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 ↑『三島由紀夫vs東大全共闘 1969-2000』(藤原書店、2000)の251頁。


 小阪修平(1947~2007)。哲学者・思想家。1979年から執筆活動をはじめ、哲学・思想を中心に幅広く評論活動を展開。難解な哲学を平易に解説することに定評があり、哲学ブームのきっかけを作った。著書に『イラスト西洋哲学史』(宝島社、1984)、『非在の海――三島由紀夫と戦後社会のニヒリズム』(河出書房新社、1988)、『市民社会と理念の解体』(彩流社、1994)。『考える技法――小論文で頭がやわらかくなる』(PHP新書、2005)。その他多数。
 


 ◎小阪修平略年譜
 
1947年 岡山県津山市にて誕生。この年、敗戦。
1966年 上京し、東京大学入学。
1968年 演劇をしながら、東大全共闘としても活動。
1969年 三島由紀夫との討論に参加する。
1970年 東大を中退。アルバイト生活へ。
1974年 塾教師のアルバイトを始める。
1977年 廣松渉の寺子屋塾に通い始める。
1982年 同人誌『ことがら』創刊。
1985年 栗本慎一郎との対談『現代思想批判』(作品社)。『家族の時代』(五月社)を小浜逸郎と共編。
1986年 雑誌『オルガン』創刊。見田宗介との対談『現代社会批判』(作品社)。『思考のレクチュール』シリーズの編集。
1990年 駿河台予備校の非常勤講師になる。
1991年 テレビ深夜番組「哲学の傲慢」に半年間出演。廣松渉との対談『歴史的実践の構想力』(作品社)。
2007年 8月に死去。
 


・出発点としての全共闘

 哲学というものはまったくもって難しい、とつくづく思う。要約してみれば、割と単純なことなのに、なんでこんな厚みの本が必要になるのか、と昔思ったけれど、今だって決して思わないわけではない。そして、そんな時に、頼みにしたのが、巷の本屋においてある「図解、西洋哲学史」だとか「哲学入門 イラスト入り」みたいな、最近では萌え萌えな感じでヘーゲルやカントとかが描かれてたりする、あの手のビギナー本だったのも、きっと私だけではないだろう。ちなみに、今本棚を探してみたら、白取春彦『この一冊で「哲学」がわかる!』(三笠書房、2004)が出てきた。懐かしい。

 さて、小阪修平とは「あの手」の本のハシリとなったような『イラスト西洋哲学史』の著者である。しかし、そんな小阪が三島由紀夫とも討論し、全共闘で活動した政治青年であったことは意外と知られていないかもしれない。ほとんど自叙伝に等しい最後の著作『思想としての全共闘世代』(ちくま新書、2006)を参考に、その辺りをまずクローズアップしてみよう。

 小阪はなぜ全共闘に参加したのか。1967年にデモに参加した際に機動隊に踏まれ前歯を四本折るというわりとショッキングな体験をしているくせに本人の記述は冷めている。当時はまだ「先進的な学生」に夢があったとか、サルトルが流行っていたからとか、マルクス主義は信じてなかったが歴史の進歩は信じていたとか、あまり積極的な感じはしない。

 例外的に、東大生として「どこかに後ろめたい意識もあったのかもしれない」(60p)という回想もしている。小阪の父は戦後二三の会社を転々とした後、母親の親族の経営している九州の相互銀行に入社し、その社で支店長になったこともあった。「階層的には中のやや上で、それだけ甘ちゃんに育ったとも言える」(39p)そうで、そのようなことが無意識的に参加に導いた側面はあるかもしれない。「全共闘を先頭で戦ったわけではない。少し斜にかまえてつきあっていただけだ」(93p)と言いながらも、彼は「つかまってしまった」という表現をする。



「闘争に半身で付き合っていたぼくに、全共闘的なるものがなぜ深くしみこんでしまったのか。ぼくが全共闘の化石と自称=自嘲したりすることもあるのは、ぼくがその時代につかまってしまったからだ。自分を全共闘と言うことには、最初は忸怩たる思いもあった。だが、そこで決まってしまった、あるいはそこからいまのぼくの人生ははじまったというのも、ぼくにとって動かしがたい事実である」(93p)
 


