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      ↑『東京朝日新聞』1921年11月9日。

 野村隈畔(1884-1921)。読みはワイハン、本名は善兵衛。哲学者。小学校卒業以降、独学により東洋哲学・西洋哲学を学び、フランスの哲学者ベルクソンの解説書を書く。最期は、自身の哲学に共鳴する女学生と情死。著書に『ベルグソンと現代思潮』(大同館、1914)、『自我批判の哲学』(大同館書店、1919)、『現代の哲学及哲学者』(京文社、1921)、『孤独の行者』(京文社、1922)。その他多数。



 ◎野村隈畔略年譜
 
1884年 8月5日、福島県伊達郡睦合村にて誕生。次男。
1907年 次子と結婚。
1908年 妻を残し、上京。東京にて哲学研究を志す。
1909年 妻も上京。娘・美代子が誕生。
1912年 キリスト教入信。のちに棄教。
1914年 『ベルグソンと現代思潮』(大同館)。
1915年 『自我の研究』(警醒社書店)、『春秋の哲人』(六合雑誌社)。
1916年 茅原華山らと共に雑誌『第三帝国』を創刊。
1917年 『自我を超えて』(警醒社書店)。
1919年 波多野精一に学位論文を提出するも不合格。
1920年 筆禍事件を起こし投獄。『未知の国へ』(日本評論社出版部)。
1921年 『文化主義の研究』(大同館書店)。10月、岡村梅子と情死。11月5日に遺体発見。 
 
 

・ベルクソンから隈畔へ

 野村隈畔とは一体何者なのか? 彼を知っている人は少ないかもしれない。私自身、有島武郎を研究するなか、とりわけ有島武郎のベルクソン受容を考えるなか、参考文献でたまたま目にしたのが同時代にベルクソン紹介をしていたという「隈畔」なる見慣れぬ文字であった。きっと専門的な書物をひもとく習慣のない読者にとっては、その存在を知る術などあろうはずもないマイナー研究者に違いない。

 業績を先に紹介しておこう。野村隈畔の一番の学術的(に近い)業績は処女作の『ベルグソンと現代思潮』である。日本に於けるベルクソン受容については、宮山昌治「大正期におけるベルクソン哲学の受容」が詳しいが、これを要約しておけば、輸入そのものは明治末期、西田幾多郎によって始められ、これを下敷きに大正期になると対カント哲学の文脈でベルクソン・ブームが起こる。その文脈で登場したのが、隈畔の処女作であるベルクソン論だ。

 ただし、ベルクソン論以降、隈畔の仕事は学術的とはいえない作物を生み出していく。死後出版の『孤独の行者』などは、ニーチェ『ツァラトゥストラ』を真似たような、哲学的小説である。美学者・中井正一は、ベルクソン論から三年後に出た『自我を超えて』を京都の古本屋で買ったものの、その本のなかに「学術的、研究的なものではない」などという書き込みをしているそうだ(馬場俊明『中井正一伝説』、ポット出版、2009、44p)。

 これは後述するように、海外思想の翻訳や紹介に終始する大学哲学と哲学そのものの営みの間に隈畔が乖離を読み取ったことに由来している。もちろん、ホンモノの哲学は後者で、前者はニセモノ哲学だ。正に中江兆民の「我日本古より今に至る迄哲学無し」(『一年有半』)の嘆きをそのまま受け継いだような男が野村隈畔だった。

 しかし、そういったこと以上に(在野研究的にみて)隈畔が興味深いのは、彼は元々小学校を出た程度の学歴しかない一農民だったという事実だ。普通に考えて、隈畔には(金銭的にも人間関係的にも)学的資本と呼べるものは何もない。学校もなければ学友もない。それ以上に金がない。福島の(そう、あのフクシマの)貧しい農民の青年がどうやって学ぶことを諦めず、学問を続けることができたのだろうか?

