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↑『エリック・ホッファー・ブック――情熱的な精神の軌跡』[以下EHBと略記]、作品社、2003。

 エリック・ホッファー Eric Hoffer(1902‐1983)。アメリカの社会哲学者。正規の学校教育を一切受けないまま18歳で天涯孤独の身になり、様々な職を転々としたのち、40歳近くから著作活動に入る。〈沖仲士の哲学者〉として知られる。著書に『大衆運動』(The True Believer, 1950)、『現代という時代の気質』(The Temper of Our Time, 1967)、『波止場日記』(Woring and Thinking on the Waterfront, 1968)。その他多数。

 
◎ E・ホッファー略年譜

1902年 7月25日、ニューヨークのブロンクスにて生まれる。
1909年 原因不明の失明状態。学校には通わず。
1917年 突然、視力が回復。
1920年 父と死別。天涯孤独の身となる。ロサンゼルスに移り、職を転々とする。
1930年 自殺未遂。ロサンゼルスを離れカルフォルニアにて季節労働者として渡り歩く。
1936年 モンテーニュ『エセー』を読み感銘を受ける。
1941年 サンフランシスコに居を定め、港で沖仲士として働き始める。
1950年 処女作『大衆運動』。
1955年 『情熱的な精神状態』(The Passionate State of Mind)
1963年 『変化という試練』(The Ordeal of Change)。
1964年 カルフォルニア大学バークレー校で週一回政治学を講じる。
1967年 沖仲士の仕事を引退。9月、CBSニューススペシャルEric Hoffer : Passionate State of Mindが放送。全米でホッファーブームが起こる。
1968年 『波止場日記』。
1971年 『人間とは何か』(First Things, Last Things)。
1979年 『安息日の前に』(Bfore the Sabbath)。
1983年 アメリカ大統領自由勲章受賞。5月21日、死去。12月、『エリック・ホッファー自伝』(Truth Imagined)。
 


・ホッファー、或いは中上と柄谷と

 ホッファーの名を意識したのは、随分と遅い。それは拙著『小林多喜二と埴谷雄高』を書いているときのことだ。本の中で私は、戦前左翼運動が大衆から離反し、だんだんと運動が抽象化していくプロセスを分析しているのだが、それ関係のとある文献で紹介されていたのが、ホッファー代表作『大衆運動』だった。私は即座にメモした。しかし、結局、ホッファーの知見は本の中には生かされなかった。

 ホッファーがより切実なものとして迫ってきたのは、それから少し経って、中上健次のエッセイ集『鳥のように獣のように』(講談社文芸文庫、1994)を読んだときだった。労働し本を読み本を書き、また労働する。きっと中上の紹介が天才的だったのだろう。或いは、羽田空港の貨物積み下ろし作業をはじめとする肉体労働に長いあいだ従事していた中上にとって、単に己のことを語ればよかったのかもしれない。ともかく、私はよく知りもしないそのアメリカ人に一発で魅せらせた。



「ホッファはまず生きている。働いている。自分と同じように生きてものを考えている沖仲士、生きてうごいているこの現実をみつめ、触わり、感じ、書く。それを自立というのならそうだが、いわゆる知識人が、自分を生きながらえさせるために苦しまぎれにあみだしとびついた芸を、自立というならちがう。芸というものたしかに身をたすけ、無芸よりはるかに良いことにちがいないが。ホッファの文章は、先っぽのほうまで実のはいったいんげん豆のように、確実な手ざわりがある」(『鳥のように獣のように』、282p)
 


 これに加え、もう一つ、ホッファーに注目する理由があった。それは中上の友人で、日本の文芸批評を担うあの天才的批評家・柄谷行人、そして彼の元妻である柄谷真佐子が、ホッファーの著作『現代という時代の気質』(晶文社、1972)を共訳していることを知ったからだ。