 別のいい方をすれば、「ぼくは時代と人間の関係は、巻き込まれるという形が基本だとも思っている」(134p)。いわば、アンガジュマン的な意味で(正に実存主義だが)、小阪は全共闘に「参加」し(=巻き込まれ)て、その状況込での当事者性に行き遇ってしまったのだといえよう。


・三島由紀夫との討論会

 そんな中で、特に彼を「つかま」える象徴的な出来事が生じる。三島由紀夫と東大全共闘の討論会だ。この経験が後の『非在の海』という三島由紀夫論の著作に結実する。『英霊の声』以来、右傾化したと左翼の間で批判されていた三島が敵陣地の只中に現われる。この点に小阪は敵意よりも敬意を覚えていた。



「ぼくたちは同情めいたことを言う教官よりも、思想的には異なっていても逃げずに対話しようとする、この林健太郎〔東大闘争時の文学部長〕のような教官のほうを尊敬していた。戦後民主主義を代表する政治学者丸山眞男の研究室を全共闘が封鎖した時、丸山眞男がこんな暴挙はナチスもやらなかったと言ったのは有名な話だ。ぼくたちは、その話を戦後民主主義の知識人は、いざ問題が自分におよんでくるとうろたえるという話として受け取った。たぶんぼくらは三島由紀夫のなかに戦後民主主義的知識人や大学当局がもたない誠実さを見ていたのだ」(107p)
 


 ここは在野研究的に重要なポイントかもしれない。小阪は三島由紀夫というユニークな文学者を比較対象として用いることで、「教官」や「戦後民主主義的知識人や大学当局」の権威性を相対化している。小阪の大学に対する執着心のなさは、その「誠実さ」への敬意に求められるのかもしれない。

 翻ってみれば、真理の使徒を標榜し、自治を謳っていた大学の戦後民主主義知識人が、にも関わらず、学生との対話を避けて機動隊を導入するという暴力的手段を用いた、そのことの欺瞞性に対する不信が小阪の根本に認められるだろう。


・全共闘世代の「転向」

 とよだもとゆき『村上春樹と小阪修平の1968年』(新泉社、2009)では、運動に関わっていた学生たちの興味深い「転向」観を磯田光一を引用しながら紹介している。転向は、もちろん戦前からある概念であり、主として収監された共産党員が革命の夢を諦め、とりわけ天皇制を肯定することを約束させられる、挫折の意味で用いられてきた。戦後、そこで非転向を貫き通した党員(例えば、宮本顕治)が英雄視され、左翼に大きな影響力を及ぼすこととなった。

 さて、戦後の学生運動における「就職転向説」とは、一般に大学に残って研究を続けるものが「非転向」とされ、大企業に入社するものが「転向」者と規定された。しかし、とよだは、全共闘系学生からみると、それは逆、つまり大学に残り研究を続けることが「転向」だと捉えられていたそうだ。「当時は「転向」という言葉はあまり使われなかったが、大学に居残ることは節操のなさを批判されてしかるべきだった」(88p)という。全共闘は「大学解体」を掲げていたからだ。

 果たして、小阪がこのような感覚を共有していたかどうかは分からない。しかし、とよだ(+磯田)の言葉遣いでいえば、少なくとも小阪は「非転向」を貫いた。つまり、早々と大学を中退したのだ。


・フリーター生活へ

 左翼集団内で内ゲバが広がり、ついには連合赤軍事件が起こり、70年以降、政治の季節が終息していく。三島も70年に自死していた。後の評論活動で、連合赤軍リーダー森恒夫に思い入れ、誰もが森恒夫になる可能性があったという意識の重要性を小阪は度々語ることになる。

 小阪は東大を中退し、アルバイト生活に入る。しかし彼の中では本質的な変化はなかった。「闘争をやめたというような意識ではなかった。ただ自分の居場所が変わっただけだった」(135p)。まず始めに彼がした仕事は知的営為からは離れた肉体労働だった。