 生粋の在野精神と呼ぶべきものがここにある。そのようなゼロ地点から、彼はどうやって学びを続け、物を書いていったのか。半生を振り返った作文を中心に所収している死後出版『自由を求めて』(京文社、1922)を用いて、その謎めいたモチベーションの源泉を解き明かしていくことにしよう。 


・徹底的な労働嫌い


「私は幸か不幸か農家に生れたので、十年前までは農村の労働者であつた。父は尋常小学丈けで止めさるといふのを、無理に願つて小学全科を出して貰つたが、あとは家に居つて百姓をしなければならなかつた。同窓の友達が中学校や師範学校や、その外彼等の志望せる専門学校などに喜び勇んで入つて行つたのに、私は淋しい田舎にゐて父や兄の手伝いをするのが、実に情けないと思つた。友達が夏休みなどに田舎に帰つて来るのを見ると、堪らないほど羨ましかつた。併し私は百姓をしてゐても、中学や大学に這入つた友達などに負けない程勉強してやらうと思つた」(2‐3p)
 


 小学校時代の隈畔は算術を不得意としていたものの、成績優等という理由で役所から賞をもらったこともあった優等生だった。しかし、貧困ゆえに、学校に通い続けることはできず、卒業後は父母の農業の手伝いをさせられた。

 隈畔のモチベーションを根本的に支えたのは学歴コンプレックスであり、格差を生み出す資本主義社会や貧困だけに縛られた田舎の閉鎖性への憎悪である。学びたいのに、学ぶことを許されず働かなくてはならない。なぜ自分だけが? もちろん、特に理由などない。「農民」という自分の誕生に先立って定められた条理なき生の枠組みに、隈畔は常に反抗していた。そして、その枠組みの象徴が隈畔にとって労働行為だった。



「私はいつも自分の家のサボターヂをやつてゐた。私のサボターヂは賃金が少ないとか、労働時間が長いとかいふ為めでなく、労働することそれ自身が厭やであつたからである。〔中略〕自分の体質が農業に堪へ得るほど健康でなかつたので、労働するのが厭であつた。又労働のための労働をやつて何等人生の意義をも考へてゐないやうな労働には迚も私の本性そのものが堪へ切れなかつた」(4p)
 


 隈畔の労働嫌いは徹底している。後で見るように、隈畔は結婚後、労働全般を妻に押し付け、労働する者を悪人視する自身の哲学的理念を決して曲げなかった。隈畔にとって労働に費やされる人生に価値はない。価値ある人生とは創造的な仕事をなす人生である。

 レイバーよりワーク。この態度は結婚以前も同じであって、隈畔は小学校卒業以後、野良仕事の隙をみて学習に励む。正に在「野」研究である。孤立無縁の隙間学習が隈畔の基礎学力の根本になった。そのような学び方は東京へ旅立つ25歳まで続いた。


・倫理への興味

 そもそも具体的に若き隈畔は何を学びたかったのか。一言でいえば、それは倫理である。

 隈畔の父母は不仲で、母親が実家に帰っていくことはしばしばある家庭だった。口論も絶えなかった。そんな中、隈畔は学校で教わる「孝」に対して疑念をもつ。「若し両親が不幸にして絶縁することあつたとすれば、その子供は孰れに従ふべきであるか、父に従ふのが孝であるか、母に従つて行くのが孝であるか」(96‐97)。学校の教師に聞いても回答は得られなかった。
 


「私はその時非常に失望した。それから私は孝の研究を始めようと思つて、倫理に趣味が出て来たのである」(97p)
 


 だからこそ、百姓仕事をしながら、第一に読もうと取り掛かったのは、倫理に関する本だった。しかし、本が難し過ぎるためよく分からなかった。分からないながらも倫理が哲学と近接領域であることを知った隈畔は、今度は哲学と名のつく著作を読もうとする。しかし、もちろんそれで分かりやすくなるはずもない。
 


「私は田に水引きをしながら畦に腰を下して宗教哲学を読んだ時、『範疇』とか、『規範』とか、その外無数の直訳語がサツパリ解らないので、遂に泣き出して了つた。私はこの時程残念だと思つたことはなかつた」(98‐99p)
 


 哲学書の難解さは現代の我々でもしばしば頭を悩ませるものであるが、小学校しか出ていない隈畔にとって、その困難は尋常ならざるものであっただろうことは想像に難くない。しかし、運良く(?)隈畔はそこで諦めなかった。一筋の光明として差し込んできたのが隈畔の生涯の師といっていい岸本能武太の著作であった。

 その縁は決定的なものだ。というのも、東京に出てくるのを助け、また雑誌にものを書く仕事の機会を与えてくれたのが、他ならぬ岸本であったからだ。


・師匠としての岸本能武太

 岸本能武太(キシモトノブタ)とは、1866年から1928年まで生きた日本の宗教学者である。同志社英学校卒業後、アメリカのハーバード大学に留学。そこでユニテリアンの信仰を抱く。帰国後、東京専門学校で比較宗教学を教え、1896年には姉崎正治とともに比較宗教学会を創設する。

