◆ 確か朝日新聞だったと思うが、田原総一朗の、新聞掲載の推薦文としてはやや長い賞賛コメントに興味を惹かれて、9月の末に新宿ピカデリーまで出かけた。事前の情報は殆ど得ていなかったので、背中を押したのはかれだ、ということになる。
◆ でも、実はそれほど期待していたわけではなくて、なぜかと言えば、まずタイトルが失敗したクライム・ノヴェルの邦題みたいで、あまりにもちょっとどうなんだそれはという感じだったし、「新潮45」の取材記事から書かれた原作にしても、大スクープは大スクープなのだとしても、こう書いては何だが事件自体は「平凡」なものだ。いかにもな行為で死刑囚となったヤクザが、似たような手口で「実はまだ何人か殺して」いて、「首謀者は捕まっていない」とか言いだしても、正直なところ「あっそう」という感じも拭えず、従ってクライム・ムービーとしてもミステリとしてもネタとしての新味は乏しく、もしかするとこれは、朝ナマの進行さえ覚束なくなった耄碌老人の過大評価、ありがちな評判倒れかとも思っていたのだった。
◆ でも、実はそれほど期待していたわけではなくて、なぜかと言えば、まずタイトルが失敗したクライム・ノヴェルの邦題みたいで、あまりにもちょっとどうなんだそれはという感じだったし、「新潮45」の取材記事から書かれた原作にしても、大スクープは大スクープなのだとしても、こう書いては何だが事件自体は「平凡」なものだ。いかにもな行為で死刑囚となったヤクザが、似たような手口で「実はまだ何人か殺して」いて、「首謀者は捕まっていない」とか言いだしても、正直なところ「あっそう」という感じも拭えず、従ってクライム・ムービーとしてもミステリとしてもネタとしての新味は乏しく、もしかするとこれは、朝ナマの進行さえ覚束なくなった耄碌老人の過大評価、ありがちな評判倒れかとも思っていたのだった。
◆ しかし、映画は違った。平凡、などとはおよそかけ離れたものだった。ぼくの想像よりずっと、遥か上に振り切っていて、たぶん、傑作、といってしまってかまわない部類のものだと思った。少なくとも、リリー・フランキーやピエール瀧が支配する時間は。
◆ 映画はR-15指定になっていて、ぼくは普段そうしたろくでもない視聴規制なんてほんと心の底から小馬鹿にしているのだけれど、「凶悪」(それにしても、なんてヒドいタイトルだろう)で曝け出され、むき出しになっている人間の利己心、冷酷さや醜さにはけっこう圧倒されるものがあって、「あ、これって子どもにはアレかもな」と、ちょっとだけ思ったりもした。
◆ 劇中で、文字通り「凶悪」なヤクザである「純次(ピエール瀧)」や、どうみてもサイコパスな「先生(リリー・フランキー)」が犯してゆく行為自体は凡庸で、計画的か衝動的かに関わらずありふれた人殺しでしかなかったが、「よし、ぶっこんじゃおう」の一言で、ときおり哄笑や鼻歌交じりに行われるそれらには、「トーマさん午前中にそこのゴミ片付けといてね」「あ、はい」みたいなことと殆ど大差ない、「日常」を延長した感覚がある。純次の愛人は、純次の人殺しを、「あ~純ちゃん、また殺っちゃったんだ?」とゲラゲラ笑い飛ばすだけだ。
◆ 自分の利益の確保や日々のさまざまなトラブルを処理するための選択肢として、変態性欲や強迫観念などの「特別な」理由ではなく、ごくごく普通に、当たり前のものとして「殺人」が首をもたげ、可能なら実行を躊躇わない人々。そして、「身内」に対しては善なるパパであり兄貴分であり情夫だったりもする人々。
◆ こう書いてしまうと、「映画」の登場人物としては超ありきたり以外のなにものでもないのだけれど、瀧とフランキーが演じる「先生」と「純次」は、そんな「平凡」な「悪人」が為す行為が、本当はいかに不快で残酷で醜怪なものであるかを、ところどころ正気とは思えないとさえこちらに感じさせる演技で、表現していた。色々な媒体で色々な人がもうすでに言っていることを繰り返すことになるが、映画のいちばんの見所は、画面の中の二人の存在そのもの、だ。
◆ 自分の利益の確保や日々のさまざまなトラブルを処理するための選択肢として、変態性欲や強迫観念などの「特別な」理由ではなく、ごくごく普通に、当たり前のものとして「殺人」が首をもたげ、可能なら実行を躊躇わない人々。そして、「身内」に対しては善なるパパであり兄貴分であり情夫だったりもする人々。
◆ こう書いてしまうと、「映画」の登場人物としては超ありきたり以外のなにものでもないのだけれど、瀧とフランキーが演じる「先生」と「純次」は、そんな「平凡」な「悪人」が為す行為が、本当はいかに不快で残酷で醜怪なものであるかを、ところどころ正気とは思えないとさえこちらに感じさせる演技で、表現していた。色々な媒体で色々な人がもうすでに言っていることを繰り返すことになるが、映画のいちばんの見所は、画面の中の二人の存在そのもの、だ。
