凡例


1:この翻訳はエミール・ブートルー(Emile Boutroux)の『自然法則の偶然性について』(De la contingence des lois de la nature [Paris,1898]の部分訳である。原著はINTERNET ARCHIVEで全て閲覧できる。
http://archive.org/details/delacontingence00bout

2:強調を示すイタリック体は「」に置き換えている。《》はそのまま用いており、〔〕は訳者による補足である。

3:訳出にあったって、野田又夫訳(創元社、1945・11)を適宜参照した。
 

 

 古代ギリシャでは、人間が自分自身についての意識を獲得しその条件について反省するとき、彼は自らが計り知れず抗いがたい外的な力の玩具だと思い、その力を〈運命〉と呼んだ。その信仰に従えば、人間は神秘的な秩序に従うべきであり、仕方なしにそれによって避けがたい罪の償いをする。運命に隷属することに嘆いた後、人間はその不屈の力を厚かましくも判断する。残酷で不公平だろうとか、力よりも自分はより良いものだとか評価する。驚くべきはその恥ずべき軛を調べ上げることなく受け入れていたということだ。人間は軛から逃れ、軛を断ち切ることを試みた。実際、軛は断ち切られた。世界が彼に法則を課すのではなく、彼こそが世界に法則を課すのだ。そして彼は自分の自由を意識する。
 
 しかしすぐに新たな不安が呼び覚まされる。実際に自由であるには外的世界に関して自由である必要があるのではないか? かつて思っていたあの運命に類似した、激しい動き、抗しがたい力を自分のうちに感じるようになったのではないか? その至高の力能の本拠地について欺かれていたのではないか? その力は世界ではなく、彼自身のうちにあるのではないか? 自分は自らの情念や、観念や、本性の奴隷に過ぎないのではないか? 運命から逃れたと信じた途端に宿命性に再び捉えられたのではないか? なるほど、その新たな宿命性は前のものに比べれば粗野なものでも盲目なものでもない。だからといって絶対的でなくなったのだろうか? 鎖が外からは目立たないからといって重くなくなったといえるだろうか? 外的世界に締め付けられながら、人間はまだ自由を保っている。つまり犠牲者を生み出す暴力に対して内的に抗議をする自由だ。固有の本性に締め付けられながら、自由を考えることは自己欺瞞をなすことだ。外的世界の帝国についていえば、自己の内部に宿命性を感じる存在から見たとき、それはどんな価値を保存しているのだろうか? 要するに、〈運命〉とは、なるほど、図形figure以上のものだが、しかし真の図形であったのだ。
 
 ギリシャ精神はそこに留まろうとはしなかった。人間的本性の様々な部分はみな同じ高位をもっていないということを理解していたのだ。ギリシャ精神は上位の能力の前で下位の能力を従わせることに成功する。行為に重くのしかかるその内的宿命性が最初に想定したよりも不屈ではないということを知る。新たな努力をするたびに、その観念、自分自身の内のその信仰において、それを立証していった。そして少しづつ宇宙の支配者であると共に自分の支配者でもある神の完璧さを自らにも、と厚かましくも主張していった。
 
 このようなことが、様々な意味で、すべての存在の条件であるようだった。

 宇宙において、一方が他方に重なっている段のように形成される様々な世界を区別することができる。原因の世界、概念の世界、数学的世界、物理的世界、生命の世界、そして最後に思考の世界、これら様々な世界は純粋な必然性、質なき量の世界を越え出たもので、そのような世界は無に等しい。

 そんな各世界は始めに、外的宿命性のように、下位の諸世界に厳密に従属し、それらから法則を受け継いでいるようにみえる。類的同一性と因果性を欠いた物質や、物質を欠いた物体、物理的動因を欠いた生物、生命を欠いた人間が存在するだろうか? 〔いや、存在しない。〕

 しかしながら、もし存在を形成する主要点の概念を比較検討してみれば、必然性のつながりによって上位の形式と下位の形式とつながりが押し付けられていたことがわかる。

 これはアプリオリに推論されることだろうか? 分析を使っては下位の形式から上位の形式を抽出することはできない。何故ならば、上位の形式は下位の形式の要素に還元不能な要素を含んでいるからだ。第一のもの〔上位の形式〕が第二のもの〔下位の形式〕に見出すのはその材料matièreであって形式ではない。相互に関連するつながりは根本的に綜合的であるかのように現れる。

 もしそれがアプリオリな因果的綜合的判断における、あらゆる経験の外部にて、精神によっておかれものならば、それは必然的なつながりだろう。けれどもアプリオリな起源を前提とする定式は与えられた事物はもちろん、その事物の認識にさえ適用することのできないものだ。与えられた事物の本性を真に説明する定式は経験そのものから派生しなくてはならない。

 存在のあらゆる度合いが現にあるということはつまり原理上は必然ではないということだ。

 ではアポステリオリな根拠づけが事実上必然的であることを証明しているのか?

 仮に科学が演繹的な形式を得ることができたのだとしても、客観的に必然的だろう結論しか生じないわけではない。結論の価値は明らかに基礎的原理の価値である。そして、もしその後者〔基礎的原理の価値〕が偶然的であるならば、偶然性は三段論法が実際に出てくるすべての命題に必然的に伝達される。でもってどんな純粋に演繹的な科学も抽象的で主観的な性格をもっている。その価値にあってのみ、正確な定義というものが可能になる。これが完全に知性的になった貧困な概念の人為的な綜合である。つまり演繹的科学の定義définitionsに一貫した決定déterminationを事物自体に適用することはできないのだ。

 けれども、諸事実は、新たな本質がそれぞれ出現する必然的性格を十分に保証しているようにみえる。というのもその出現は恒常的にそれに対応する物質のある状態と一致しているからだ。しかしその一致の意味するものとは一体何なのか? 能動の側にあるのか、受動の側にあるのか? 上位の原理の出現を決定する下位の原理とは何なのか? 或いは、上位の原理実現に際し、その実現の条件を喚起するのは上位の原理そのものなのだろうか? 一方で、絶対的に決定された現象の原因は理解不可能なもので、何故ならば原因はあらゆる質を欠き、そのような本質が存在しえぬ量を前提としているからだ。即ち下位は上位の出現を絶対的に決定することができない。他方、存在の進歩の一歩一歩にとって、下位の原理が上位の原理の足場に成るとはいえ、上位の原理が示す錯綜さを下位の原理の法則を使って完全に説明することはできない。即ち役立つ材料として仕立てるのは形式それ自体であることを認めることが正統的なのだ。

 下位の世界に比べ、こうして与えられた世界のひとつひとつはある程度の独立性を有することになる。それら世界は、ある程度までは、下位の世界の展開に介入すること、固有の法則を活用すること、下位の世界の本質が要求しなかったような諸形式を決定することなどができる。

 しかしそれら世界のひとつひとつはそれ自体で、内的宿命性のように、現象を規定する法則をもっているのではないか? だとすれば現象の偶然性などというものは、結局、純粋な幻影にすぎないのではないか?
 
 まず第一に、与えられた上位の世界と下位の諸世界の間には正確な対応関係があるのだろうか? 上位の世界の法則は、結局、象徴的運命の内的な意味がそうであるように、下位の世界に固有の宿命性を別の言語に翻訳することにすぎないのではないか?

 いや、対応関係はそのような意味をもっていない。それというのも形式の有為転変と質料の有為転変の間の釣り合いがないがために、関係の二つの秩序の間に対応関係があるわけではないからだ。もし孤立しているとみなされた事実の二つのカテゴリーの間に対応関係があるのだとしても、(少なくとも下位の世界に一貫した宿命性を絶対的とみなさない限り、即ち少なくとも問われているものを先に想定しない限り)上位の現象が自らの条件の実現に対して〔下位の世界に対し〕影響しなかったということは一切証明されない。

 しかし観察と推論は現象が恒常的な秩序に従って生じるということを示さないだろうか? 細部の一様性が一般の一様性に帰着することを、そして最後に、世界のひとつひとつは現象が実現するところの同一本質の保存にある、特殊な法則によって統べられていることを示さないのか? 

 それら不変の法則は反論の余地なく存在する。けれどもそれらは必然的なのだろうか?

