これは凡ゆる小説にいえることだが、あるキャラクターが作中で一番最初に一体どんな行動をとったか、ということは、決して読み流してはならない小説読解の重要ポイントだ。というのも、その行動如何でキャラクターの第一印象が決定してしまうからだ。舞城王太郎『阿修羅ガール』(新潮文庫、2005)の場合、それは余り親しくもないクラスメイトとのセックスであり、とりわけ「顔射」されることに激怒することだった。顔射に怒る少女、これが本書主人公の第一印象である。



「ボケーッとしたままだったら、あのまま佐野の汚らしい精子が私の顔に襲い掛かっていただろう。そうなったら、私の自尊心はもう二度と取り戻しようのない手の届かない遠くの暗闇の一番暗くて冷たくて淋しい場所に音もなく落ちて沈んで細切れのズタボロになってとうとう消滅してしまっていたに違いない」(12p)
 


 好きでもない男子・佐野と何の気なしに関係を結ぶこととなった主人公の桂アイコ。運良く精子は彼女の反射神経の鋭さが幸いして「顔」ではなく「左腕」にかかるだけで済む。いや、こんなことを書くとアイコに怒られてしまうかもしれない。



「つーかそれ、「だけ」じゃないし。私の大事な左腕が。ご飯を持つ手が。これからご飯を食べる時にはマネキンとバービードールみたいに左腕を肩からスポンと切り離して自分の部屋のベッドの下にでも隠して右腕だけでテーブルにつきたい。私の大事な左腕は、佐野明彦の阿呆のせいで汚れてしまった」(13p)
 


 少年がベッドの下にいかがわしい本を隠すように、少女アイコも精子のかかった自分の左腕を隠したいと願う。それは、穢れたものだからだ。そして、彼女は秘密を抱える。汚れた左腕、端的にいえばクラスメイトとの関係を「内緒にしておきたい。秘密のままで放っておきたい」。しかしこの秘密が、やがてミステリーの骨格をもちつつも少しばかりホラー風味が付け足された奇妙不思議な小説の筋立てに発展していくことを、彼女はこの時点では予見できない。

 「マネキンとバービードール」、既に明らかなように、冒頭部から作中で延々繰り返されることになる〈寸断された身体〉のイメージが予告的に配置されている。誘拐されて指だけが自宅に送られてきた佐野誘拐事件、グルグル魔人による三つ子ちゃんバラバラ殺人事件、臨死体験内世界で子供の顔と手を切り取って自分のものにする森の怪物、そして阿修羅像の挿話。寸断された身体は、モザイク状に再構成されるテクスチャーとして再臨する。切って貼って、破いて繋いで、裂いて縫って、粉々にして集めて潰して。そんな離合集散の力動的プロセスに巻き込まれながらも、アイコは愛の本質を、「核」や「芯」を愛することに求める。



「人が人を好きになるときには、相手のこことかそことかこういうところとかああいうところとかそんな感じとかそういうふうなとことかが好きになるんじゃなくて、相手の中の真ん中の芯の、何かその人の持っている核みたいなところを無条件で好きになるんだろうと思う」(43p)
 


 他者を愛することとは、他者の腕だとか雰囲気だとか生殖器だとかを愛することではない。「芯」や「核」を愛することだ。しかし、このような提言が上記のプロセスの中では極めて困難な営みであることは明らかだ。身体部位が切りとられ、別のパーツとして交換されていくこの小説世界にあって、一般的には納得できる「芯」への愛は、まったく説得力をもちえていない。身体の不断のパッチワーキングは「芯」や「核」をすぐさま解体させてしまうのではないか。その場合、一体「芯」や「核」とはなんなのだろうか。

 例えば、「顔」は特権的な身体部位のひとつと考えられるかもしれない。実際、この小説は顔の物語群の集合体といっていいほどに、顔が溢れている。顔射を嫌がったアイコは、行方不明になった佐野の事件に関し、女子クラスメイトたちからトイレで「シメ」られるものの、隙を見てリーダー格の女生徒・マキの顔面に膝蹴りを何度も食らわす。顔の因縁は、別の顔の因縁を生み出す。顔射から膝蹴りへ、そして因縁は物語を大きく動かすマキの復讐行為を準備する。

 アイコはマキに復讐される。しかし、その結果、臨死体験を経験するなかアイコは自分の奥底に潜んでいた、複数の顔をもつ「怪物」を見出す。たったひとつの自分の顔、面子(メンツ)、即ち「自尊心」に執着していたアイコにとって、これほどまでにおぞましい怪物が他にいるだろうか。怪物には代わりの顔、スペアーの顔しかない。しかし最終的に、アイコはその怪物を受け入れていく。