 隈畔と岸本の出会いは著作を通じた一方的なものだった。難解な翻訳哲学に頭を悩ませていた頃、偶然、隈畔は日本へ帰国した岸本が出した最初の著作『社会学』(東京専門学校、1898)を読み、目から鱗が落ちる経験をする。



「私がそれを読んで学術の興味を感じたばかりでなく、深く先生の人格に感動させられた。というのはあの本が難渋な直訳的な哲学書と違つて、読んで極めて面白く理解し易いと同時に、人生に対する富膽なる興味と深い同情とを、K先生の人格に認めたからでした」(80p)
 


 隈畔は専門用語に関する質問をするために、岸本に私信を出してさえもいる。そのたびに、岸本は「一々明細に平易に説明して下された」(80p)という。また、当時岸本が新刊として出した『倫理宗教時論』(警醒社、1900)の献本を隈畔は受けてもいる。こうして岸本の存在は「学問をやりたいと希望するやうになつた、又東京に出て来るやうになつた最初の動機」(79‐80p)となったのだ。

 隈畔には学校もなければ学友もいなかった。けれども、師匠がいた。文面でしか知れなかった師匠ではあるが、隈畔は師が発する微光を頼りに、哲学の難解さに打ちひしがれず、孤独のうちで在野研究を続けることができたのだ。


・真っ暗闇の上京

 岸本のいる東京に行けば、学問ができるかもしれない。結婚をした25歳の隈畔は新婚の妻を田舎に残し、希望を胸に抱いて東京へと旅立つ。しかしもちろん東京に行ったからといって貧困から抜け出せるわけではなかった。



「強いてそれ〔哲学〕を学ばうとすれば、高い月謝を払つて何処かの大学に這入り込まねばならなかつた。併し月謝を払つても私を正当に入学さしてくれる大学は一つもなかつたのである。それもその筈である。私のやうに中学も出てゐなければ高等学校などいふものは無論知らない。それにABCさへも読めない田舎者が、突然大学に這入り得ないのは無理はない」(6p)
 


 学を志し上京するもの、隈畔は予め定められていた貧困という自身の条件に再度ぶち当たる。金がなければ、勉強はできない。学問が根本的に資本に支えられていることを実感する。こうして彼は「大学といふものを呪ひ初め」、続いて「現代の教育そのものを根柢から悪み初めた」(6p)。

 根っからあった学歴コンプレックスが再燃する。一応、この憎しみは一時的には収まったようだ。というのも、東洋大学で試しに一ヶ月だけ哲学の講義を聴講生として聞いてみたが、偉い学者が話すその内容は、隈畔にとっては空疎なものに思えたからだ。



「それは勿論東西の哲学を兼ねたものであつた。併し何うも馬鹿々々しくて、中学出の子供達と一緒に聴いて居れなかつた。私はその時初めて学者といふものは案外馬鹿なものであり、大学の教育なんていふものは一向つまらないものだといふことを知つた」(7p)
 


 ここには、隈畔が繰り返し提起する、大学の哲学は本当の哲学ではない、という考え方の原体験が認められる。今日でいえば、中島義道がよくいう、哲学と哲学研究は違う、といったタイプの考え方だ。大学哲学には創造性がない。同じ理由で隈畔は労働を嫌悪することになる。言い換えれば、大学は哲学を労働化させてしまっている。ここに隈畔の不満があった。

 しかしながら、そのような考え方含めて、隈畔の言葉を文字通り受け取ることには躊躇がいる。大学講義を聞いた感想で、わざわざ「中学出の子供達」の存在を意識する彼の筆致には、明らかに学歴コンプレックスが隠されている。つまり、大学の授業が詰まらないとの感想には、多分に、〈酸っぱい蒲萄〉の論理が、即ち、自分の手に入らないものの価値を予め低く設定し元から欲望がなかったかのように偽装する自己防衛の心的メカニズムが働いているようにみえるのだ。

 隈畔は大学哲学への失望した後、語学(英語とドイツ語)を独学で始める。東京に来ても独学が続いたのだ。


・ドツボの生活

 学資がなくなって来た頃、妻が上京してくる。夫の生活を助けるためだったが、働く当てはなかった。それでも女中奉公や女工などをして必死に働くが、隈畔の方は根っからの労働嫌いのため、不甲斐ないとは思うものの、決して働かない。

 当然、生活は逼迫してくる。語学を修めて、いざ哲学書を読もうとしたおり、ついに金がなくなってしまう。「原書さへ沢山読めば、大学教授位のおしやべりも出来るし、物知りにもなれると思つたのに、原書を買ふどころか自分の生活さへ脅かされるやうになつた」(12p)。