 法則がアプリオリとみなされると、それが適用されるところの事物の同じ本質から演繹することができなくなる。何故ならばアプリオリな法則は外延的な量に関係しており、完全なる質としてある、あらゆる本質は、その視点からみれば、無限の度合いを含んでいるからだ。

 その基礎的な諸法則が精神そのものによってアプリオリに設けられたのだろうと言うこともやはりできない。物自体や真偽不能な関係に対して、合理的出自origineを要請する諸定式は、与えられた事物や与えられた事物の認識には適用されない。そして経験的な働きを含んでいる諸定式は経験そのものにおいて自らの説明を見出さないような如何なる項も含まない。

 つまりは法則が現象を規定するということは不正確なのだ。法則は事物以前に置かれるのではなく、事物を前提にしている。つまりは予め実現したその本性から派生する関係のみを表現しているのだ。

 けれども、科学自体が、とりわけ科学が演繹的な形式を獲得できた際には、事物の本性そのものが不変であるとアポステリオリに証明したりしないのだろうか?

 一方でいかに一般的であろうと、豊かに現れようと、事物の本性と経験的原理を同一視することはできない。演繹的科学は根本的に抽象的だ。科学が決定するのは事物の関係であり、本性が不動であり続けることを前提にしている。

 他方で、実際に、科学そのものにおいて世界は、偶然性の観念を除ける保存と並んで、偶然性の観念を含んだ進歩や衰退といった変化をいたるところで私たちに提供する。これは表面的な細部においてのみのことではなく、おそらくは際限なく、細部の法則をまとめる集合の法則においてさえもそうなのだ。

 結局のところ、一般的には前提とされ、必然的であるかのように受け入れているが、前件と後件の現実的な関係など存在しない。というのも、必然性は前件から後件への量的関係によってでしか成立しないからだ。でもって、量は質の測定として、質への従属としてのみ理解される。質というのは、無際限に改良可能なものであり、望まれた改良にあって隣接する一方と他方の度合いにとっては相異なるものだ。しかも外延的な量、即ち同一事物の不毛な反復においてはいかなる改良の要素も見出されず、質は本質的絶対的ではなく、偶発的で相対的accidentelle et relativeとしてだけ認められ、つまりは、量のカテゴリーによって求められた同質性や不変性ではないのだ。だから存在の保存の法則とは偶然的であるのだ。

 そもそも合目的性finalitéを含まない事物に先行する質の変化の法則を見つけること、理解することは不可能である。合目的性は経験を超越する。ということはそのような法則は実証的法則の条件を満たさず、物理的必然性の指標たりえないのだ。

 与えられた世界の諸存在はそれ固有の本性に対して絶対的に従属しているわけではない。その根底においてさえ、永遠的に自分自身が類似したままでいることはないとか、次々に顕示していく秩序が程度はあれども大なる偶然性の部分を残しているだとか、それらは理解できないことではない。おそらく、この非決定性が正に、上位の形式が、新たな芽にとって必要な条件に置かれている下位の形式に自らを接ぎ木することを許すのだ。

 では、そのようにして存在論的かつ論理的な諸世界の空虚で不毛な形式から、生命や思考の諸世界の豊かで肥沃な形式へと自然が上昇させるのは、一方と他方とが孤立した創造の連鎖のなせる技なのか、それとも連続的な進行によるものなのだろうか? 結局のところ、それはどうでもいいことだ。というのも感覚できないグラデーションによって物質が霊化するには、上位の要素が下位の要素に還元可能であり続けてはならず、つまり追加や、絶対的創造の道を通じて下位の要素に重ね合わされてなければならないからだ。舟が外から見ると、連続的な進行をたどっているとして、舟そのものが前進しているという人がいるだろうか? 〔いや、いない。〕

 自然が諸存在の間で感覚不能なグラデーションとして設定した、中間的な諸形式を見つけることは、改良の原理の作用のモードを決定することに等しく、改良を不動性へ、上位の形式を下位の形式に連れ戻すことではない。改良の観念を純粋かつ単純な展開の観念に翻訳することは、先ず始めに正統的なこととはいえない。何故ならばあらゆる展開が改良であるわけではないからだ。次に、それは今ここでの場合にあって、無駄なことなのだ。何故ならば展開développementそれ自体は、未展開enveloppementの状態から材料を引っ張って、隠れていたそれを白日の下に晒す、上位の原理の介入を前提としているからだ。そもそも、科学において、先在し予め形成するのだという学説は後成説épigenèseにますます場所を譲っている。後成説は、展開の原理を排することなく、付加と改良の原理をはっきり前提にしている。

 自然現象に対する最初の一瞥は、上位の形式の付加がなくとも、普遍的変容の観念を誕生させることができた。或いは流動性をもった水、もしくは可動性をもった火、それはそれ自体で、私たちが認識するあらゆる形式を帯びた唯一の原理であると信じさせるにたりえた。金属の変容には、長い間、〔錬金術にあるような〕信仰が貫かれていた。科学的に進歩した時代にあってさえ、力の純粋かつ単純な変容が認められ、〔つまり運動量保存法則が無視され、〕運動が熱、生命、思考に変形できるのだと、文字通りに信じられていた。本性を変化させることなく生きた身体に水や熱が浸透して生命が維持していくこと。被った融合や組み合わせを通じても、安い金属はその本性を変化させなかったということ。熱や、生命や、思考が伴って出現しても、運動は完全に運動として存続するということ。これらのことはより徹底した実験で明らかになった。

 つまり宇宙は相互に等しい要素が組み合っているのではないし、要素は代数での量のように、一方から他方へと変形しやすい。要素同士の結び直しがあるとはいえ、宇宙は一方と他方とが、きっと、グラデーションによって、即ち完全に感覚不能な付加によって、上位の諸形式が組み合っているのだ。

 そして、それぞれの世界が下位である諸世界以上の何物かを含んでいるのと同じく、それぞれの世界に内包された存在の量は絶対的に決定されてはいないのである。衰退もあれば、可能な改良もある。そして改良の度合いの偶然性は量的測定の偶然性をもたらすのだ。

 かくのごとくならば、古い格言《一切を滅せず、一切を創り出さず》は、絶対の価値をもっていない。一方が他方に還元不能で、永遠共在しない諸世界の位階制の現存が正に、その格言に第一に違反している。第二の違反は、その諸世界における改良や衰退の可能性である。
 
 けれども、実証科学はその公準〔格言〕に依拠している。実証科学は不変性に帰着する範囲で、変化を学ぶ。存在の保存の視点から事物を考察する。では実証科学の価値とは如何なるものなのだろうか?

 なるほど安定性は単なる抽象的なカテゴリー、悟性が事物を投じるところの鋳型ではなく、与えられた世界に君臨する。そこでの事実とは一般的法則の特殊事例であり、世界は理解可能なものだ。そしてだからこそ、それは観念的な可能性ではなく、科学が体系的な一覧表を私たちに提示しているという理由で、現実そのものということになる。しかし安定性の君臨は全面的sans partageではない。その帝国のなかからは、起源的原初的な要素としての、絶対的変化の原理や文字通り創造の原理の活動が現れる。その二つの領域間の境界線を設定することは不可能だ。諸々の存在の一部や事物の一面が法則によって規定され、他の存在や事物の他の一面が必然性から免れているということはできる。下位の世界において、法則が極めて大なる範囲まで伸び、殆ど存在の代わりとなっているのに対し、上位の世界では、反対に、存在は殆ど法則を忘れさせるのだ。全ての事実が保存の原理に回収される以上に、第一に、創造の原理にこそ回収されるのだ。

 故に、実証科学が己の仕事を完遂させたとしても、存在は、それが如何なる度合いにあれ、その根底まで知り尽くされることはない。知りうるのは存在の本性と不変の法則だけで、依然として創造的な源泉の認識が残っている。しかし保存から遠い、この原理はどうやって成立しているのか?

 観念を遠ざける唯一の正統的な手段は原理の結果を考察することではないか。しかし、こういう人もいるかもしれない。その結果は、法則違反、非一貫性、無秩序でなくて何なのか? と。必然性に従属する世界は、一つだけの思考に抱え込まれており、偶然性が浸入すると、断片に依拠した近似的な仕方でしか理解しない。ぼろぼろになった有機体の四散した四肢しか示さないのだ。偶然性の原理、そうでなければ遇運、私たちが無知として覆っているその言葉の原理が、それ自体で、果たして存在しうるものなのだろうか? それは事物を説明するどころのことではなく、正に説明のあらゆる試みの断念、つまりは思考放棄を意味しているのではないか?