 面白いことにホッファーの誕生年と没年は、あの小林秀雄と全く同じだ(1902‐1983)。小林的日本批評の継承者である柄谷がホッファーに関係しているというのも出来すぎな話であるが、更に興味深く感じたのは真佐子の方だ。彼女は「冥王まさ子」のペンネームで小説を書いており、その代表作『ある女のグリンプス』は、筆者の修士論文にて一番最初に引用したこともある、私にとって大事なテクストだった。ちなみに、『ある女のグリンプス』にはアメリカの柄谷(夫)をモデルにしている私小説的テクストである。作中、ジャック・デリダらしき男も登場する。

 中上健次、柄谷行人、そして冥王まさ子。そのトライアングルの中心にはホッファーという謎のアメリカ人がいたのではないか。一体彼はどんな研究者だったのか。そんな動機から、『エリック・ホッファー自伝――構想された真実』(中本義彦訳、作品社、2002)をめくってみた。そこには、決して一筋縄ではいかない、が、それ故にこの上なく魅力的なアメリカの知的労働者の姿があった。


・リミットまで読書する

 ホッファーは初等教育をまともに受けていない。それは、7歳の頃、突如として視力を失い、学校に通うことができなかったからだ。その頃、丁度母親が死んでいる。失われた視力は、15歳のときにやはりまた突如として回復する。しかし翌年には父親が死に、生活そのものが一気に不安定になる。

 しかしながら、学校に通わずとも、ホッファーはその天才的な資質を既に年少の頃からみせていたようだ。

 ホッファーの知的営為は、年少の生活環境に大きな影響を受けているようにみえる。彼の父親は独習の家具職人で家の本棚には数学、植物学、化学、音楽、その他様々なジャンルの英語ないしはドイツ語の本が百冊近くあった。そのような文化資本に加え、驚くべきことに、幼いホッファーは、本を分類する遊びをするなかで、やがて英語とドイツ語が読めるようになったという。



「私は本棚にあった本を大きさや厚さ、色で分類して遊ぶことに夢中になる。さらには英語とドイツ語の本を分けられるようになった。そしていつのまにか内容によって本を分類できるようになったのだ。五歳になる前には英語とドイツ語が読めたということだろう」(8p)
 


 ホッファーに従うならば、失明する以前に、彼はリテラシーを獲得することができていた。書くことはできずとも読むことができる。だから、15歳で視力が回復すると、すぐさま読書にとりかかる。



「またすぐに目が見えなくなると思い込んでいたので、目を酷使することなどまったく心配せず、それから三年間朝から晩まで本を読んで過ごしていた。とにかく再び失明する前にできるだけ読んでおきたかったのである」(10p)
 


 ホッファーの知的関心は、年少の頃の膨大な量の読書に基礎をもっている。大学云々以前に、文字を習うために、彼は学校も教師も父母も必要としてなかった。ただ、モノとしての本が沢山あれば、事足りたのだ。そして、文字さえ習ってしまえば、こっちのものだった。彼はそうして終生、独習を続けた。

 ちなみに、この頃の愛読書はドストエフスキー『白痴』であった。というのも、父親は失明したホッファーのことを「白痴の子ども」と呼んでいたことがあり、ホッファーもそれを覚えていたからだ。


・「世の中」を/で教わる

 運のいいことにそれ以降、視力がなくなることはなかった。けれども別の不運がふりかかる。父親の死である。父が死んで、300ドルだけを手にした18歳の青年は決して不安を感じなかった。けれども、客観的にいえば、金を稼ぐ必要に迫られていた。

 まず彼がしたことは、ロサンゼルスで市立図書館近くの安アパートを借り、本を借りては一日中読みふけることだった。両親が死のうが何だろうが、関係ない。彼自身にとってみれば「またすぐに目が見えなくなる」という有限性の感覚に切迫されていたからだ。