 献身してくれた妻さえも田舎に一時戻っている。金銭的な苦境もさることながら、田舎から上京してきた隈畔には(所謂)社会関係資本もない。積み重なっていくのは無能感だけ。こうしてドツボにはまっていく。



「原稿を書いたつて当時出してくれる雑誌もないし、少し語学をやつたからと云つて英語の教師になる事も出来ないし、さればと云つて何処かの通訳なることは無論出来なかつた。当時友達や知り合ひも少くて仕事の世話をして貰ふことの出来なつた私は会社や銀行に這入ることすら出来なかつた。勿論私は算盤をはじくこともしらなければ、簿記とか数学とか言つたやうな特殊の教養もなかつた。従つて私のやうなものは社会にとつて殆ど使ひ道がなかつた」(13p)
 


 極めて同情的にならざるをえない吐露であるが、他方で、別の記述は現代の私たちを困惑させもする。簡単にいうと、それは自己責任なんじゃないか、と思ってしまいかねない。というのも、繰り返しになるが隈畔は労働嫌いであり、それは徹底しており、知的労働である筈の書き物仕事にも当てはまるからだ。
 


「友人達と或る雑誌を起したり、編集をやつて見たりしたが、悉く失敗に終つた。私は毎月事務的に原稿を書いたり、編集をしたりすることが厭で堪らなかつた。殊に先輩や知名の人を訪問して何遍も頭を下げて原稿を頼むのが、何よりも苦痛であつた。その為めに私は悉く雑誌労働を抛つた。それは私が外交や折衝に拙なかつたと同時に内心頗る傲慢であつたからである」(14‐15p)
 


 岸本のツテをきっかけに、統一基督教会の礼拝に出席するようになり、加藤一夫、吉田弦二郎、小川未明などと出会い、彼等との交友を通じて隈畔は雑誌『六合雑誌』に書く機会を与えられる。それに伴って、原稿が雑誌に載るようになってからも隈畔は余り働く気にならなかった。


・波多野精一との因縁

 しかしながら、何のツテを頼ったのか、隈畔は処女作である『ベルグソンと現代思潮』を無事刊行するに至る。その本の序文には後に政治家として活躍することになる早稲田大学教授の内ヶ崎作三郎の序文が付いている。
 
 

「君は独学にして、哲学の蘊奥を窮めむと精励しつゝある、好学の士である。予は過去二年間、君と交りて、その刻苦と勤勉と熱誠とを知ることが出来た。村学の外、系統的教育機関の恩顧を蒙ることなく、其間、或は耕し、或は読み、或は軍隊生活を送り、外部の事情は常に必ずしも君の為めに有利でなかつたにも拘らず、哲学に於ける造詣、外国語に於ける熟達、皆君の友人をして驚歎せしめざるはないのである」(『ベルグソンと現代思潮』、1p)
 


 附録はまだある。内ヶ崎の文章の隣りには、波多野精一が隈畔に送った私信が抜粋されている。波多野精一とは宗教哲学に関して業績のある京大の教官だ。隈畔は自分の文章を送り、波多野の感想をもらっていた。本来ならば、波多野から序文を寄せてもらいたかったそうであるが、「凡例」によれば波多野の体の関係でそれは断られたそうだ。



「本書出版に際し、御病気にて兵庫県芦屋村に療養中の波多野精一博士に序文を乞ひし所、目下の状態にては不可能なりと仰せられたに由つて、止むを得ず書翰の一節を乞ふて巻頭に掲ぐることにした」(12p)
 


 波多野とのこの因縁はその数年後にも関係してくる。隈畔は、どのような手続きを踏んだのか、1919年に波多野に「学位論文」を送っているが、結果、不合格の通知をもらっている。弟宛の書簡でその嘆きを綴る隈畔は、再びあの哲学/哲学研究という典型的分節を持ち出してくる。
 


「学位論文提出は見事に失敗さ。松浦専門学務局長からと京都の波多野博士からと通知が来て審査不合格の理由を報じて来た。要するに論文の研究及び態度において学究的でないといふ理由が不合格の原因であつた。けれども真の生きた哲学は学究的所為でないことは解り切つてゐることだ。僕は失敗しても素より平気だ。唯老衰した博士達を驚かしてやつたに過ぎない」(『孤独の行者』、247p)
 