 その原理がその結果においてでしか認識されないだろうということを必然的に認めるべきではないのかもしれない。しかし明らかに、その原理をそれ自体で把握することができるためには、経験の範囲の外に出なくてはならない。だが秩序の唯一の原型である科学的な分類を経ず、事実の領域に留まりながら、事物の一般的な進行について考え込んでみれば、きっと、偶然性の学説であれ、世界は単純さ、調和、偉大さが刻まれているように現れてこよう。

 下位の度合いにあって、非決定な存在以下のものは、統一性が本質であり、だから必然性で、純粋かつ単純な量である。それが理解可能だろうというのは最も空虚な形式だからだ。しかし、少なくとも絶対の無から脱出することが熱望される限り、その形式は完全に一定ではない。無限小であれ、偶然性の余地のおかげで、形式は無為であり続けることはない。形式は存在の実現を準備する。でもって経験に与えられるような存在は、事実の原因となる事実、即ち他を決定づける一なるものである。それは因果性の関係により相互に結びついた作用の集合である。つまり存在の本質とは一方と他方との関係、分化から生じた多様性である。多様性、それは当番として、偶然性の余地をいくつか残し、類と種の体系、つまり多なるものの分類に適用するところの、形式のような材料に生成する。さて、一方で、一般的な観念や概念がより特殊な複数の概念に分解可能である限り、それは、相互に異なる多なるものである。他方、観念がそれら多様な概念に共通した本質で成立している限り、観念は一なるものである。ならば概念とは位階制を用いて多なるものに導入された調和、統一性と多様性の組み合わせといえる。

 統一性と多様性の位階制、あるいは多様性における単一性。このようなことは認識されはするが、未だ感じられない、抽象的に形成された、存在の下位の度合いである。

 ある偶然性の度合い、論理的枠組みに残された一種の遊びjeuのによって、存在の新たな形式がそこに導入される。つまりは、連続性が本質であるところの、延長的で可動的な事物、物質である。でもって連続とは一なるものと多なるものの融合、相互浸透、統一化以外のなにものでもない。物質、それは当番として、異質性が本質であるところの、物理的化学的形式の創造に加担する。でもって異質性が連続に対するのは、一方と他方との関係に基礎づけられた、多様性が統一性に対するのと同じだ。次に物理的世界は生命的世界と化すことが可能だ。生命的世界は個体化をその本質としており、その調和は中心的要素の優位、位階制によって異質性のなかに導入される。機能の位階的区分は、この第二期〔物質的、物理化学的、生命的世界〕において、第一期〔必然性、存在、概念〕の第三項に、つまりは概念における統一性と多様性の組み合わせに対応している。

 連続性、異質性、位階的組織化。これらは抽象的形式に重ね合わされた、具体的かつ可感的な、存在の諸形式である。

 最後に、生命そのものの上に、生命が基礎として高まって行くのが、意識である。そこで世界は感じられ、認識され、支配される。感受性とは事物の影響下にあり、かつ未だ事物と異なっているわけではない人格の状態である。従って、それは、事物に伴ってでしか生じない。知性とは人格とその人格とは異なる事物との関係のことだ。何故ならば事物は人格にとって人格そのものとは別物であるかのように現れるからだ。意志とは、人格の上位性を用いて、存在の仕方の多様性と事物の多様性を整理し、組織し、統一性に連れ戻すところの人格の作用のことだ。

 さらに、存在の意識的な形式は抽象的であると同時に具体的だ。抽象的とは、アクチュアルな世界において、それは個別に存在していないということであり、具体的とはそれのみで与えられているということだ。未だ下位の諸世界に従属し諸条件に依存していても、意識は固有の現存の大なる部分を有している。物質的な条件において、つながり以上に道具を見つける。この道具が自分にとってずっと必要になるだろうかと自問し、自分自身を満足させ、独立して生命と行動を有する状態を意識は熱望する。

 かくして存在の形式それぞれは上位の形式の準備であった。であるからして、あらゆる力能や力能に伴うあらゆる美しさを集合に与える、位階制的形式に到達するためには、事物が次第に多数化し多様化していくことが必要になる。

 もし存在のこの歩みが、ある点まで、一様性からなる秩序を排除するのなら、無秩序や混乱を帰結しないのだろうか? 上位の秩序のためにこそ、必然性の単調な秩序が部分的に犠牲にされるのではないか? 存在は相互的な支え合いに加担し、下位の存在はそれ固有にだけ存在しているのではなく、更に上位の存在に現存と改良の条件を提供しているのだ、ということは驚くべきことではないか? 上位の存在の方でも、その当番として、下位の存在自身だけでは到達できないだろう改良の視点に高めているということは驚くべきことはではないか?

 それぞれの存在が実現化の目的を持ちつつ、相異なる存在の諸々の目的間の調和があるということは、秩序に順応することではないのか?

 しかし、もし必然性が世界において至高のものであるなら、定式《一切を滅せず、一切を創り出さず》が文字通り適用されれば、そのような上位の秩序は、存在しうるのだろうか? 強制的に押し付けられた行動の目的について尋ねることがあるか? 同じ必然性のが改良的に生み出したものの間には、価値の差異、即ち質の差異や価の差異、進歩があるのか? 価値の度合いを、そのような世界で設定しようとすると、測定のために恣意的に得た存在の利害や感情に左右され、通常の差異とは別物になってしまうこともあるのではないか? もしある点まで偶然性が決定的原因causes déterminantesの連鎖に君臨しないのだとしたら、遇運が究極原因causes finales〔目的因〕に君臨していることになる。というのも現象が継起するなか、合目的性そのものはある種の偶然性を折り込んでいるからだ。継起の一様性を絶対的だとみれば、下位の秩序よりも上位である秩序が犠牲になるだろう。一様性を合目的性に従属さすこと、それは一様性を真の秩序たらしめることだ。見かけ上は正確に整理された、生の源から最も隔たった事物の外表は、その継起が一様であれ、実際には、真の非決定であるところのその質的非決定を折り込んでいる。しかし現実の更なる奥へと入っていくに応じて、質的決定、それに伴う、価値、価、真の秩序を、抽象的宿命的秩序の減少との釣り合いのなかで信じれるようになる。ならば、遇運と世界のバネを動かす不可視だが存在感のある魂とを同一視することができるだろうか? 〔いや、できない〕

 けれども、美的関心を提供しようとして、偶然性の学説は実証的科学に傷をつけてしまうのではないのか? 

 偶然性の学説が、偏狭的に存在の保存の原理に基礎づけられた科学、すなわち偏狭的に静的な科学を抽象的価値に還元するというのは本当だ。けれども、それら科学は、結局、設けられた条件によって正確に決定づけられ、存在の量がいかなる変化も被らないところの仮説において、条件から結果を演繹する以外の役割をもつようにはみえない。そのような科学は、それ自体、客観的現実に正確に順応すると主張しないのだ。なるほど、もしすべての科学が静的科学に帰すべきであるとしたら、偶然性の学説は実証科学の価値を否認することになる。しかし、静的諸科学の傍らやその上の方で、動的科学を構成することが正統的であるなら、つまり客観的科学が明らかにその高次の科学において構成されるのなら、偶然性の学説は科学の諸条件に順応する。その学説が押し付けるのは、動的科学、つまりは存在の科学の常に不可欠な方法としての観察と経験〔実験〕、それだけだ。実際、保存の原理の傍らに偶然的変化の原理があるとすれば、経験を放棄することは常に危険であり、非正統的でさえある。だからこそ、経験とは判明な思考の時間秩序的chronologique出発点、混雑した思考ではないのだ。帰納が法則を見抜くなかで、そうして一般的定式に一度に要約され、新たな観察が無為となる単なる与件の集合でさえない。科学が真に客観的な仕方で、即ちその歴史と同時にその本性のなかで事物を認識したいと望む限り、それは実は経験の諸状態のひとつに過ぎないもので、経験は科学の永遠の源、永遠の規則であるのだ。偶然性の学説に従えば、歴史を純粋かつ単純な演繹に連れ戻す主張は空想的で間違っている。

 その視点からいえば、存在の歴史の研究は特異な重要性を獲得している。動的科学は、事物の原理から遠ざかるのではなく、あたかも事物の歴史が事物の本性に胚胎して、本性が分析的かつ必然的な展開が生じるかのように、反対に静的科学よりも原理に接近するのである。本質が作用acteを説明するexpliquerどころか、作用こそが本質を折り込むimpliqueのだ。私たちが科学的に探究する最高度の対象であるべきものは事物の本性ではなく、その歴史なのである。その二つの視点〔静的科学と動的科学〕は、そもそも認識する事物にあって偶然性の部分が大であるか小であるかに従って、規則性なくも区別される。だから存在の下位の形式においては、極度の安定性が歴史を隠している。しかしより高度な存在を考察するに従い、本質は段々第一義的に現れなくなってくる。つまり存在の活動そのものにその原理があることが段々と明らかに成る。人間とは自分の性格と運命の作者であるのだ。