「私もヒトだから、内側にたくさんの人格があって、いろんな声があって、それらが様々な音を立てている。それらを全て支配しているあの怪物はつまり、私自身だ。あの姿、あの形、あれはつまり、私の人格とか自己像とか、そういうものとは関係ない、もっと奥深くの、真ん中の、芯とか核とかそういうものなんだろう。エゴ?良く判んないけど、そういうの」(313p)
 


 しかし、それは単なる「エゴ」イズムではない。その化物に飲み込まれたアイコは別の人間、三つ子殺害事件を起こした「グルグル魔人」の内面に入り込む。「怪物」は実の処、自己と他者とを繋ぐワープホールでもあったのだ。決して「グルグル魔人」とアイコが例外だったのではない。「どんな人間にも、その怪物を封印する暗い森があって、そこでそれぞれの森の怪物を絶えず養い培い膨らませている」(313p)のだから。

 怪物とはだから、各人の交換不能な固有性であると同時に、交換不能な固有性を分有するもの、即ち人間性=人類humanityそのものである。そう、「私とグルグル魔人は同じ人間だったのだ、と言えると同時に、他のいろんな人も私とグルグル魔人と同じ人間なのだ」(312p)。私たちは怪物を共有している。人間性という複数性で出来上がった怪物を。

 こうして、アイコが最初に述べていた「相手の中の真ん中の芯の、何かその人の持っている核みたいなところ」は異形の相貌と化して、アイコに、それ以上に我ら読者の下に還って来る。ある他者の「芯」は、別の他者の、或いは「私」の「芯」でもある。ファイバーで出来た私たちはファシストだ。ある他者の「核」は、別の他者の、或いは「私」の「核」でもある。私たちはいつも核分裂している。然り。ある個体の「芯」や「核」を愛するということは、須らく、個体愛をワープホールにした博愛、恋愛と共にある人類愛でなければならない。それが『阿修羅ガール』の恋愛論である。

 カノジョを愛するとき、私たちはカノジョの顔を愛する。目や手や仕草も愛する。カノジョの父母や兄弟も愛する。カノジョの生まれた土地を愛し、通っていた学校を愛し、一緒にデートした先々を愛する。感染的に広がる愛は、結句、人類愛を構造的に要求している。誰の中にも覆面ならぬ複面の「怪物」がおり、しかもこれこそがその人の「芯」や「核」にほかならないのだから。愛することは、決定的に徹底的に完全完璧に余すことなく愛することでなければならない。「惜しみなく愛は奪ふ」ものだ(有島武郎)、そう、惜しみなく。世界を愛し、世界を奪わない愛など、愛の名に値しない。



「私は私独自のホトケのイメージを持っていて、それをとても気に入っている。私のホトケ様はキリストの神みたいに罰を与えて人を諭そうとしたり試練を与えて人を試そうとしたりしない。ただひたすら深い深い慈悲の気持ちを持って相手が悟るのを待つ。私のホトケに時間は関係ない。〔中略〕だいたい人も神様も、悪いことばっかりはしてられない。一つのキャラをずっと演じてばかりはいられない。だから悪いことばっかりし続けるのにさすがに少し疲れたときとか、なんかもう飽きてきたときに、ちょっといいことしてしまう。そして結局のところ、いい事をするのはいいところを持っているってことだし、いいところを持っているということは、いい人なのだ。いい神なのだ」(324p)
 


 もし誰のなかにも複面の怪物がいるのならば、「キャラをずっと演じてばかりはいられない」ように、顔のストックを通じ、或る顔を借りることで、誰かは全く別の誰かになれるのかもしれない。良くも悪くも。しかし「ホトケ」はそれを完全にポジティヴに解釈する。悪は待ち続ければ、善に反転する。そして反転可能性が潜在的にでもあるのなら、この世に生れたすべてのものは本性的に善である。小阪修平ならば「自同律の愉快」(無論、埴谷雄高「自同律の不快」のパロディだ)と呼ぶかもしれない。その決定的に徹底的な愛のことを、私たちは、本文の言葉を借りて「慈悲」と呼ぶことができるだろう。

 表題にある(そして本編中でも重要な役割を担うことになる)阿修羅asuraとは、サンスクリット語でasu(命)+ra(与える)の意味で元々善神とされていたが、その後、a(否定)+sura(天)と解され、悪神として地位が下げられたという伝説が伝えられている。阿修羅とは歴史的に反転可能性の神であり、だからそれ故に「慈悲」の神であり、またそれ故に人間性そのものなのである。『阿修羅ガール』とは決定的に徹底的な人間肯定の書である。