「大学をやめて数年、バイトで食いつないだ。高層ビルの外装の吹きつけの手伝い、アドバルーンの見張り、中のブロードウェー(中野駅前の商店街につながるビル)のごみ掃除などを転々とした。ビルの外装吹きつけの時は、ぼくは高所恐怖症だから十階ぐらいの足場にのぼって手伝いをやるのはこわかったが、そのうち慣れてしまった」(135p)
 


 演劇をかじっていたことと関係するのか、バイトのなかで最も長く続いたのがテレビの大道具係だった。



「バイトのうち一番長かったのはテレビの大道具で、初期のドリフの大道具や「笑点」の大道具をつくったこともある。三人娘で売り出し中の桜田淳子に挨拶(といっても裏にいる大道具の一人として)されたこともある。ぼくは元来不器用なほうで、こういった体を動かす仕事に向いていたはずもないのだが、なにを考えていたのだろう、自分でもあまり記憶はない。ともあれ、同棲時代を先駆けしてフリーターの元祖みたいな生活を送っていたのである」(136p)
 


 この期間に小阪は恋人と同棲生活を送り、1972年には長男が誕生し、その時に籍を入れている。小阪が27歳頃のことだ。同じ全共闘世代である村上春樹が学生結婚するのがほぼ同時期の1971年で興味深い。ちなみに、元々小阪は結婚に乗り気ではなかった。上村一夫の劇画『同棲時代』が代表していたように、「当時の観念としては、なるべくだったら結婚届なんか出したくないなあ、という感じ」(『現代社会批判』、126p)があったからだ。結婚ではなく同棲という点にサルトルとボーヴォワールの関係を重ねることは深読みが過ぎるだろうか。


・塾講師という転機

 妻子を抱えるそのままの生活では、おそらく、小阪が知的な営みに従事するきっかけはなかっただろう。転機となったのは、同じバイトでも、塾講師のアルバイトを始めたことだ。



「中学生に英語や国語を教えるバイトを、夏冬に講習会を主催していた学力増進会という塾ではじめたのがひとつの転機になった。現役の東大生が教えるというふれこみで、妖刀狗肉ではなかったが、学生運動くずれや司法試験浪人、オーバードクターなどもまじっていた。〔中略〕始めてみると、教えるという仕事は意外に楽しかった。夏や冬の講習期間だけだから気楽なものである。あとは家庭教師をするぐらいで、暇にまかせて系統的な勉強をはじめた」(150p)
 


 「系統的な勉強」とは具体的にはロシア革命史のことを指す。動機としては、ロシアの革命家のこの上ない理想主義的熱情がどうしてスターリニズム国家を誕生させたのかという問いに答えを出したかった、ということがある。ここには無論、革命を目指した学生たちが、結局のところ連合赤軍のリンチへと終結してしまったのは何故なのかという、当事者的な疑問が下敷きとしてある。

 「後にも先にもこれほど勉強した時期はなかった」(150p)そうで、塾で受けた知的刺激と「暇」の余裕が、研究者の知的素地を作ったといえる。「マルクスをかんがえて、これはギリシアまで戻るのではないかという感じで、哲学史をさかのぼった、そんな経験があります」と本人も述べている(『現代思想のゆくえ』、彩流社、1993、71p)。

 塾講師は小阪が終生従事した基本的職業といえる。1990年には駿河台予備校の非常勤講師になり人文系小論文の書き方などを教えていた。それ故、現代思想や哲学の解説の仕事とは別に、小阪には『小阪の合格小論文』(東京書籍、1997)や『考える力がつく「論文」の書き方』(大和書房、2003)など対学校試験的な著作が存在することになる。哲学をわかりやすく紹介する小阪の文筆家的資質は、このような塾講師経験と無関係ではない。



「「考える」ことは一部の人間の特権なのだろうか。人間が「考える葦」である以上、断じてそうではない。どんな生徒も日々いろいろなことを考えている。だが、それが他人につうじ、他人といささかなりでも共有できるような考えになっていないだけなのだ。言いかえれば、「考える」ための訓練を受けてきていないのである」(『考える力がつく「論文」の書き方』、4p)
 
 