 偶然的変化の学説によって非難されるべきは、単なる経験を無視した主張であって、科学的探究ではない。正にその無視を通じて、歴史的科学が静的科学へと還元されてしまう。様々な度合いで静的科学が抽象的科学でしかないのに対し、反対に、歴史的科学が本来の意味での具体的科学に成るのだ。

 最後に、偶然性の学説は美学的科学的関心と実践的関心とを結合させる。実際、もしも世界の現存とそこで顕示された継起の法則が絶対的に必然的であったとしたら、自由とは、きっと、対象のない観念でしかないだろう。きっと、このように認識された世界でさえ更なる展開を望める。けれども、その展開が相互に必然的に結ばれた諸世界のシステムであろうから、精神が生んだ自由という観念には応答してくれない。数学的定義の帰結が展開する演繹は、自由ではなく、必然性の原型だ。その純粋かつ内的な必然性が、外的必然性や本来の意味での宿命性を依然論理的に区別するにも関わらずそうなのだ。

 自然法則の必然性を諦めることなく、自由に対し場所を空けてやるには、経験に与えられた世界を、存在をどんな度合いであれ拘束しないだろう純粋な現象としてみなせばそれで十分なのだろうか? 自由の代償として、私たちが生きる世界を必然性に引き渡してもいいものだろうか?

 その〔カントのような〕学説は、確かに存在と現象とを現実的に区別しないという前の説よりも、自由に反していない。その学説が感性的世界の外に、知性的世界を設定し、かつその世界は存在自体の世界であり、現象に適用されてのみ意味をもつ法則から解放されて、〔下位の世界では自由を認めないが〕上位の世界では下位の世界を制限する自由を設定することができる。従って、自由と必然性は和解する。つまり存在は絶対的に自由であり、必然的なのは存在の顕示の秩序であるわけだ。その上、経験において与えられたどんな現象も、存在の作用に対応しているが故に、自由を伴わない必然性などどこにも見出されない。すべての事物はなるほど一面では必然的だ。けれども、他方で、それは自由なのだ。詳しくいえば、現象の側では、必然性は絶対的であり、それと同じに、存在の側では、自由は無限なのだ。それ故、その和解のなかでは自由も必然性も減少することはないのだ。

 さて、この視点から自由と必然性を和解できるというのは本当なのだろうか? 

 この学説において、感性的世界は、知性的世界の現象、象徴、表現とみなされ、現象相互を結ぶ必然性がそのまま存在の作用相互を結びつける。従って、人間の生において、内的決定はすべての他の決定と必然的に結ばれていることは間違いない。ただひとつの行動があらゆる振る舞いを決定する。人間個々の性格、つまりその心的決定の連鎖は個々の部分が全体によって喚起される一システムを形成する。だから私たちの行為のあれやこれやが自由であるということは不正確だろう。というのも私たちの生が先立って与えられている以上、行為はそのようにあるしかなかったからだ。自由だといえるのは、私たちの性格の創造や、私たちの外的運動の横糸によって顕示された内的行為のシステムだけだ。ただひとつの行為のなかで私たちは自由を使い果たす。そしてその働きをなすのはどんな細部も変化しえない全体にほかならない。生命が変化するということに従えば、改善、堕落、後悔、自己犠牲、善と悪との闘争などは前もって大団円が決まっているドラマの必然的な波瀾にすぎない!

 しかしこの学説において、少なくとも大団円は、つまり私たちの行為の一般的観念が私たちが及ぼす力が残っていると信じることもまた幻影だ。もし私たちひとりひとりに超感覚的な作用が必然的に相互に結びついているとすれば、同じ仕方で、別の存在の超感覚的な作用と他の現象の内的側面とが結びついていることになる。意志のみの下す全決定の必然的相互作用を設定する論理自体は、意志的決定のあらゆるシステムの必然的相互作用を設定する。私たちの個人的性格は知性的世界の不可欠な一片pièce〔戯曲〕であり、全体の統一性と調和を断ち切らずには、浮かび上がったり変化したりすることはできない。私たちの精神的生命が創造する行為も、その現存と本性にあって、他の全ての意志の作用の不可避な帰結ということになる。

 或いは、私たちは物理的心理的現象を全く変えれずとも、あれやこれやの精神においてそれら現象を欲することはでき、その純粋に形式的で形而上学的な意味で私たちの意図が自由なままでい続けれるのだと、主張することも無為なことだろう。それというのも私たちの意図は観念だけを対象とし、観念の客観性は、その視点からすれば道徳性には無関心であるのだとすれば、その仮説は感性的世界が現にあることの存在理由を取り上げてしまうことになるからだ。次に、その仮説は事実の世界から行為の道徳的側面を表現する可能性を否定し、従ってその世界から形而上学的世界の現象の役割を取り除いてしまう。道徳的要素は形而上学的世界の本質、形而上学的世界そのものであるからだ。このようにしてその仮説は他人や私たち自身に対して道徳的moral〔精神的〕なあらゆる判断を禁止する。仮説は人間意識がに接近できない領域に道徳性を位置づけてしまっている。最後に仮説は、予め現象の体系に含まれていないだろう如何なる対象を意志に対して禁止しつつ、改良を成立させても、事物を支配するわけではなく、事物に順応し没頭してしまう。

 要するに、その学説においては、すべてが必然的に結びついている現象の世界とすべてが結びついている行為の世界とが同じ仕方で重ね合わされている。だからそこでは個別の存在の、個人的な自由を問うことができない。現にあるのは〔自由な個人ではなく〕自由な存在だけだ。最高存在〔神〕ではないすべてのものは、決定のシステムに吸い込まれるのだ。

 しかしその存在そのもの〔神〕が自由だというのも本当だろうか?

 確かに、それは創造することもしないこともできたし、ある世界ではなく別の世界を選択することもできた。しかしながらその選択はすべてが結びついた世界、つまりすべてが論理的統一性に帰着する世界にしか向かわないというその制約に従っている。さらに言えば、その存在の行為は唯一にして不変であるものの、現象が生じるときのあらゆる例外的な介入が禁じられている。その上で神の営みそのものが免れない「運命fatum」のように自らに押し付けられることになる。

 だからもし和解の学説が制限なき自由を認めるのだとしても、それは自由というものを事物からずっと離し、事物のずっと高みにある領域に場所を移すことによって認められるのであり、そこでは自由の作用は空虚の中に失われてしまう。

 偶然性の学説が至るのはこのようなことではない。偶然性の学説は自由を前にして、世界の外、無限ではあるが自分を支える対象が空虚でもある場を開示するに留まらない。それは現象の流れの中で自由の介入を考えさせない公準、一切を滅せず一切を創り出さずが導き出される格率を揺さぶる。もしその公準が絶対的な仕方で認められるのだとすれば、純粋に抽象的な〔つまり絵空事の〕科学を生み出すことになるということを示しているのだ。世界の細部そのものにおいて、偶然性の学説は、創造や変化の徴を発見する。こうして現象に干渉し現象を予見できない方向へ導くために、偶然性の学説は超感性的な領域から降りた自由の概念化に適している。

 従って、自由はプラトンから花冠を頂戴しながらも、彼の共和国から追放された詩人のような境遇に合わないで済むのだ。

 神は単なる世界の創造主ではない。神は世界の摂理providenceでもあり、集合に対してと同じく細部に対しても気を配るveille。

 人類〔人間性〕の自由は単に集団的に収まるものではない。人間社会もやはり、自由を持っており、その社会の只中の個人さえもがその人格を自由にできる。最後に、個体とはその単なる性格の作者ではない。個体は更に自分の生の出来事の流れに介入し、その方向決定を変えることができる。自分が獲得した傾向を、絶えず確認しつつ、それを変えていくよう働きかけることもできるのだ。

 世界との関係において、人間は事物を必然的に過ぎ去るように意志する傍観者ではない。彼は働きかけることができる。物質に徴を付け、物質を超越する営みを創出するために自然法則を利用することができる。事物に対するその優位はもはや、文飾でも、無知から生まれた幻影でも、より高価であるという中身のない意識でもない。優位性は他の存在に対し実際的な帝国、事物を加工する力能によって、多かれ少なかれ、自己の観念に従いつつ自己の観念の力そのものによって翻訳されている。