 果たして「平気だ」という文句が、強がりだったのかどうかは分からない。しかし、ともかくもこうして、隈畔の中の大学への批判意識は決定的なものになっていった。

 ただし、政府から独立した大学が果たす教育的機能そのものについては、隈畔はきちんと認めていたということは注記しておきたい。学の独立と言論の自由とが確保される限りで、大学は政治の諮問機関として機能しうる。だから、原理的にいえば大学の独立や自由は脅かされてはいけない。目指すべきは「条件なき大学」(ジャック・デリダ)である。



「現在の大学は兎に角、大学としては国家内における最高の学府である以上、そこには凡ゆる学術の蘊奥が攻究されてゐると同時に、人類における文化発達の根本原理を追窮してゐる。従つて大学の教授は純粋の学者であると同時に、又一頭地を抜いた人格者として目すべきである。従つて政府と雖も大学に対しては膝を屈して教を請ふべきものであると思ふ〔中略〕政府は自ら進んで凡らゆる政策の根本方針について、宜しく大学に諮問すべきものでなければならぬ」(『文化主義の研究』、272p)
 


・死ぬ気で「ゴロゴロ」する

 本を出しても、一向に生活は楽にならなかった。東京に来てから子供も生れた。二人は「内職」に希望を見出す。具体的には、少し可笑しみを喚起させるが、ずばり、おせんべい屋である。



「これが甘く行けば私のやうな怠け者は洋服など着て朝早く出て歩く必要もなければ、他人のところに頭をさげに行く必要もなく、家に毎日ゴロゴロして居つて気の向いた時に何か一つ位書けば、間に合ふやうに思はれた。そして店では妻が働いて居り、私は私で自分の好きな原稿を書くのであるから、大分二人は睦まじく理想的に行きさうな気がした」(16p)
 


 今日のネット用語でいう処の「駄目だこいつ…早くなんとかしないと…」状態である訳だが、すでに手遅れだった。当然、そのような甘い見通しで生活していけるはずがなく、せんべい屋は「妻が毎日働いてゐても迚も食ふ丈けの半分の利益もある訳けでない」のだった(16p)。そうして嫌々ながら食うために原稿を書く生活が続く。

 けれども隈畔はドストエフスキーが言った(らしい)「現代に対する生きた批判は、たゞゴロゴロして寝てゐるより外に仕方がない」という言葉を引き、完全なる自己肯定をしている。



「現代のやうな社会において強いて生きようとしたり、何かやらうなどゝ努力するのは、実に人間の恥辱である。自由の滅亡である。その人は即ち呪ふべき現代を肯定してゐるのである。社会奉仕などいう無意味な観念で自己催眠をやつて、事業を起したり下らない原稿を書きな薙つたりすることは現代に対する降伏である。況して労働神聖論などを持ち出して現代人の心理を瞞着するが如きはお話しにならない。ゴロゴロして寝てゐることが労働だといふ意味においてのみ、そは神聖である」(19‐20)
 


 断固として「ゴロゴロ」する、寧ろ「ゴロゴロ」しない奴は悪だ、それが隈畔イズムである。注記しておけば、隈畔はこれほどまでに労働を憎悪しつつも、労働運動のような政治活動に全く興味を示さなかった。労働運動は賃上げなど労働環境を改善するために企てられるが、隈畔は労働そのものを憎んでいたのだ。

 『怠ける権利』のポール・ラファルグ、『暴力論』のジョルジュ・ソレルも驚きの、労働への憎悪がここにある。そして、この憎しみはその背面として種々の著作で展開される、「自由」「個人主義」「創造」という彼のベルクソン論以降執着していたテーマ群の根本的な発想源になっている。


・情死の最期 


「私は決して労働者になる為めに生れて来たのでもなければ、この世で一定の職業につくべく義務づけられて来たのでもない。たとひ私の両親がいかにして私を産んだとしても、生れるときは私は芸術家であつた、純真なる自由人であつた。従つて私達は現代に生くべく来たのではなくて、飽くまで芸術の世界、無限に自由の世界に生くべく来たのであつた」(21p)
 


 隈畔哲学の基調は下らない(労働で齷齪する)現世を否定することにある。そして最期もそれに従った。1921年、隈畔は東京音楽学校で開かれた哲学講習会で講師を務めた。そこで、出会ったのが岡村梅子で、彼女は隈畔の反世俗的な恋愛の哲学に魅了される。そして、11月に二人は情死してしまう。