 この「特権」批判は当然、自身の在野としての営みのなかにある根本的な動機として直接帰ってくるものである。


・廣松渉の「寺子屋塾」

 この時期、独学者の勝手な勉強方針を懸念した小阪は、ある私塾に入る。戦後哲学者として有名な廣松渉の「寺子屋塾」である。共産党にも入党していた廣松は70年に学生運動を支持していたことを理由に勤めていた名古屋大学を辞職していた。その後、大森荘蔵の尽力で東京大学に勤め、最終的に教授に就任することになるが、学生運動に共感的だったという点で小阪の興味を引いたようだ。二人は対談集として1991年に『歴史的実践の構想力』を出版している。



「廣松渉さん〔中略〕が、「寺子屋塾」でマルクスの『ドイツ・イデオロギー』の講座をもつという話を聞いて通いはじめた。寺子屋教室は今ふうにいえばカルチャーセンターだが、全共闘運動のころ造反教官だったり、運動にシンパシーをもっていた教官を講師として市民相手に開かれていた教室である。全共闘世代から当時の学生ぐらいの年代の生徒が多く集まっていた。まだ世界を理解するための新しい視角はないのかと、人びとが探していた時期だった」(151p)
 


 この寺子屋塾という場所が、誰か書き手はいないかと探していた編集者との出会いの場所となり、79年から80年にかけて『流動』(これがデビュー雑誌だったようだ)や『第三文明』『宝島』といった雑誌に小阪は寄稿するようになる。こうして小阪修平という在野知識人が誕生したのだ。廣松は相変わらずの堅苦しい漢字を駆使しつつ、小阪との出会いを次のように回想している。



「私事に亘ることをお許し願います。小阪修平さんに初めてお会いしたのは一九七〇年代の中葉に「寺子屋」においてでした。東大中退者にありがちな肩肘を張ったところのないのが印象的でした。頭のキレを驕ることなく篤実に理論的蓄積を重ねておられる様子が窺われ、この嚢中の錐は必ず現われると当時から確信しておりました」(『歴史的実践の構想力』、244p)
 


 廣松を「先生」と仰ぎ、「不肖の弟子」として対談に臨んだ小阪は、その後、自身を育んだ寺子屋塾を真似てか、90代から月一回の土曜の夜、住まい近くの団地の集会室に、若者から同じ全共闘世代までが集まる勉強会を開いた。会が終ったあとはみなで小銭を出し合い、ささやかな酒宴も開いたという。


・同人誌『ことがら』の編集

 寺子屋塾は小阪にもう一つ重要なものを与えた。同人誌『ことがら』と、その同人たち(仲間)である。1982年の8月から四年間続いたその同人誌は、途中から竹田青嗣や笠井潔など今日でも活躍する書き手を迎い入れ、小さな同人誌ながらもその存在感を世間に誇示した。そして中心となった編集同人らは元々寺子屋塾での顔見知りから派生したものだった。編集にたずさわっていた青木茂雄は終刊に臨んで、メンバーの共通点について次のように述べている。



「同人のほとんどが「寺子屋教室」の出身者であり、そこを一時期の活動場所としていたこと。そして「それ」に飽き足らなさを感じていたことを共通項としてあげることができよう。「寺子屋教室」は「我々の思想を我々の手で」のコピイにあらわされるように、在野の学問研究を進めようとしてつくられた団体である。しかし、在野とは言っても、学問研究のスタイルにそうそう大きなちがいがあるわけではなく、それに対する飽き足らなさが、「寺子屋教室」内に様々な潮流をつくりだしていった。『ことがら』編集同人も、明らかにその潮流にひとつを形成していた」(『ことがら』第8号、1986、80p)
 


 最初の三号までは編集作業、定期購読者への発送や会計など、すべて自分たちで行う原始的な手作業雑誌だった『ことがら』は、掲載料を書き手の方が支払うような小さな雑誌だったが、それ故に小阪に特別な愛着を抱かせた。実際、小阪は自分のライフワークになるはずだったが最終的には中絶してしまった「制度論」を毎号載せている。「各人が書きたいものを発表するための場」である新雑誌を立ち上げるにあたり、まず始めたことは、和文タイプを金を出し合い購入することだったそうだ。