 ここを通じて、最後に、外的行為が、人間全体でなくても、物質が真似できないモデルであるところの、魂そのものに相当していなくても、少なくとも、その行為は、意志の介入の顕示や多かれ少なかれ忠実な翻訳であることができる。これにより精神的判断に経験的基盤を与えることができる。もし偶然的な仕方で事物の秩序が変化しうるならば、善人であろうとするのに、善を認識し、望み欲するだけでは十分ではないだろう。つまり振舞ったということ、少なくとも振舞おうと試みたということが必要で、というのも、道徳的意識、つまり可能な善とは義務的であるからだ。

 このようなことは偶然性の学説を可能にさす形而上学的対象である。そして、その資格にあって、学説は人間的意識の信仰にとって好都合に現れる。しかし、学説そのものは、その可能性を現実に昇格さすことに関しては無能だ。何故ならば可能性の根底をなし、事物の偶然性がそこでは外的な記号としてみなされるところの自由なるものは、直接的であれ、間接的であれ、経験には存在せず与えられもしえないからだ。経験が把握するのはアクチュアルに実現した事物でしかない。でもってここで問題となるが行為に先立つ、創造的な力なのだ。

 経験そのものはしかしながら、私たちに認識させるすべての偶然的性格を設定しつつ、その解明されない偶然性を放置し続け、理を与えてくれるのに適した何か別の認識の源がないのかどうかを探すよう私たちに勧めてくる。そして、世界の多様な部分が、その現存やその法則においては偶然的であるにも関わらず、一様性で失われるところの美を取り戻して、ある種の秩序があるのだと示し続ける。経験はその顕示によって私たちの感覚を超越した諸存在の高次の本性を予感させるのだ。最後に、その高次の諸存在が現象の偶然性を説明できるように介入するには、経験の世界と直接の関係をもたずに、個別には生きずに、しかも事物の流れに大なり小なり稀に介入するだけに控えることが必要だ。それが個々の現象の無媒介的な作者であったにしろ、結局のところ、付随現象に関しては現実的独立性をどうであれもちはしない。つまり、経験に感覚や悟性を与えることができるような世界認識、即ち生じる原因を捨象した現象と法則の認識は、それだけでは決して満足しないだろう。

 感覚は私たちに変化を示すがその説明はしない。悟性が明かしてくれるのはその変化を通じてできたある形式とある作用のモードの保存であり、それらによって変化が説明される。しかしその不変性は純粋に相対的な性格であるために、顕示した形式や作用のモードにおいてこそ、事物の原理そのもの、即ち本質であると同時に法則でもある本来の意味での原因の原理そのものを見ることは邪魔立てされてしまう。人間に与えられた認識を探究するなかで自然哲学によって放置された空虚を埋めることが形而上学に任された。形而上学では経験とは別の途を通じて、本質や法則ではなく、変化の能力と不変の能力に恵まれた真の原因が探究されたのだ。

 その創造の秩序のなかで事物を認識すること、それは神において認識することだろう。というのも、分有のつながりにより第一原因に繋がっていないならば、原因は原因として認めることができないからだ。原因の連鎖が限界をもたないならば、真の原因なるものはなく、あらゆる事物において、能動と受動が同等に存在するだけで、一方にとって他方はもはや存在の絶対的根拠だということにはならない。しかし精神はその最高の本質〔神〕にまで到達しうるだろうか?

 現象の研究を通じて、実証科学はもう既に神を探求しているということはできる。というのも、実証科学は事物の第一原理を探求しているからだ。経験に与えられたものすべてを還元しようとする様々な概念は、その意味で、神の定義と別物ではない。

 ところで宇宙を説明しようとする、最も無謀な企ては、どんな「根本原理postulatum」も用いることなく、それ以前には一切前提のない絶対的な必然性を神と同一視しようとすることである。実の処、無の観念と混じりあった必然性の観念は、余りに空虚なので何物をも一切説明してくれないといえる。だから説明不能な原理を神の観念に置くことを甘受せねばならず、有効であろうとすれば、その原理は綜合的であらねばならない。少なくとも認めるべきものを最小限にとどめておきたいと欲する人もいよう。この人は神を《大文字の存在l'Être》や《最高類》と定義しようと試みる。けれどもそれら概念は、既に何かしらを説明してくれるものの、宇宙を説明するには未だ余りに貧困であるのだ。そこで還元不能な要素として、神を延長と力に、言い換えれば物質と同一視して、それでその部分がかなり大きくなったと信じられている。しかし物質はすべてを説明するには未だに無能なままだ。その割り当てに引き続いて、新たな「根本原理」として、物理的化学的諸力、生命そして人間的意識さえもが、ますます内容豊かになり、更には、ますます富む神の観念を確かにもっていった。けれどもこれはすべてを説明するのに最適な神を理解することはない。というのも物体、生物体、人間的意識の本性や諸法則は不変ではなく、法則が含んだ変化をそれ自体では説明してくれないからだ。では最後の公準として、既知の事物のすべての本質的属性に留まらず、未知の事物や可能な事物のすべての本質的属性さえも含んだ、還元不能な綜合を想像する必要があるのだろうか? が、そのような綜合は恣意的な概念化であろう。何故ならば諸属性の階梯が終わりになるという理由などないからだ。多数性の位階的組織化によって構成される、科学に至るような綜合は、究極的形式には決して至らず無際限に錯綜化する。さらにいえば、科学の定式はすべてを説明しつくることがないだろう。定式は定式そのものを説明せず、観察と抽象化によって端的に与えられているからだ。それなのに、定式は複雑で偶然的な事物に対して説明を求めてしまう。

 このようにして実証科学は事物の神的本質ないしは最終的な理を真に把握するのだと無謀にも主張してきた。その本質はそう想定されてきたとしても極めて豊かな属性の綜合で成立するのではない。改良の概念のなかには、豊かさと同時に十全さの観念もふくまれ、これにより改良のその観念は無限定な量から無限に遠ざかる。さらにはそれらにより改良の観念が最も豊かで最も調和的な綜合からもあくまで区別される、統一、完遂、絶対の観念も含んでいる。

 経験も、経験のどんな論理的練磨も神の真の観念を提供することはできないだろう。しかし経験に与えられた世界だけが現実なのだろうか?

 注目すべきは、ほとんど悟性の形式に等しい、必然性の概念や絶対的現存の概念は、与えられた世界に正確に適用していない、つまりは悟性が自分の好みのまま科学を統治することはできない、なのに感覚作用とそのつながりを保存するに留めなければならず、しかもその保存自体から絶対という性格が生じてしまうところの抽象的な概念や原理に押し付けてもいけない、ということだ。しかし悟性に一貫した、必然性の観念がどんな正統的な適用もされないというのは本当だろうか?

 存在の階梯を登っていくにつれて、ある意味で、必然性によく似た原理が、展開していくのが分かる。その原理とはある種の対象の魅力だ。存在は必然的に導かれるだろうと見える。けれどもそれは既に実現した事物によって押し進んでいるのではなく、未だに与えられておらず、きっと、決して存在することもないだろう事物によって惹かれているのだ。

 もし私たちが人間を考察してみれば、経験の条件とは未だかけ離れた形式、義務devoirの形式をした必然性を認識することができる。人間はある仕方で振舞わなければならないと同時に、別の仕方で振る舞えると感じるのだ。

 その種類の関係を科学的に理解することはできない。もし事物に対して思弁の視点とは別の視点がないのなら、人間は無知によって、その関係が幻影であると見なすように導かれるだろう。けれどもその思弁の視点からでは、存在するものすべてを包括すると主張することは無謀なことだ。認識のモードは認識する対象に属さなければならない。太陽を見るには、いわば光を帯びた器官が必要なのと同じことだ。同様に、超感性的なもの感性的なものとの関係を認識するには、事実と観念、記号と記号化された事物とが絶えず根本的に異なるものとさせないで捉える能力が必要だ。魅力的ないしは義務的な観念を実現させようと振舞うとき、人間はその能力を発揮して意識する。行動が知性の力を伴うとき、知性は高次の世界に導かれ、そこでは可視的な世界は死した成果にすぎない。そして行動は一方で、自らが顕示する以前以後最中にある創造的自発的な原理として、可能態や原因の現実を知性に明らかにする。他方で行動は、この可能態が現実態に移行しようと欲されれば、必然的なものとして、言い換えれば追求され実現するに値する善なるものとしてみなされた目的に対し、いわば生命と改良の原理に託されねばならない、ということを知性に示す。

