 吉野英二死去。『古代日本の女性天皇』。2007年 『吉野裕子全集』(人文書院)が刊行開始。全十二巻。2008年 4月18日、死去。
・女性民俗学研究者
さて、ここでとり扱うのは、主婦在野民俗学者とあだ名していい、吉野裕子である。しかしながら、そうはいったものの、主婦はいいとしても、在野と民俗学の組み合わせはいささか同語反復の感を与えるかもしれない。
考えてみれば、日本民俗学の大ボス・柳田国男にしろ、彼に比肩する天才・南方熊楠にしろ、私たちの知っている多くの民俗学者は在野研究者ではないだろうか。民俗学と在野という場所は明らかに相性がいい。直観的にいえば、「在野研究のススメ」で取り扱うべき研究者リストの多くが民俗学者で埋まっている感じさえする。
この相性の良さは一体なんなのか。第一には民俗学者の主要な研究方法のひとつにフィールドワークに頼ることが考えられる。民俗学は、その土地その土地の伝説や寺院や文献などを手がかりにする。そのためには研究者は、研究対象に応じて旅行し、土地の人々と交流し、神社仏閣を訪れることで研究を前進させていくことができる。元々、民俗学は大学の外部を主要なフィールドにしているため、比較的、大学なしで研究が続行できる分野なのではないか。
在野という場所と民俗学という学問の良相性については、のちのちじっくり考えていかねばならない。
が、今回はひとまずそれを横に置いて、40代から研究生活を始めた吉野裕子の在野生活にフォーカスしたい。注目したいのは「在野研究のススメ」初めての(そして稀になるだろう)女性研究者であるという点だ。
例えば最近、「若手研究者夫婦、同居して研究を 文科省が支援制度」というニュースがTwitterなどでよく取り上げられていた。夫研究者の大学異動や子育てによって、女性の研究生活が中断されずに済むよう、大学を通じて1組あたり最大で年間400万円程度を支給するという制度が導入されるか、という内容のものだ。
女性の力の活用を看板のひとつにした安倍内閣の方針に従ったものなのだろうか。この制度の賛否はおいても、専門問わず、女性と研究との結びつきが断絶しやすかったことは、大体の人が納得するところだろう。いうまでもなく、そこには(ジェンダー上の)女性には様々な社会的期待がかけられ、それが研究の負荷や重荷となってしまった側面があろう。
しかし、もちろん、そんな女性研究者不遇の時代であっても、大学に属さない在野女性研究者がいたことも事実だ。そのひとりがここで取り扱いたい吉野裕子であり、その生を辿ることで今日でも応用可能な知見を得ることができるのではないか(と、こう書いたからといって、当然、現在の女性研究者支援制度などなくても良い、と主張しているわけではない)。そう思い、調べてみた。
初めに注記しておく。この記事を書くにあたり、小長谷有紀「吉野裕子の世界はいかにして生まれたか」(『ビオストーリー』、4号、2005・11)がとても参考になった。これはインタビューを交え、吉野の半生を紹介したものだが、以下引用するのは、インタビューに答えた吉野の言葉であり、地の文(小長谷)ではない。
初めに注記しておく。この記事を書くにあたり、小長谷有紀「吉野裕子の世界はいかにして生まれたか」(『ビオストーリー』、4号、2005・11)がとても参考になった。これはインタビューを交え、吉野の半生を紹介したものだが、以下引用するのは、インタビューに答えた吉野の言葉であり、地の文(小長谷)ではない。
・大学志望を諦め結婚へ
吉野裕子の父、赤池濃は1919年の朝鮮半島の独立宣言による「万歳運動」を鎮静化させようと日本から派遣された官吏だった。当時5歳だった吉野は、朝鮮にある「倭城台」と呼ばれる日本人居住区に住んでいたが、そこには小学校がなかった。
吉野が学校に通うようになったのは、帰国後、関東大震災で焼け残った女子学習院が初めてで、吉野は通算13年半(4・4・3年制で11年+高等科2年)も在籍することになる。目が悪かった吉野は黒板をよく見なくては答えられない数学は不得意で、逆に、音読など耳で学ぶことができる国語が得意だったそうだ。
吉野は、13年通っても未だ勉学を続ける意志は衰えず、進学を希望していた。卒業後も2、3年は東京教育大学の聴講生として勉強を続けていたようだ。なお、当時の学習院は男子ならば無試験で学習院大学進学を許されたが、女子には認められていなかった。
「高等科を卒業すると満で21ぐらいかな。その後やっぱりもっと勉強したいからって、今の筑波大学の前身、東京教育大の聴講生になった。そこで足かけ2年、正味1年ですけど、国文科の聴講生だったの」(33p)