 しかし、金も食料も尽き、飢餓状態になるなか、街のレストランにて皿洗いをする代わりに食事をさせてくれるよう申し出た。そこで、(日雇いではあるが)職を得るには貧民街の州立無料職業紹介所(所謂ハローワーク的なもの)に行くことを教わる。「レストランでは、年配の店員が食器の扱い方だけでなく、世の中のことをいろいろ教えてくれた」(15p)のだ。

 紹介所でも若きホッファーは「世の中」を肌で感じることになる。



「言葉を交わした人間の誰一人として、自分の不幸を他人のせいにする者はいなかった。人生を語るときは、ほとんど例外なしに「悪いのは自分なんですが」と前置きする作法になっていた。紹介所に来ている人は移民が多く、彼らの話から出身国についていろいろ知ることができた」(18p)
 


 旅することが旅することのすべてではない。旅行に行かなかったカントが、しかし、港町のケーニヒスベルクで、多様な国籍の船が行き交う様を眺め、独自のコスモポリタニズムを養ったように、ホッファーもまた人種や民族のルツボ的世界に投げ込まれることで、動かないにも関わらず、特異なトリップに身を任すことで野生の知を育んだといえる。ホッファーもまた「海辺のカント」的知性の持ち主だった。

 これは、後に従事することになる沖仲士の仕事でも同じことがいえる。共に積み下ろしをする作業員は日々交代した。見知らぬ人と一緒に仕事すること、それが普通である場所、つまりはアメリカ。紹介所を中心とした経験は、著作でしばしば垣間見れる彼のアメリカ観、そして知識人批判論に大きな影響を与えてえているようにみえる。



「アメリカという国は、建国以来、いわゆる知識人に社会に関する権力を与えたこともないし、一般の国民が彼らの高説に耳を傾けてその態度や行動を決定したこともないと私は思っています。〔中略〕アメリカは、いわゆる“サイレント・マジョリティ”の国です」(インタビュー「百姓哲学者の反知識人宣言」、EHB、38‐39p)
 


 アメリカでは知識人は機能しないし、事実、機能してこなかった。前衛なき大衆がアメリカの本質である。1930年代にホッファーは知識人論を著作としてまとめようとするが、その根本には、一日だけ共に働いたアメリカのサイレント・マジョリティたちとの接触があった。「自分の身のまわりにある“世界という本”から学ぶべきものであって、“本という世界”から学ぶものではない」(EHB、38p)のだ。


・労働者から放浪者へ

 最初に紹介されたのは、芝刈りの職だったそうだ。続いて、オレンジ売り。次に日雇いではない定職を望み、導管倉庫の仕事に就く。その頃から読書ノートをとりだした。

 しかし、1930年、28歳になったとき、彼は仕事を已め一年間働かないで過ごすことにした。その間に自殺も試みているが、未遂に終った。そして、季節労働者として、ロサンゼルスを旅立ち各地を渡り歩く。

 カルフォルニアのエル・セントロは、訪れた各地のなかでもとりわけて重要な土地となった。そこでは市が提供する季節労働者のキャンプがあり、労働者たちに食べ物と寝場所を与えていた。そこで、ホッファーはキャンプ場にいる者たちに共通したある特徴を見つける。端的にいうと、「明らかに無傷で五体満足なのは、二百人中七十人だけだった」(64p)。



「人間の体つきと存在様式が深く結びついていることは、はっきりしている。われわれの大半は、社会的不適応者〔misfits〕だった。われわれにとって定職につくということは軋轢を生むこと以外の何ものでもなかった。びっこになった者もいれば、怯えて逃げ出した者もいるし、酒に溺れた者もいる。六十人は確実に飲んだくれだった。われわれは、必然的に一番風当たりの弱い場所、つまり戸外の路上へと流れ出た」(64p)
 


 しかし、その「路上」こそが、同時に、「開拓」の場所だったのではないか、というアイディアにホッファーはとりつかれる。それはやはり、(開拓の国である)アメリカを考えることと同義だっただろう。同州インディオで見た労働者たちが作ったグレープフルーツ果樹園の隣りには、砂漠が広がっていた。「開拓者としての放浪者」(65p)。