 だからある意味で、実践的な視点からすれば、必然性の概念は現実的な価値に応答している、というのは本当だ。これを実現可能な絶対的な自由の現存と同時に認めるならば、絶対的に必然的な対象の現存は理解できるようになっていく。けれども、私たちの最深部に立ち返り、例えば私たちの存在の源泉を把握しようとするならば、事物が固定され限定された現実のように現れる外的視点は捨て去られ、自由が無限の力能〔可能態〕であることを私たちは見出す。私たちが真に振舞うそのたびごとに、その力能を感じる。私たちの行為は可能態を実現させないし、実現可能ではないし、よって私たち自身はその可能態ではない。けれども、それは私たちの存在の根っこなのだから、現にあるのである。

 ならば悟性は、その必然性のカテゴリーを用いた、世界と神の間の中間項となる。だが神において観念的な可能性以上のものを見、必然性の抽象的観念に真の内容を与えるには、己よりも高次の能力が必要だ。私たちはその能力を、理性や善の実践的認識において見つける。道徳的生命はそれが発揮されると、目的を実現するための自由な存在の努力として(私たちが全き純粋さにおいて一層実践しようと努力し、正にそこを通じて、生命の本質をよりよく認識しようと努めるに応じて)ますます鮮明に私たちに現れてくる。その目的は、道徳的生命そのものにあって、絶対的に実現されるに値するものだ。しかし目的の探求者に力と光を伝達する高次の目的そのものが、現実、つまりは諸現実うちの第一のものであると信じれるのはいかにしてなのか?

 神こそがその存在そのものだからだ。そして、その神に接近しようとする私たちの努力の中心にあって私たち自身のより深い創造的活動を感じとれる。神は完璧かつ必然的な存在である。

 神の力や自由は無限である。それは神が宿命性の強制に従属しないで現にあることの源泉だ。力もろとも永遠的になった、神の本質はアクチュアルにも完璧だ。〔というよりも〕その本質には実践的な必然性が必須で、言い換えれば絶対的に実現されるに値し、もし自由に実現されるのでないなら本質そのものが存在しえない。同時にまた、本質は完全に実現され、その実現条件内で失効する以外に変化は可能でないのだから、本質は不変でもある。最後にその優れつつも不変な作用、無限の力の自発的な働きを生じさせるのが、変化なき「至福félicité」の状態なのである。

 この〔力と改良と至福との〕三つの本性はどれも他に先行しない。それぞれが絶対的で第一義的だ。だから三位一体をなしている。

 神は諸存在の本質と現存を創造する者だ。更に、神の活動、その不断の摂理が、道具のように下位の形式を使いこなす能力を上位の形式に授ける。神に値するのは特殊な摂理より多様で変化に富む宇宙の創造であると考える理由はどこにもない。

 この〔悟性よりも意志を優位に置く神の主意主義的な見解である、とりわけデカルトの〕神の自由の学説により、世界の一般的形式と法則の位階制を提示する偶然性は説明される。

 ではここで、第一原因の認識は下位存在の認識によって明らかにならないだろうか?

 人間的本性、つまり被造物の上位の形式は神的本性に似ていないことはない。感情、思考、意志において、その本質は神性での三つのアスペクトのイメージや象徴のようなものを有している。同じく下位の存在は、その当番として、本性や進歩において、独自の仕方で、人間の諸属性を喚起さす。だから世界全体が神的存在を模倣した下書きであるようにみえるものの、それは有限の本質が含まれているような、象徴的な模倣でしかない。

 神は最高の善、最高の美ではなかろうか? 自然の諸存在が神とどこかしら似ているとすれば、神は創造的原因としてだけでなく、それらの理想idéalとしても現れるのではないのか? しかし、もし自然の存在それぞれが、前もって拵えられのに存在を無際限に超越している理想を目指すのだとすれば、存在それぞれにおいて、存在よりもより大きな、自発的力能があるのだというべきではないか? 己の尊厳に従って、善の成就へとすべての存在が促され、善の必要条件である自発的な活動力をそれぞれに預けることは神の善性にふさわしいといえないだろうか?

 事物の歩みは航海navigationと比較することができる。航海士の第一の関心事が暗礁を避け嵐を切り抜けることであったとしても、そこで彼の努力は終わらない。目標は到着することにある。そして、なんであれ経なければならないその道程を通じて、彼らは目的へと絶えず向かっていく。前進すること、それは散りばめられたルートの危険さからともかくも完璧に逃げ去ろうとすることではなく、目標に接近するということだ。しかし、航海士は使命をもつと同時に、使命を完遂させるために必要〔必然〕な行動の自由を持っている。とりわけて、船を指揮することを任された者はより大きな権限を付与されている。なるほど、大海l'Océanに比べてみれば、その男たちの力など皆無に等しい。けれども、その力は知性をもち組織されている。力は時々に発揮される。感知できる仕方で外的条件を変化させはしないが、しかし到達すべき目的から見て進むべき方針を抽出しようとして計算された操縦の連鎖によって、人間は波や風を、意志の召使ministresにさせる。

 同じく自然の諸存在は、自らを取り囲む障害物を通じて存続することや、外的条件に服従することを唯一の目的としていない。諸存在は実現すべき理想である。種においてひとつひとつのその理想は神に近づくこと、神に似ることで成立している。様々な存在には真の理想が伴っており、それというのも存在のそれぞれが特殊な本性を持ちつつも、その固有の本性〔自然〕において、かつ、本性によってのみ、神を模倣することができるからだ。

 被造物が生んできた改良は、自らを超越していくある程度の自発性をもつ権利を被造物に与えた。存在の使命が高度になるにつれて、即ちその本性が改良を含むにつれて、ますます目的に向かう手段である、その自由が拡張されていく。そして、自由は事物を激変させることなく、事物が自由の有効な手助けしてくれる。つまり世界は感覚不能な介入で配置されているものの、適応されており、最も敵対的な力を助力するものに変えることもできるものなのだ。

 存在の諸形式に適用される、この学説は、存在の歴史に顕示されうる偶然性を説明し、全き遇運を排除していると思える。

 人間には理想がある。それは悟性が、人間的本性の観念を神の観念を前に置き、第一のもの〔人間的本性〕を第二のもの〔神〕によく似せて、決定するものだ。きっと、それは純粋かつ単純な模倣の方法によるではなく、解釈、翻訳、象徴的置き換えといった方法によってなされる。というのも、もし人間の知覚可能性に限界を割り当てることに根拠がなくても、他方では、あらゆる中間的な諸段階を遍歴することなく目標に到着できると主張することも改良の実践的条件からは反するものだからだ。

 意志の改良は善性、自分自身までも贈与する慈愛charitéであるだろう。知性の改良によって事物の流れを予見し導くことができる完璧な認識であるだろう。感受性の改良は慈愛の知的かつ有効な実行を伴う幸福であるだろう。

 この理想にあって、人間は最高目的との関係が、即ち神への改良の関係がはっきりと見えており、まさにそこにおいて、神を追い求める義務として理想は現れてくる。それを善bienと呼ぶ。

 他方、この同じ理想は、それが人間本性に授かる限り、不完全に形成され、それ自体における善そのものと混じり合うことはない。それは善そのものの象徴、人間の言語への翻訳でしかない。理想は秘められた高次の意味とは独立した、それ自体で意味をもつ図なのだ。この第二の視点からみれば、理想は美と呼ばれるものであり、それは魅力によって働きかける。

 義務的な善を完遂させるために、美の魅力を追求するために、人間は知性の自発性に恵まれており、その最も高度な形式とは、善と悪、神に近づく行動と遠ざかる行動、これらの選択能力、即ち自由意志にある。その力のおかげで、人間は、感情的状態、観念、欲望といった流れに介入し、それらを意志や、思考や、ずっと高められた満足に変化させていく。ここにあって、人間は自然を支配する。何故ならば、彼の魂が彼の身体〔物体〕に作用し、身体は物質に作用することができるからだ。かくして人間は内的自由と外的自由を有することになったのだ。