しかし、1~2年の猶予を楽しんだあとに吉野を待っていたのは、当時普通のコースである結婚だった。その選択肢は特に兄から強く勧められたそうだ。そして、大阪商船に勤めていた吉野英二との結婚を決めた。英二と結婚すれば、外国で生活できるかもしれない、という不純な動機が決定的なものになった。当然、太平洋戦争勃発に際し、海外生活など夢のまた夢のこととなってしまうのだが。
・図書館通いの結婚生活
新婚夫婦は横浜の地で新たに居を構えた。吉野は主婦の傍ら、図書館通いの日々を送ることになる。
「横浜の図書館ね、あそこ山の上の、野毛山か、あそこ図書館、ずいぶん使わせていただきました。学習院ってとこは、とっても偉い先生がいらしてくださるんですけど、たとえば、漢文だって、読み方をひとつひとつ教えていただくわけじゃないのね。〔中略〕やっぱり、図書館へいってそういう基本的な書を借り出して……」(35p)
住まいの山下町から、山の上の図書館まで、坂道を自転車で登り降りする主婦生活が吉野の基礎学習となった。ちなみち、夫婦には子どもができなかった。結婚後まもなく、買い出しに行った際、(コントではなく本当に)バナナの皮にすべって転び、逆子を流産してしまった。母体は無事だったが、それから子どもには恵まれなかった。
吉野に子供が不在であったことは、時間的余裕の面で、彼女の在野生活に大きな影響を与えているように思われる。経済的な面でも、官吏の娘であったことはもちろん、夫の仕事も順調で、この時点までは、苦労した様子は見えない。
・30歳女子大生
そんな中で、夫が結核を発病し、自身も肋膜炎などになる。夫は大阪商船をやめて、吉野の父親が斡旋した軍需会社で働こうとするが、終戦によって雇用がなくなる。父親も大阪駅で事故死し、吉野家は貧窮状態に陥ってしまう。
夫婦は田無の農家の納屋を借りて、生活を再スタートさせる。しかし、逆境の吉野はそこで再び学問に接近するチャンスを得る。吉野は納屋で整理していた「古新聞」を偶々手に取る。
「そこで津田の広告を見たわけ、戦争中、学徒動員で勉強してない人たちのために、来年度の試験のために、小さい塾をこしらえるからって広告があったの。わたしたち当時貧乏で、ろくに新聞もとってなかったんですけど、古新聞でそれを見て、田無から津田の本校がわりに近いもので行ってみたんです」(61p)
こうして津田塾大学で英文学を学ぶ30歳女子大学生が誕生した。英語を選んだのは、楽しみのためではなく、職につながるような技能を求めていたからだ。これが縁になって、吉野はトマス・ハーディの文学に魅せられ、卒論はハーディで書いている。
今日ならば社会人入学も徐々に一般化してきており、中年から高年齢の大学生が一学年に複数人いることは珍しくない。しかし、当時はまだそのような時代ではなかった。周りの学生は吉野よりも当然一回り年下で、先生の中には今日でいうセクハラ・アカハラに相当する揶揄をする者もいたという。
ちなみに、この頃の「大学」はあらゆることが極めてアバウトだったようだ。例えば、単位の習得。二つを挙げてみよう。
「体操の時間、これは寒いから出ないの。すると落第点。でも、あのころ、先生と学生と合流するダンスパーティみたいなのがあったの。そのとき、うちの主人にいってもらうのよ。その体操の先生の相手をしてもらう。あの先生を攻め落としたよって。それをいつまでもいうわよ、主人は。俺が点を稼いでやったって」(61p)
男に攻め落とされて大丈夫か、先生よ…、とか思うが、もうひとつ。
「天文学は先生と直接交渉です。それから生物の時間には和歌を書いて。そこそこの点を下さったわよ。そういう先生だっていうことを知っているから巧みに。だからあの手この手よ(笑)」(61p)
……もはや一緒に笑うしかない。
・50歳、扇研究へ
津田塾大学卒業後、代用教員を2年程経たのち、吉野は母校学習院で英語の教師をつとめる。しかし元々英語が好きなわけでも教職が好きなわけでもなかったために、3年程でやめてしまう。その頃になると夫の仕事も軌道に乗ってきていた。
暇になった吉野は近所の人に誘われ、地唄舞を始めた。それがきっかけとなって、舞の道具である「扇」に対する関心をもち、処女作『扇』につながる民俗学的研究を始めることになる。扇は何よりも師弟のつながりを証し、あらゆるものを表現できる日本芸能のキモだった。
「流儀によっていくらか相違があるかもしれないが、日本舞踊の入門作法は、まず束修(入門料)が納められると、師匠からその流儀の舞扇がこの新入りの弟子に贈られる。師弟のつながりがそれでできるのである」(『扇』、33p)
「考えてみると扇が日本人の生活の中にとけ込んでいるのは舞踊の世界ばかりではない。能、落語、声色、日本の芸能は達人であれば背景も道具立てもいらない。扇さえあればことたりる。扇に芸がプラスされればそれだけでどんなものでも、情景でも、気分でも表現できるのである」(『扇』、35p)
