今月、論考「生き延びたカント主義――国木田独歩『第三者』試論――」(http://p.booklog.jp/book/77402)を書いた。目次は、第一章「失敗作としての『第三者』」、第二章「独歩のカント受容」、第三章「超越主義化するカント」、第四章「知ることの限界/を知ること」、第五章「第三者批判と独歩の実存主義」。独歩研究史において決して名の躍らないカント、しかしエマソン由来の超越主義を介して受容された独歩の隠れたカント主義を小説『第三者』を材に考察してみた。文字数は14941字、原稿用紙に直すと37枚程。所謂『第三者』論が一篇(新保邦寛)しかない中ではよく書いた方か。
 

・明治のエマソン

 独歩のカント受容、と銘打ってみたが、実は独歩はカントを直接読んでいない。そのために、論文の中にも記したが、正しいとはいえないカント解釈が独歩のテクストにまぎれこんでいる。そのひとつの要因が超越主義(トランセンデンタリズム)であり、その中心人物だったエマソンである。エマソンは、あのデイヴィッド・ヘンリー・ソローの師匠であり、加えて何を隠そう、あのフリードリッヒ・ニーチェに大きな霊感を与えた男だ。エマソンとニーチェに関しては、手っ取り早い処だと、伊藤邦武『パースの宇宙論』(岩波書店、2006)などが参考になる。
 
 さて、エマソンが与えた近代文学への影響は大きい。独歩も読んだ北村透谷『エメルソン』を最初期の紹介として、岩野泡鳴も宮沢賢治も大きな影響を受けている。これらのことは、エマソンと独歩(しいては近代文学)の関係を先んじて考えていた水野達朗の諸論考から多く教わった。水野は2004年の東大の博論で「明治文学のエマソン受容――透谷、独歩、泡鳴」(http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008163175-00?ar=4e1f)という論文を提出し、以降それに類する研究をしているようだ。現在は拓殖大学で非常勤講師をしているそうだが、詳細は不明だ。博論はまだ読んでないので、今度国会図書館に行った時にでも読んでくることにしよう。

・意識高い系文学

 独歩にとってエマソンの代表的テクストはおそらく「自己信頼」(Self-Reliance,1841)だ。ここからの文章を独歩は日記に度々引用している。ノマドでお馴染み、安藤美冬(いつも安藤美姫とごっちゃになるよね)も好きだと噂されているこのテクストは、なるほど確かに元気のでる警句に溢れている。「おのれを信ぜよ、その鉄製の弦がひびけばあらゆる心が感応して震える」。「盲従ばかりしていては何の説明にもならぬ。たったひとりで行動すれば、すでにひとりでしたことが、いまは君を正当だと是認してくれる」。「力は生来のものであり、自分が弱いのは自分の外のあらぬ方に益を求めたからだと知り、こう悟ると、ためらうことなくわが身をわが想念に投げかけるひとは、たちどころに正道に帰り、直立し、自分の手足を思いのままに動かして、さまざまな奇蹟を行う」。
 
 うん、自己啓発以外のなにものでもない。なんと、独歩は意識高い系文学者だったのだ。マジで、ノマドだぜ。これは誇張でも何でもない。事実、独歩は自己啓発本のハシリと呼べるようなオリソン・マーデンの“Pushing to the Front”(1894、「前進あるのみ」の意、『立志論』のタイトルで翻訳、http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?pageNo=2&searchWord=%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3&facetOpenedNodeIds=)を明治二九(1896)年一〇月二五日に読了して、その感激を綴っているからだ。その感激とエマソン自信論(とりわけその唯心論的傾向)への興味は根本的に地続きであるといえる。
 
 意識高い系としての独歩、恐らくは「立身出世」的欲望の形態(そもそも、これぞ国民総意識高い化現象ではないか?)と共に考えねばならないテーマだが、依然類する研究はない。非力ながらも、少しづつ進めていきたい所存である。例えば、傳澤玲「明治三〇年代における立身出世論考」(http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/48623)などはいい参考文献になりそうだ。

・訂正と希望

 そういえば、「「『号外』に驚異せよ」後記」(http://www.en-soph.org/archives/30283448.html)の中で、重大な勘違いをしていた。ここで私はカーライルの『サーター・リザータスSartor Resartus』には邦訳がないと書いたが、これは間違いで、あの有名な『衣服哲学』こそがSRなのであった。しかも私は『衣服哲学』を、一切を忘却しているものの、岩波文庫で過去に読んでいるはずなのだ。原題と訳題が違い過ぎて、気づかなかった訳だ。とほほ。ちなみに原題の意味は「仕立て直された仕立て屋」である。
 
 しかし、これは嬉しい誤解だ。邦訳があるのとないのとでは、原語を読むにしてもアドバンテージがまるで違うからだ。元々構成が複雑な上に、小谷野敦がAmazonレビューで述べている通り、この翻訳は絶望的なまでに分かりにくく、何を言っているのか全く分からない種類のものだが、ないよりもあったほうがいいに決まっている。まずは『衣服哲学』を再読するところから始めよう。