 けれども、いわば、最初に理想を実現してでもいるかのように、自らの作用に自惚れた自由の自発性は、なされた行為によって決定されるがままの習慣へと変貌してしまう。この変身は形而上学的な悟性の働き、それか、神の不変の本質に釘付けされた眼で神的理想を眺める人間の行動に対して、絶対の形式を与える不変性の本能である。人間の自発性の働きがそれの含みうる全ての改良を一切提示しなかったならば、つまり人間の理想が決して実現しなかったならば、その停滞は、正統であろう。だがアクチュアルな世界の条件において、自由な自発性はますます神にただただ接近していく。自発性の務めには決して果てがないのだ。

 しかしながら人間の活動力は、同じ行為のみの反復で段々決定づけられ、少しづつ無分別で宿命的かつ一様な傾向に堕していき、継起の秩序の著しく恒常的である現象を引き起こす。外から見ると、その現象は実証的法則の表現や経験した対象の間の必然的関係と別物には見えない。こうして人間の全ての行為はもちろん、道徳的意識の判断になった行為に対してさえも、介在した自発性があることが無視された、綜合化と説明が試みられるのだ。統計は自由意志を見捨てた領域を正統にも侵攻していく。そして統計が大きな土台に作用するとき、諸事実によってその結論がほぼ認められる。何故ならば人間の自由意志を目覚めさせ掲げるために習慣の分厚い層を破っていく人間は、習慣に統治される者や本性が前もって形成した者と比べてみたとき、数の上では取るに足らないからだ。けれども実際には世界の審判者であるのは、前者の方である。多数の力学的行動は単にその前者が与えた衝撃の反動にすぎない。その理由は、実際、正確に相似た歴史上の二つの時代が見つからないということだ。第一の衝撃は、どの細部にあっても決定されている時代の流れの間では捉えられない、様々な衝撃から生じた複数のシステムを相互に比較する観察者にとって現われる。そして流れに追随するしかない人間そのものは、その魂の根底で、曖昧に変化の力を感じる。それを行使してみると、その現実が意識とっても明白なものになっていく。力は、計算を詰まらせる結果を生じさす点で、行使することによって鍛えられる。遺伝、本能、性格、習慣、これらが根底的に、自発性に対する反作用でしかないとされたとき、絶対的に宿命的な法則であることをやめる。習慣を自己創造する意志ならば、より高く自分を高め、また再び降りていくために習慣を変えることができる。習慣に対して実際に高次の改良のステップとなる能動的性格を意志は支えることができる。逆に段々意志が麻痺していく受動的習慣のなかで自らを忘却することもできるのだ。

 だから心理的法則を特徴づける継起の一様性はそこでは人間の活動力の一位相でしかない。エネルギーが増大することによって、魂は自分の習慣、性格、最も密接な自然〔本性〕を改良することができる。しかしそうして行動の自由を増大させようと、魂がただただ本来の意味での自然〔本性〕や下位の存在の自然〔本性〕に支点を取り、つまりは自己愛や知性に反した力への適合の他に頼れるものがないと、魂は自らを欺くことになる。自分の利害関心しか追求しない人間は固有の自然〔本性〕の奴隷である。意志が外的感化の表現でしかない人間とは事物の奴隷なのだ。自由の源に遡ることを通じて、人間は自分のそれを増大させることができる。でもってこの源とは、改良であり、自由な動作主を求める実践的な目的なのだ。つまり支点を生み出す目的の観念そのものにおいては、自分固有の自然〔本性〕と自らが住んでいる世界を人間が支配することができれば、結局、自己を越えて支点獲得がなされるというわけだ。

 しかし人間的本性のこの目的は、人間の眼には可視的な表現として映らない単純かつ純粋な観念ではない。法則や、風習や、公的意識を尊び、道徳感の低下を恥辱たらしめる組織化された社会において、観念は実現し始める。つまり社会を宙吊りにしつつ社会のために生きる人間が実践のなかで、自由が広がり増大するのだ。社会とは人間的自由の可視的な支柱である。

 とっいっても社会的つながりを理解するには二つの仕方がある。一つには、相互不信や多かれ少なかれ技巧的な組み合わせに基礎づけられた、純粋に外的なつながりがありうる。この場合、社会の形式は教育的というよりは強制的な影響力をもつ。だがそれとは別に、信頼の相互性や犠牲的精神である、諸々の意志それ自体の間ででの内的かつ直接的なつながりもありうる。そしてそれがとりわけて実現されると、社会形式は人間の道徳的改良に対して力強く貢献できるようになる。根拠づけられることなく意志に直接向けられることで、間違いなく、しかも最も決定的な証明よりもより奥深く振舞われる事例を私達は知らないだろうか? 〔いや、知っている。〕生命は機械仕掛けmécanismeからは生じない。

 人間の自由は、社会に自発的に服従することで、魂と自然〔本性〕に効果的に働きかける。人間から自己の所有物を奪い去るエゴイスティックな情念を自由は抑止する。個体の善にとって最高の目的が提示されていなければ、欲望と思考を整理する自由なるものは、その内側で闘いを繰り広げることをやめはしない。人間は同胞の善のために働くとき、自分がよりよくなっていくのを感じる。それと同時に自然に対して己の帝国が大きくなる。諸々の努力を収束させて科学〔知〕を用いることで、人間は障害物を段々道具に変えていく。それと同時に下位の存在に新たな美を招き寄せる。もし自然の力によく似た力を創造する力能がなくとも、きっと諸存在の内的類似に由来する可能性であるところの神秘的な作用の連鎖を用いて、理想に対する魂の憧れを物質にまで広めることができる。それと同時に、下位の存在が魂に引き付けられ、自然では生じなかっただろう進歩をその下位の存在にあって喚び起こす。

 しかも、正に人間固有の改良の視点からすれば、人間は世界に対してそのような帝国を所有することを欲している。人間の情動affections、思考、欲望に対する物体や事物の影響力は、極めて大きく、その下位の諸力を仲介させるだけで実際に精神的〔道徳的〕本性を変えるといっても過言ではないほどだ。条件づけられた条件に立ち返り、化学的物理的現象によって、もっといえば力学的現象によって心理的現象は変化しなければならない。例えば刷新régénérationの働きはより深い基盤に基づくぶんだけますます安定的だろう。洪水を止めるには、水浸しになった平原を堤防で守るだけに留まらず、河の源にまで遡り、流れの方向を変えなければならない、ということだ。

 人間性が強力になるのは、統一、調和、道徳的位階制の能力が自発的に高い度合いに恵まれ掲げられたときだ。というのも力能は魂の統一に属しているからだ。外見上は極めて壊れやすい生命の世界は、しかし組織化において、一様性、分割性、孤立性が支配する無機的世界を目的に従わせるというその調和の下書きのごときものをもっているというわけだ。そして、人間の人格においては、心的力能が意識によって統一に連れ戻されることで、魂が切り離された諸器官がそれぞれ一つの生命であると主張するところの身体を統べることになる。各情念が魂のすべての力を吸い込もうとして、その結果相互に争って自らの力が弱まっていくにも関わらず、情念を意志が統治することができるようにのは、意志が目的に従属し、しかもそれに応じて目的がその統一性を意志に伝えるからこそである。最後に、社会が道徳的位階制となり、それ故に、高次の統一性を有するようになると、社会そのものと事物に対する帝国を、あたかも無際限に大きくして、人間の力を引き延ばしていけるようになるのだ。

 もし社会が人間の力で整理することで人間が力強くなるのならば、他方では、社会から隔離されるに応じ、正にそのことによって、人生の目標は高められず、次第に内的かつ外的自由が減少していくだろう。人間そのものの内部に人間は、あらゆる方向に自分を引っ張りまわし、とてもじゃないが征服しえない力としての情念に出会う。抑制されていれば情念は貴重な補助者だが、互いに領分を争い合うとき人間は無能でしかない。人間的本性〔自然〕は自らのうちに個体的な生命よりも高い目的地destinationの徴をもつ。同じく、隔離された個体は自然を前にしては無力だ。人間が己を自然を超えて高めてくれる高次の調和の特権を自ら捨てるとき、自然は人間に対する優位を回復する。

 自由意志において、人間は神の自由のイメージを持っているというのが本当であるなら、心理的現象が偶然性のある度合いを提示することにもう驚くことはない。偶然的要素は明らかに道徳的進歩ないしは低下の外的結果、つまりは習慣を変えるための、良きにしろ悪きにしろ、自由の介入の外的結果である。固定された諸法則は、反対に、魂が習慣に任せた部分の表現である。

 では、人間に関しては納得できる自発性の学説は、意識なき諸存在には適用できないものだろうか?