◆ 「凶悪」を象徴する二人が支配している以外の時間も、スクリーンには凡庸で矮小な人間たちの、矮小で凡庸な憎悪が渦巻き続けている。それはもうほとんど苦笑するしかないレベルで陰惨で醜悪で、しかも滑稽で、だからこそ目が離せない「不快」な魅力に満ちている。「純次」の協力で二人の犯罪を追う週刊誌記者の藤井(山田孝之)も、「観客」と共に、事件の虜になってゆく。物語の後半、拘置されている「純次」の人格が変わり、キリスト教へと入信して「生きての償い」を嬉々と口にするさまに対して、「お前は生きてる実感なんか得ていい人間じゃない!」と公判中に叫び出す。
◆ そして、偏執的なまでの取材によって動いた警察に逮捕され、無期刑となったフランキーとの面会で、「わたしを一番殺したがってるのは、もう、あいつ(純次)でも被害者でも被害者の家族でもない」と指摘される。それまで、妻(池脇千鶴)に「きれいごとばかり並べないでよ!」と詰られたりしていた藤井が、突如として「暴発」させる怒りと「正義」は、「死刑」を叫ぶ市民感情の代弁でもあり、つまりは映画館を訪れた観客の後ろ暗い興奮や報復の欲望(殺せ!)が顕にされてしまう。しかも、それがラストシーン(あっネタバレしちゃった!)という意地の悪さ。
◆ なんというか、あまりにも分かりやすく「善悪の彼岸(ニーチェ)」のようにも見えるのだけど、「凶悪」に登場する人々の感情の不穏さは、そもそも「深淵」と此方側は地続きにあるのだということを、気色悪いほど生々しいかたちで示唆している。「深淵」から目を逸らせない藤井に向けられる妻からの軽蔑、破壊衝動にも近い暴力をふるいあう妻と認知症の(藤井の)母、「先生」の娘から藤井にぶつけられる、客観的に見れば理不尽な怒り、「先生」に保険金殺人を依頼する牛場一家の、括られるべき存在と見なした借金まみれの夫(義父)を忌避する視線。
◆ 誰の顔も彼の顔も、自己愛と利己心と他者への不信に満ち満ちていて、観るものの顔を容赦なく「不快」に引きつらせる。世界はぼくたちにまったく優しくない、どころかむしろ逆に容赦なく厳しいもので、本来いつ誰が「ぶっこまれる」か、逆に「ぶっこむ」方になるか分からない暴力的な場所だと突きつける。機械的に続くスプラッタやバイオレンスを自慢気に見せるノーテンキで愉快な映画など比較にならないほど本質的なヤバさは、特に救いのようなものも描かれずヤバいまま放置されている。もし仮に、「凶悪」のR-15規制が必要だとすれば、そうしたヤバさこそが理由になるだろう。
※ いや、だからこそむしろ積極的に見せるべきではないか、という主張もあるかもしれないし、ぼくとしては「子どもにはアレかも」とか書いたりしたものの、そちらの方に強く同意するのだが。「規制」に関して、主演の三人はどう考えているのか、ちょっと聞いてみたい気もする。
※ 映画の原作は下記。それぞれKindle版も用意されている。
◆ そして、偏執的なまでの取材によって動いた警察に逮捕され、無期刑となったフランキーとの面会で、「わたしを一番殺したがってるのは、もう、あいつ(純次)でも被害者でも被害者の家族でもない」と指摘される。それまで、妻(池脇千鶴)に「きれいごとばかり並べないでよ!」と詰られたりしていた藤井が、突如として「暴発」させる怒りと「正義」は、「死刑」を叫ぶ市民感情の代弁でもあり、つまりは映画館を訪れた観客の後ろ暗い興奮や報復の欲望(殺せ!)が顕にされてしまう。しかも、それがラストシーン(あっネタバレしちゃった!)という意地の悪さ。
◆ なんというか、あまりにも分かりやすく「善悪の彼岸(ニーチェ)」のようにも見えるのだけど、「凶悪」に登場する人々の感情の不穏さは、そもそも「深淵」と此方側は地続きにあるのだということを、気色悪いほど生々しいかたちで示唆している。「深淵」から目を逸らせない藤井に向けられる妻からの軽蔑、破壊衝動にも近い暴力をふるいあう妻と認知症の(藤井の)母、「先生」の娘から藤井にぶつけられる、客観的に見れば理不尽な怒り、「先生」に保険金殺人を依頼する牛場一家の、括られるべき存在と見なした借金まみれの夫(義父)を忌避する視線。
◆ 誰の顔も彼の顔も、自己愛と利己心と他者への不信に満ち満ちていて、観るものの顔を容赦なく「不快」に引きつらせる。世界はぼくたちにまったく優しくない、どころかむしろ逆に容赦なく厳しいもので、本来いつ誰が「ぶっこまれる」か、逆に「ぶっこむ」方になるか分からない暴力的な場所だと突きつける。機械的に続くスプラッタやバイオレンスを自慢気に見せるノーテンキで愉快な映画など比較にならないほど本質的なヤバさは、特に救いのようなものも描かれずヤバいまま放置されている。もし仮に、「凶悪」のR-15規制が必要だとすれば、そうしたヤバさこそが理由になるだろう。
※ いや、だからこそむしろ積極的に見せるべきではないか、という主張もあるかもしれないし、ぼくとしては「子どもにはアレかも」とか書いたりしたものの、そちらの方に強く同意するのだが。「規制」に関して、主演の三人はどう考えているのか、ちょっと聞いてみたい気もする。
※ 映画の原作は下記。それぞれKindle版も用意されている。