「人間はめったに居心地のよい場所を離れることはないし、進んで困難を求めることもない。財をなした者は腰を落ち着ける。居場所を変えることは、痛みを伴う困難な行動だ。それでは、誰が未開の荒野へ向かったのか。明らかに財をなしていなかった者、つまり破産者や貧民。有能ではあるが、あまりにも衝動的で日常の仕事に耐え切れなかった者。飲んだくれ、ギャンブラー、女たらしなどの欲望の奴隷。逃亡者や元囚人など世間から見放された者」(66p)
 


 1955年(53歳)に、ホッファーはハンナ・アーレントと知り合うことになるが、アーレントはドイツの哲学者マルティン・ハイデガーの弟子であったことを考えると、その巡り合わせは興味深い。ハイデガーは「故郷」に「住むこと」の哲学者だったからだ。対して、ホッファーは故郷を追われ、住居を転々とする放浪者にこそ、アメリカを象徴するフロンティア・スピリットが宿るのだと考える。
 


「アメリカはその大部分を、孤独な人間たちが開拓した国なのであり、いまなお放任を望む人びとの理想郷なのである」(『安息日の前に』、中本義彦訳、作品社、2004、78p)
 



・モンテーニュ『エセー』

 もうひとつ、ホッファーは放浪時代に決定的な出会いをしている。モンテーニュ『エセー』という本だ。34歳の冬、山仕事に向かおうとしたとき、雪に閉じ込められそうな予感がしたホッファーは、分厚くて活字が小さく挿絵のない書物を用意しようと思った。それで偶然古本屋で見つけたのが、1ドルで売られていた『エセー』だった。

 その期間、ホッファーは「ほとんどおぼえてしまうまで、モンテーニュをくり返し三回読んだ」(91p)という。よく知られているように、『エセー』はパスカル『パンセ』に比肩する、アフォリズムである。このアフォリズムという形式は、彼に大きな影響を与えた。ホッファーの論文は個別でみるとどれもとても短い。



「だいたい、私の書く本は薄いものが多いのですが、学者たちの書くものはどうしてあんなに分厚いのですかねえ? いうことがあまりない時、人々は無理やりことばを積みあげようとするから長くなるんじゃないかしら? 私の考えでは、人間に関する思想で二百語以内で表現できないことなんてそんなにないと思うんですが」(EHB、36p)
 


 こういった趣旨のことも述べていたそうだが、その薄さ、「二百語」の由来は、モンテーニュに認められる。『エセー』は、彼に「これならば書ける」という直観を与えた。ホッファーが論文や著作に本格的に(といってもこれは著述家になることを意味しないが)乗り出すのはこれ以降のことだ。

 ホッファー的知性の横に、その朋友として幾人か並べてみたい衝動を感じる。アフォリズム的形式の面でヴァルター・ベンヤミン、或いはホッファー以上に慣れない労働に尽くしたシモーヌ・ヴェーユ、或いは大衆論への関心の側面として「大衆の原像」の吉本隆明。面白いことにいずれもいつか「在野研究のススメ」で取り扱わなければならない超大型思想家かもしれず、彼等が時代や場所を異にしつつも、在野研究的形態として共鳴するものがあるようで、興味深い。


・沖仲士の仕事

 放浪生活は10年ほど続いた。そして1941年、39歳のときに、ホッファーはサンフランシスコに居を定め、港で沖仲士として働きはじめる。ちょうど真珠湾攻撃の直後だった。ホッファーは国のために役立ちたいと思ったのだ。



「港湾労働者と季節労働者には多くの共通点がある。道にも波止場にも安定したことはない。週七日波止場で働けば、違う上司の下で違う人びとと一緒に七隻の船の上で働く可能性が高い。組合員の人種比率は、季節労働者のそれとほぼ同じだった」(148p)
 