 なるほど、それら存在は、自由意志と名付けられるところの、自発性の高次の形式をもっていない。その形式は遠く隔たった目的を追求することで成立し、ある決心をするときに別の決心を抱ける能力をもつ。また、どのような尺度で、自発性が神の創造的活動と区別されるのか、その存在の固有なものとして属するのか、それを定めることは不可能である。しかし、他方では、下位の存在がもし現象としてでしか存在しないのならば、もしそれ自体では、全く存在しえないならば、それが真に存在であるといえるだろうか? 私たちの魂と全く似ていないこともない内的活動力に対応した生理的物理的現象を自分達のうちにおいて眺めるとき、現象が魂を助けたり挫いたりするという理由により、私たちが現象を眺めるどんなところでも内的力能があるのだと認められないだろうか?

 人間にとっての下位の形式は、少なくともある程度は、改良していく可能性がある。その形式にも理想があり、その形式のやり方で、高次の形式に、要するに神そのものに似たものとなるという理想がある。いかにして自然、つまり山々、海、空などは人間に似るのだろうか? 詩人はこれを知っており、私たちの言語で事物の調和的神秘を翻訳する。ただし、これは自然が変身し変化しているのではなく、下位の存在がますます高まっていく諸観念を表現できるということなのだ。自然が統治する根本的な変身とは、宇宙からその装飾のひとつ、支柱のひとつから奪ってくるという革命に違いない。下位の存在は美しくなっていくどころか、固有の能力に従い自然を解釈することなく、高次の存在の相貌を模倣しながら、醜くなっていく。形式が自然的であり、かつ表現的である場合に限り、象徴は感嘆する対象たりうる。自然の存在それぞれにとって、特殊な理想とはそんな風にあるものである。

 下位の諸形式を下っていく連鎖において、理想、つまりは諸存在の本性と両立可能な改良の度合いは、絶対的な改良からどんどん遠ざかっていく。その理由は、改良の度合いの実現が不可欠であるように現れてこなくなっていくからだ。従って、それは義務的な善ではもはやなく、美、つまり神秘的な意味をだんだん喪失し、可視的な側面が発達して、段々直接的な魅力を及ぼしてくるところの象徴になるのだ。

 どんな度合いの存在にとっても、追求すべき理想があり、だから、どの存在にも、自発性の度合い、本性とその理想の価値とを釣り合わせる変化する力が存在せねばならない。しかし下位存在の自発性は盲目的で間接的な傾向が役に立たず、おまけに人間の自発性が発生させる変化そのものの反動を被むることになる。人間の習慣が弱い観念しか与えない点からいえば、自発性は決定づけられ、限界づけられ、事物に没頭している。従って、動物の本能、生命、物理的力学的力などは、段々深く存在の自発性に入り込んだ習慣であるといえる。このようにしてその習慣が乗り越え難いほどに生成してしまう。外から見ると、習慣は必然的な法則としてのように見える。ところがその宿命性は存在の本質ではない。存在にとって習慣は偶発的だ。それ故に高次の自発性の介入、ないしは、理想の直接的影響がきっと、最も不完全な被造物から麻痺状態を抜き取り、活動の力能を駆り立てるのだ。

 だから、一方には、すべての存在に、神の光を借り自然的本質を変貌させながら悟性が組み立てた理想、モデル、己の類における完璧さがある。他方、すべての存在において、その理想を追求するのに適した自発性もある。

 従って、存在のそれぞれの領域において、本質と法則は二つのアスペクトをもっている。

 生理的世界において、生命は観察可能な機能の集合に連れ戻されない。実際、それぞれの種のなかで、種が備えている諸形式を実現する傾向をみせる内的力能は、その種の存在そのものにとって最も有用であるだけでなく、最も美しい。

 物理的世界においても、諸形式を実現する傾向をみせる特性は、状態の変化、組み合わせと解体の真の力能であり、それは単に安定的であるだけでなく、物体の本性が認めるだろうなかで最も美しい。

 力学的世界において、力は単に運動間の観察可能な関係の表現であるだけでなく、表現を延長、図、対称性、運動の言語に翻訳しながら美を実現する傾向をみせる、実際的な力能でもある。

 そんな風に、生理学や物理学や数学の原理は単に物質的意味とアポステリオリな起源をもつだけではなく、それに加えて美学的な方向と、その視点でいう、アプリオリな起源をももっている。

 最後に、存在の抽象的形式においてさえ、自発性はおそらくは完全になくなることはない。

 論理的秩序、つまり事実を概念に従属させることには、内的理由ないしは究極原因cause finaleを自発させる作用がきっと隠されおり、そこでは概念は論理的記号でしかない。だから諸個体が種のなかに自身の存在理由をもつのだ。原型や究極原因は、相対的には不動であるのに、より美しい形式を追求する必然的な自発性を有している。故に、経験の論理的法則は、結局、アプリオリな美学的原理に基づいているのである。

 同じく、存在論的秩序、ないしは現象の因果的結びつきは、世界に変化を引き起こす形而上学的力能ないしは真の諸原因を、隠し持っている。その基本的力能はいわば、他のすべてのものの基礎となる存在の習慣であるために、宿命とほぼ同一なほどであるが、それでもその内的本質のなかには、最低限の物質的なものを伴って最大限の可能的なものを生み出し、外的条件、即ち現象的原因を超越する効果を想像することを対象とする、自発性の残余が未だに残っているだろう。故に因果性の原理もまた、美学的な意味をもち、その視点からいえば、アプリオリな起源をもっていることになるのだ。

 必然性の観念についていえば、実際にはそれは、事物に対する理想、被造物に対する神によって及ぼされた作用を、抽象的であるとともに可能的でもある論理的言語に翻訳したものだろう。その言語は道徳的義務と美学的魅力、即ち同意し実感したconsentie et sentie必然性の最も物質的な象徴なのだ。それはきっとただ己のみを表現するするしかない可感的な記号を超え出た項で、最終的には消失して絶対的な無と同一視される。この意味で、必然性の観念は、これもまた、アプリオリに設けられた原理なのだろう。

 それ故に形而上学は、偶然性の学説によって準備された場によって、自由の学説を設定しえた。その学説に従えば、事物の最高原理は法則である以上に、道徳的美学的法則であり、現象に先んじて存在し自発性を負う動作主を想定している、神への改良の多かれ少なかれ無媒介的な表現なのである。にも関わらず、存在しえず、実際には自発的に完遂されたときしか実現しないそれは、実現されるに値する理想ないしは実践的な善なのだろう。自然法則についていえば、それは絶対的には現にありはしない。自然法則は単に事物の道徳的美学的度合いとして与えられた位相、段階を表現する。本質上生き生きとして可動的なモデルを、人工的に獲得し固定させたイメージである。その法則に現れた恒常性は理想そのものに一貫している安定性に理由がある。存在が、一度与えられた形式のなかで不動化してしまう傾向がある、といわれるのは、第一に、理想の性質を帯びる特徴の下で、存在を見ているからだ。そこで悦に入り、執着するからだ。人間の内にあってそれは習慣と呼ばれている。でもって習慣は、能動的になり、それがまだまだ更に高まっていける段階とみなされたとき、神の恩寵になるが、反対にそれが決定的な項に対して獲得され、受動的になるとき、力の衰弱、分散、分離の原因へと成る。理想が高められず媒介であることも止めていくに応じて、より根深く受動的になった習慣は、能力、本能、特性、力などによって継起的に翻訳されて現われる。習慣は下位の存在に生命なき法則の組織を外見上与えるのだ。しかし習慣は自発性と実質的な宿命性とを取り替えることはできない。それが正に自発性というものである。つまり習慣が従順にしているようにみえる法則の下で、自発性は美と最高の善性の魅力に対し敏感であり続けている。どの度合いであれ、自発性は自らの理想に近づき、その本性を改良させていくことができる。その理想そのものに接近するなかで、受動的習慣によって減った要素をかき集め、自発性はそれらを新しい征服を目指して組織するためのエネルギー増大を見つけ出す。そのようにして存在が自分自身のためにのみ生きるのを止めていくに応じて、存在がより自発的に、より完璧に下位の存在を上位の存在に従属させ、条件づけられたものに対し条件を内的に適合させ、物質を形式に適合させるに応じて、世界における、一様性、同質性、等しさ、言い換えれば物理的宿命性の帝国は、順次、小さくなっていく。善と美の完璧な勝利は本来の意味での自然法則を消失させ、それを改良に向かう意志の自由な飛躍、魂の自由な位階制に置き換えるのである。

(了)