「たとえば、わたしは『ことがら』に出す二年ぐらい前から、商業誌にそこそこ文章を発表できるようになったが、商業誌に文章を発表して一万円もらうより、『ことがら』を一部買ってもらうほうが、ずっとうれしいという実感があった」(『ことがら』第8号、84p)
 


 この雑誌編集の経験が、年表にある小浜逸郎共編『家族の時代』や『思考のレクチュール』シリーズの編集といった、仕事の広がりに直結しただろうことはいうまでもない。

 『ことがら』は八号で終刊となるが、その後身となるような雑誌『オルガン』を1986年に小阪は発刊させる(ここでは竹田青嗣と笠井潔が編集者として協力している)。この雑誌は『ことがら』に比べてポストモダニズム(フーコー・ドゥルーズ・デリダ)以降の知の状況に対して意識的にとりくみ、所謂『現代思想』的なテーマを主として扱っている。これは91年まで続いた。

 このように在野(で)の知を確立しようとしていた小阪が、次のような公教育否定をしていたことも、以上のような経歴を確認してみれば割合納得がいくものだ。
 
 

 「学校ということで言うと、ぼくはやっぱり一貫して公教育は廃止すべきだと考えてきているんです。これには現実の場のなかでそんなことをすれば、当然金のあるものがいいところを選べる私立学校重視の考え方だという反論がつねにあるわけです。たしかに、現実にはそういうところがあるわけですが、やはり現実的に公教育を廃止していくべきだろうと考えています」(小阪+見田宗介『現代社会批判』、124p) 
 


 なお、『ことがら』同人は同時に、ヘーゲル研究会、吉本隆明研究会、革命運動史研究会、メルロ・ポンティ研究会を開いて、雑誌上で参加を募っている。これもまた「寺子屋塾」の一派生であると考えられる。


・「市民社会」論と在野という場所

 まとめに入ろう。小阪は事あるごとに「市民社会」の話を持ち出す。 これはほとんど強迫的といってもいいほどに繰り返し小阪論文に登場する鍵語だ。
 


「昔風の職人のように、自分の職業がその内部での価値と充足によってはかられうるならば、社会の総体は、自分の職業を媒介として表象される。古典的には大学という「共同体」もそういう半独立的な領域としてイメージされていたのである。あるいは、「知識人」もそのような――知識の客観性をつうじて――職業としてイメージされる幻想もまだ残っていたのかもしれない。 だが、大学闘争がそのような、自分は「知識」をつうじて大衆の味方なのだという「知識人」の自己欺瞞を批判するところからはじまったように、社会から半独立的な知識人などは幻影にすぎなかった。そしてさまざまな職業や家庭までもが社会にまきこまれ、社会と直面していくという過程こそが六十年代にはじまり現在でも進行している市民社会の事態なのである」(「「ぜ」は全共闘の「ぜ」」、『オルガン』第10号、1991、166p)
 


 小阪にとって「市民社会」とは、職人や聖人のいない世界、多様な人びとが様々な職業に就き、彼らが相互に複雑に絡み合いながらしばしば対立しながら営まれていく世界のことだ。別のいい方をすれば、各人・各職種が独立性を失い、相互に支え合う社会を意味する。ゆえに、市民社会に聖域は存在しない。ユートピアもない。そしてそれは大学にあっても当てはまらなければならない。

 「市民社会に片足をつっこみながら(飯を食いながら)、ものを書いていくとはどういうことなのか」(『ことがら』第四号、112p)と自問してた小阪にとって、「市民社会」は在野研究の不可避的な条件であり、それ以上に、アカデミシャンでさえその条件を完全に免れることはできない。

 以上のような話は、専任/非常勤で揺れる今日の大学問題でしばしば提示される話型を先取りしてないだろうか。おそらく、彼がこの感覚をもてたのは、大学中退後、アルバイトを転々とし、現場なるものが相対的であることを実感できる元祖フリーター的生活に由来するのだろう。そして、自身の雇用が流動的であったのと同じく、小阪は知の場所もまた大学の外へ、広く拡散しようと努めた。その内容の成否はおくとしても、悪戦苦闘のその過程に学ぶべきものは現在でも多々あるように思われる。


※このエントリは単行本『これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得』(東京書籍、2016年) に加筆修正されたかたちで所収されたました。