 献身してくれた妻を後に残した隈畔は、38歳の若さだった。日記の最後には「永劫の世界への旅行者」と書き付けてあったという。消失してしまう直前の10月19日に原稿を依頼しに隈畔に面会していた木佐木勝(『中央公論』の記者、1927年には編集長になる)は次のように書き付けている。



「哲学者といわれる人に仕事の用で会ったのは隈畔氏が始めてだったが、哲学者には社会学者や経済学者とちがった特殊な表情――何か倦怠と憂鬱に通じる暗い表情――があるように思った」(『木佐木日記――滝田樗陰とその時代』、図書新聞社、214p) 
 


 その「暗い表情」が死を決意していた男の顔だということに、むろん、彼は気づけなかった。


・隈畔から学ぶべきこと二つ

 隈畔の人生から在野研究的に学ぶべきことは数多い。しかし、ここは、あえて二つに絞ってみよう。

 第一に、不遇な在野生活をしようとするとき対比的に目撃せざるをえないアカデミシャンの生活との落差に対して、いかにルサンチマンを抱かずにいれるのか、ということ。隈畔は哲学/哲学研究の分節に拘った。というのも、その区別は同時に、在野/大学の分節に等しく、大学哲学の価値を否定することで、在野哲学の領域が、言い換えれば自らの存在理由が確保できるからだ。

 しかし、哲学と哲学研究を分けようとする欲望、さらにはその分節にホンモノとニセモノとの分節を重ね書きしたいという欲望には、大きな罠が仕掛けられてはないだろうか。大学でないから良い、という価値判断は、大学であるから良いという判断の反転に過ぎす、所詮同じ土俵に立っている。

 1960年代の公民権運動でアメリカの黒人女性たちは、「Black is beautiful」と言って白人中心主義に対して価値転倒をはかった。過渡的には(カウンター的には)この戦略は全く正しい。けれども、本質的論点は、(もし人権的な観点でいえば)白人だから良いとか黒人だから良いとかいったことではなく、肌の色で差別や権利の制限があることはいけないことだという普遍的な解決に求められる。

 隈畔のアンチ大学的意識は、ルサンチマンやコンプレックスの裏返しであるようにみえるが、その心的メカニズムに取り込まれてしまった瞬間、学問にまつわる様々な問題の本質が隠蔽されてしまっているようにみえる。これをどう回避するのか。困難なことだが、大事なことだ。

 第二に、形に残すことの重要さ。隈畔はぶつくさ文句を書きつつも、ベルクソン論の処女作以降、コンスタントに著作を出し続けていた。著作は10を超える。実際の物書き期間が十年なかったことを考えれば、多作の部類に入るだろう。そして、その多くは現在国会図書館のデジタルアーカイブとして(図書館利用者カードをもっていれば)誰でも閲覧することができる。このエントリを書く際も利用させてもらった。

 隈畔自身はこのような事態など想定していなかっただろうが、インターネットさえあれば、福島であれ何処であれ、田舎の若き在野研究者にも自分の著作を届けることができる。労働嫌いだった隈畔であるが、著作を形として残しておくことにより、アカデミシャンの様々な著作と同じ仕方で取り扱いとしてはフラットに、検索され、画面表示される。あれほど「ゴロゴロ」に拘っていた著者の作物さえも、物(ブツ)として残すという一点を踏むことで、予期せぬかたちで後世に伝わる。物的形式は侮れない。

 最後に。色々と悪口も書いたが、隈畔の文章を読んでいると、どうにも憎めない可笑しみを感じてしまう。ダメダメだけど愛らしい、ハランバンジョーでキテレツなこの哲学者は、在野研究者の単なるサンプルというよりも、より根本的な私自身の研究対象となるのかもしれない、と読んでいて思った。そう予感させるほどの、彼の力強い生の軌跡そのものが、野村隈畔最大の魅力であるのかもしれない。


 ◎文中に書かなかった参考文献
 
・菅野聡美「大正思想界の関心事――自我・文化・及び恋愛を中心に」、『近代日本研究』、1994。
・〃『消費される恋愛論――大正知識人と性』、青弓社、2001。
・福田久賀男『探書五十年』、不二出版、1999。
・舩山信一『大正哲学史研究』、『舩山信一著作集』第七巻、こぶし書房、1999。
・水谷悟「野村隈畔における「自我論」の展開――雑誌『第三帝国』の「思潮評論」を中心に」、『史境』、2007。
 

※このエントリは単行本『これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得』(東京書籍、2016年) に加筆修正されたかたちで所収されたました。