しかし、単なる興味だけで研究は始まらなかった。そこにはきっかけが必要だった。吉野にとっては、あの東京教育大の聴講生を一時だけしていた経験がそれに相当する。
つまり、ある結婚の披露宴で、吉野はかつて授業を聴講したことのある柳田国男派の民俗学者・和歌森太郎(1915‐1977)に偶然出会う。そこで、扇に関する先行研究について質問してみると、皆無だという返事が返ってきたのだ(といっても、研究を始めた吉野は津田塾で教えていたフローレンス・ウェルズに扇の研究があることを後に知るのだが)。
つまり、ある結婚の披露宴で、吉野はかつて授業を聴講したことのある柳田国男派の民俗学者・和歌森太郎(1915‐1977)に偶然出会う。そこで、扇に関する先行研究について質問してみると、皆無だという返事が返ってきたのだ(といっても、研究を始めた吉野は津田塾で教えていたフローレンス・ウェルズに扇の研究があることを後に知るのだが)。
ともかくも、返事を聞いた彼女は即座に、自身が先陣を切る決意をする。
「それはしいていえば、日本文化のなかの、ある分野では少くとも一方の頭とさえ思われる扇に対する扱いとして余りにお粗末すぎる、という義憤のようなものであった」(『扇』、38p)
「萎縮と思い上りとでは、どちらが初学者にとって有害かといえば萎縮だろう」と吉野は述べている(『扇』、39p)。というのも、先行研究の完成度を目の前にして、この上何を付け足せばいいのかという萎縮を感じた初学者は「先学のレールの上から外れないよう、その上を走って幸いにして何かがなしとげられたらそれでいいという消極的な考え」に落ち着いてしまい、創造的な研究をすることができないからだ。
幸い、扇に対する「義憤」は、吉野に「萎縮」ではなく「思い上り」を与えた。こうして50歳の若手研究者が誕生することになった。
・性のタブーを突破する
「思い上り」は彼女にどんな独創性を与えたのか。
吉野民俗学の特徴のひとつは性的メタファーによって、民俗学的事象を解釈することにある。事実、処女作『扇』では、扇は蒲葵(ビロウ)に似ており、蒲葵は男根が似ているのではないか、という話から始まっていく。ここには、対柳田国男民俗学への意識があった。
「柳田国男さんは、神は祭場に立てられた高い木を目印に降りてくる、それが神迎え、依代であると言われました、それは違うと私は思いました。人間が生まれた同じいきさつで神も誕生し、神迎えができる。とすれば、そこにはまず「性」があるわけでしょう。和歌森さんに「私が考えているのはセクシーなんですよ」と言ったら、「エロは日本の民俗学ではタブーだ」とおっしゃったので、びっくりしました。今からは考えられないことですが、三十年前はそんな状態でした」(インタビュー「古代日本人の死生観――日本原始信仰と陰陽五行からみる」、『部落解放』、2000・06)
柳田国男民俗学の性へのタブーを素人の吉野は元々知らなかった。これを中心に自説を数々の著書で重複的に主張した吉野は、「日本民俗学における性の認識欠如に対する反抗であり、戦い」であるとさえ述べている(『吉野裕子全集』、第二巻、人文書院、2007、2p)。
なお、柳田国男に足らないと加えて吉野が思っていたのが、古代中国哲学であった。これが、後の陰陽五行思想への関心に繋がり、吉野の仕事は性と五行の二本柱で構築されることになる。メインストリームの民俗学に対する異議申し立てという点で、吉野は自分の仕事を挑戦的なものとして捉えていた。
・『扇』出版まで
1967年7月24日から、東京教育大で一般人のための民俗学講座が一週間ほど開かれ、吉野はそれに参加している。最初で最後の系統的民俗学の講義だった。続いて、吉野は国会図書館にこもり、無茶苦茶な乱読を始めた。
「昔のことを知らないからと、まずカードを操って、「古代」という名を冠してある本を片はしから写しておいて借り出す。たとえば「古代日本の交通」「古代日本の民俗と生活」というふうに。/しかし有がたいことにそんな無茶をやっていてもいつか巻末の引用資料の索引からいろいろな本を知るようになる。なんとなしになにかがいつかは判ってくるものである」(『扇』、52p)
そうして、基礎学習を終えた吉野は、結婚式など地方に行く用事があるたび、そのついでに、その土地その土地のフィールドワークに取り組む。それにより東京よりも関西の方では扇が使われていたことを知る。
その旅路のなかで、出版の縁もできた。三重県の伊雑宮の禰宜(ネギ、神職の名称のひとつ)であった桜井勝之進(1909‐2005)と出会い、彼に扇論の構想を話したことが機縁となって、学生社からの出版が決まった。