 基本的にやっていることは変わらない。ホッファーは学のない組合長が仕事を指揮するのを見て、「他の国ではエリートが携わるような仕事にこの国では誰も従事しないということ、これこそがアメリカの独自性の一つ」(149p)であることを再確認する。

 だから次のような帰属感覚も、アメリカ的帰属、つまり帰属なき帰属感覚と読まねばならない。滞在期間は関係ない。



「私はこれまでどこに行ってもアウトサイダーと感じていた。波止場では強い帰属感をもつ。もちろん、ここに根がおりるほど長くとどまっているのも一つの理由である。しかし、ここでは一日目からくつろいでいたように思う」(『波止場日記――労働と思索』、田中淳訳、みすず書房、1971、163p)
 


 この波止場にて、ホッファーは25年間ほど働く。働く時間は日によって異なり、だいたい、四時間半から八時間の間だったそうだ。一日二食。職場では昼休みや小休止に、読書やノートをとるホッファーの姿が見られた。仕事仲間たちはホッファーのことを「プロフェッサー」と呼んでいた。


・雑誌投稿と処女作

 沖仲士を始めた年、ホッファーはたまたま雑誌『コモン・グラウンド』を読む。誌面では、外国生まれの者にアメリカを、アメリカ人に外国生まれの者を紹介する企画が書かれており、興味をもったホッファーは書き溜めていたノートに「好ましからざる者たち The Undesirable」という題を付けて投稿した。もちろん、キャンプで知り合った社会的不適応者の話であった。

 論文は掲載されなかったものの、その投稿がきっかけとなり『コモン・グランド』誌の副編集長だったマーガレット・アンダーソンと知り合いになる。彼女はホッファーを激励し、その激励の応えるかたちで、彼は処女作『大衆運動』を書き上げ、出版するに至る。大衆への興味は、アメリカを支えるあの匿名的な前衛なき大衆との出会いに端を発していた。

 『大衆運動』のエピグラフには、アンダーソン宛に、「大陸の東海岸にいる彼女が大陸の西海岸にいる私を絶えず激励してくれなかったらこの書物は書かれずに終っただろう」という文句が刻まれている。

 『大衆運動』以降、カルフォルニア大学のバークレー校で政治学を教えたり、いくつか賞をもらったり、テレビ番組で特集されたりすることで、ホッファーの名声は一気に高まった。正にアメリカン・ドリームだ。1967年、65歳で沖仲士の仕事を引退する。しかし逆にいえば、著述業がどんなにうまくいっても、彼は肉体労働を定年までやめることがなかったのだ。ホッファーは自分のことを知識人や著述家だとは終生思わなかった。


・仕事の制限とアクセシビリティ

 一般に、労働と知を両立させた労働知識人としてホッファーは捉えられる。しかし早合点してはいけないのは、ホッファー自身は仕事礼讃の人ではなかった。



「われわれは、仕事が意義あるものであるという考えを捨てなければなりません。この世の中に、万人に対して、充実感を与えられるような意義ある職業は存在していないのです。〔中略〕産業社会においては、多くの職業が、それだけを仕上げても無意味だとわかっている仕事を伴っているのです。そういうわけで、私は一日六時間、週五日以上働くべきではないと考えています。本当の生活が始まるのは、その後なのです」(167p)
 


 「本当の生活」とは何か。もちろん、在野研究である。ホッファーは研究と金銭との結びつきを、言い換えれば、研究を職業化することを拒否した。ある程度の時間を分配して、知の領野とは別のところから資金を調達してきて、あとは自由に読み書き学ぶ。これがホッファーのスタイルだった。ホッファーは「やりがいの搾取」(本田由紀)に陥らないで済む。

 もう一つ、ホッファーのライフスタイルで見落としてはいけないのが、最初のロサンゼルスでもそうだったが、彼が各地を転々としたさい、いつも公共図書館の近くに居を構え、知的リソースへのアクセシビリティ(近づきやすさ)を確保しようとしていたことだ。