・60歳の博士
『扇』以降、吉野はコンスタントに著作を発表し続けた。本を書くなかで、吉野はよりアカデミックな論文の形式も学んでいったようだ。後年の著作からみると処女作『扇』は旅行記のような趣を感じさせる。またそれに伴い、主に和歌森が縁故となって、風俗史学会に入り、発表など学会活動もこなした。そして、1977年、60歳になる吉野は、『陰陽五行からみた日本の祭』を東京教育大学の博論として提出し、文学博士の学位を取得する。
在野で孤独に研究を続ける彼女に学位を取得することを勧めたのは、風俗史学会の副会長をしていた香道家の三条西公正(サンジョウニシキンオサ、1901-1984)だった。
「或る時、副会長が突然、私に示唆された。「今迄の論考を学位論文にしては如何か」、と。それは本当に思いがけないことだった。三条西先生は御家流香道御宗家、公卿の中でも高い家格を誇る名門の御当主である。組香研究で既に学位を取得されていた先生は、更に言葉を継ぎ、「取っておいてけっして余計なものではない。早く今のうちに……」としきりにすすめて下さる。女で晩学で、師もなく弟子もなく学閥など皆無のいわば学界での天涯孤独、零の集積の私の前途を予測されてのことだったのか」(『吉野裕子全集』、第三巻、人文書院、2007、3p)
果たして学位取得が吉野の学究的生活に有意味な何かをもたらしたのかどうかは定かでない。吉野は別に大学の教授になったわけではなかったからだ。
しかし、ひとつ注目していいのは、吉野には師匠も弟子もいず、学的共同体にも親しんでいなかった一在野研究者であったにも関わらず、人文書院から個人全集が出ているということだ。このようなことは異例中の異例であるようにみえる。大学教授であっても、相当な業績を残さない限り、全集が作製されることはない。細かい事情を知る術はもたないが、博士について言えば「取っておいて決して余計なものではない」くらいの効果は、やはりあったと考えるべきだろう。
・有意義な「出会い」のために
「私の過去はすべてが研究に直接間接に結びつく出会いの連続だった。そうした出会いを重ねて今日に至ったことを今、心から幸せと思う。遅い出発、必ずしも遅くはなかったのである」(『吉野裕子全集』、第十二巻、人文書院、2008、409p)
吉野の生を反省してみると、確かに様々な「出会い」が彼女の研究生活を支えてきたと実感する。しかし、それは単に運がいいということを意味しない。というのも、吉野の長期間持続する研究意識が「出会い」を有意義なものに変えているからだ。『扇』の出版にしても、吉野が自身の思索を桜井に話さなければ決して叶わなかっただろう。博論に関しても、それに先行する在野での研究蓄積があることが不可欠だった。
普通に考えて、吉野は研究者として大きく出遅れている。しかし、50代から著作作業を始めた彼女の著書は、20冊を越え、その中の数冊は文庫となって読みやすい形で今でも本屋に並んでいる。
吉野が教えてくれること。それは、出発時の若さ以上に、あるテーマに関する興味をもち続け、地道な調査をやり続けること、即ち持続の重要性だ。早く研究を始めたとしても、同じく早くに止めてしまえば、充実した成果を残せないだろう。いつ始めたか、ではなく、いつまでやるか、が重要だ。持続が長ければ長いほど、「出会い」を有意義なものにできる確率は高まる。「出会い」のチャンスを、単なるすれ違いに終わらせない。出会いの高密度化とでも言おうか。
吉野は主婦ということもあり、在野研究者でありつつも、経済的に差し迫った時は少ない。そのために、いささか呑気な印象を受ける人もいるかもしれない。
けれども、出発歳よりも持続期間の(執念的?)威力を、これでどうだといわんばかりに示す彼女の人生からは、十分な研究時間が確保されずとも、牛歩のペースであれ持続的に前進することが大事だという、在野研究の基本的な心得を学びとることができる。そしてこれは、私見からすれば現在でも十分応用可能なもので、多くの在野研究者が身につけていいアティテュードであるように思える。
けれども、出発歳よりも持続期間の(執念的?)威力を、これでどうだといわんばかりに示す彼女の人生からは、十分な研究時間が確保されずとも、牛歩のペースであれ持続的に前進することが大事だという、在野研究の基本的な心得を学びとることができる。そしてこれは、私見からすれば現在でも十分応用可能なもので、多くの在野研究者が身につけていいアティテュードであるように思える。
※このエントリは単行本『これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得』(東京書籍、2016年) に加筆修正されたかたちで所収されたました。