 これは在野研究的に極めて重要な知見だ。研究に必要な資料その他から物理的に遠ざかりがちな在野研究者にとって、その遠さはそのまま研究からの遠さに直結してしまう。とりわけホッファーのように引越しを繰り返す根無し草にとって、膨大な蔵書を収める書庫を私有することは難しい。引越しのたびに重荷になってしまうからだ(ちなみに、その身軽さを支えたものとして、ホッファーが終生、独身の身の上で過ごしていたことは注記しておいていい)。

 その点、公共図書館を活用できたことは、結果的にみて、ホッファーの在野生活に大きなアドバンテージをもたらしたといえる。住まいを図書館近くに陣取ることで、(各地に点在しているため)知を重荷にせず、しかも大量の知に恵まれた教育環境を、自分で設定することに成功している。ここには大きな教訓があるようにみえる。


・エリートなどいらない

 ホッファーが知識人批判を繰り返していたことはすでに述べた。ホッファーにとって知識人とは次のような存在を指す。



「私のいう知識人とは、自分は教育のある少数派の一員であり世の中のできごとに方向と形を与える神授の権利を持っていると思っている人たちである。知識人であるためには、良い教育を受けているとか特に知的であるとかの必要はない。教育あるエリートの一員だという感情こそが問題なのである」(『波止場日記』、2p)
 


 もちろん、ホッファーは「エリート」を否定する。とりわけてアメリカの地では。続く筆致は極めて手厳しい。



「知識人は傾聴してもらいたいのである。彼は教えたいのであり、重視されたいのである。知識人にとっては、自由であるよりも、重視されることの方が大切なのであり、無視されるくらいならむしろ迫害を望むのである」(『波止場日記』、2p)
 


 推測でいうが、ホッファーはポスドク問題など一笑に付すのではないか。それは重んじられ、大事にされたがっている、典型的な知識人の病だ。大事なのは、大学人であれ下層労働者であれ、属性も所属も問わず誰もが勝手に自由に学べる社会を構想することだ。



「本を書く人間が清掃人や本を印刷し製本する人よりもはるかに優れていると感じる必要がなくなる時、アメリカは知的かつ創造的で、余暇に重点をおいた社会に変容しうるでしょう」(インタビュー「学校としての社会に向けて」、EHB、59p)
 


・大学村を構想する

 ホッファーは晩年の日記で面白いことを述べている。端的にいうならば大学村(大学州)をつくってみんなで共同生活すればいいじゃないか、という提案だ。



「インテリ限定の特別移住区をつくるべきだ。大学教授や学生、作家や芸術家が運営する州でもいいだろう。そこにはおそらく共同社会ができるだろう。慢性的な貧者は協同して村に住み、そこで野菜や果物、卵や牛乳の作り方を教わるだろう。青年たちは農業と工業の双方に従事する大きなキブツのメンバーになるだろう。老人たちもまた共同社会的な環境のなかに住み、そこで自分の存在価値と学習し成長する機会を見出すだろう。最後に、一時的失業者は小さな土地を与えられ、そこで野菜を栽培したり、狩りや釣りをしたりできるだろう」(『安息日の前に』、117p)
 


 しかし、このような大学村は別の地域と切り離されてはならない。大学村はインテリに開かれていると同時に、社会的弱者と普通レッテル張りされる「開拓者」にもまた開かれねばならない。



「この共同体的な州は、国の他の地域と切り離されるべきではない。人生の競争に疲れた人たちは自由にこの新しい州に移住できる。慢性的な貧者がいったん自立できるようになれば、自由な資本主義社会に復帰することもできるだろう」(『安息日の前に』、117‐118p)
 


 大学村は大学州であり、それは他の州との連携によって相互に支え合っている。資本主義にとっても大学村は大事な再生産の場、簡単にいうとオアシスとして役立つことができる。社会は大学社会にならなければならぬ。

 ホッファーは学校に通えなかったと冒頭近くに述べた。間違っていた。彼は社会という名の学校に死ぬまで通っていたのだ。