Chapter-1 「不可解さ」の構造


◆ 無視するには話題になりすぎていたので。

◆ …というのはウソだが、先月の半ば過ぎに、「千と千尋」以来、実に十年ぶりで宮崎駿(以下全て人名敬称略)の作品を鑑賞した。

◆ 十年、と書くとずいぶん長い気がする。年を重ねるごとに自分の関心はアニメから遠ざかる一方で、とりわけ「ポニョ」だの「ハウル」だのいうファンタジーには全く興味を持てなかったのがスルーしていた理由だ。

◆ けれども、「風立ちぬ」は零戦を創った堀越二郎を描くという。「憲法改正反対」だの「安倍政権許すまじ!」だのなにやら盛んに言ってはいるものの、根っこのところは重症の戦争オタクである宮崎駿がそのような題材に取り組めば、かれの持つ稀有で天才的な美質が久しぶりに最大限発揮されるのではないか、と期待したのだ。

◆ しかし、映画館を出た直後の感想は酷くもやもやしたものだった。前々日に池袋の芸術劇場で観たマームとジプシーの【cocoon】から受けた衝撃が消えておらず、異様に淡々と進む戦争の時代の物語に、腹立たしささえ感じてしまった。

◆ 各所に、「読み」を要求する仕掛けがあれこれ散りばめられているのは分かったが、やたら「美しい!」「素晴らしい!」と褒めチギられていた映像の、印象派風でメルヘンチックなトーンにまったく入り込めなかったこともあって、注意深く画面を見る集中力が続かなかった。ほぼ満員の新宿ピカデリーでは、エンディングの「ひこうき雲」で少なからず嗚咽を漏らす観客(すべて女性)もいたが、「な…え、ちょ…え…、え、え、ええええええええ?」と呆気にとられたというのが正直なところだった。

◆ 「風立ちぬ」の、メディアや周囲での評価は、少なくとも僕が目にしたものは絶賛か否定(というよりは困惑)に分かれるという極端なもので、肯定派は「菜穂子と二郎の純愛ガー」とか、「モノづくりの技術者魂ガー」とか、「反戦平和と零戦最高!」とか言っており、否定派の方は、「長い。眠い。退屈」「意味が分からない」「反戦とハッキリゆってない!」「病人の横でタバコ吸うな」「ていうかタバコ吸うな」等々と貶していた。

◆ どれも好き嫌いレベルなら賛否の理由足りえるのだが、結局はごく表面的な見方に過ぎず、作品の奇妙さ、不可解さの構造が全く語られていないという印象を受けた。


Chapter-2 岡田斗司夫の【「風立ちぬ」レポート】


◆  あまりに腑に落ちなすぎたので、帰宅してからウェブであれこれレビューを検索していると、オタキングこと岡田斗司夫の「説」を「検証」している2chのスレが目に止まった。

◆ 一体全体、なにが「説」で何が「検証」なのか?と思ったが、スレをざっと一読したところで、ぼくは「アー」と唸って検証元のYoutube動画を探しだし、すぐにはじめから最後まで全部観てしまった。続けて、いくつか関連する岡田のブログエントリも読み、さらに動画をKindle本に編集したものまで購入してしまった。それだけ、「風立ちぬ」が孕む「不可解さ」を解きほぐしてゆく語り口に、他の論者とはまったく次元の違う説得性と刺激を受けたからだ。

◆ ひととおり観て、読んだ上で、「宮崎駿の最高傑作」という賛美や、いくつかのポイントで岡田の評価には与しないが、分析そのものには殆どすべて同意したのだった。


 


【レポート】『風立ちぬ』は宮崎駿の作家性が強い「残酷で恐ろしくて美しい映画」
http://blog.freeex.jp/archives/51395088.html
【レポート】宮崎駿の最高傑作『風立ちぬ』は「ひとでなしの恋」
http://blog.freeex.jp/archives/51393680.html
【緊急レポート】岡田斗司夫がとことん「宮崎駿引退問題」を考える!!
http://blog.freeex.jp/archives/51397045.html


        岡田斗司夫の「風立ちぬ」を語る①~人でなしの恋を描いた「風立ちぬ」~ 電子版   岡田斗司夫の「風立ちぬ」を語る②~本当は残酷で恐ろしくて美しい「風立ちぬ」~ 電子版


◆ 特定のアニメ映画に対する「読み」でここまで感心したのは久しぶり…というか初めてかもしれない。

◆ 岡田斗司夫という人がいま現在どれほど知名度があるのかはよく分からないが、大昔にNHKの【漫画夜話】でレギュラーをやっていた時期に知って以来、頭の回転は早くて話も面白いが、根本的に他者を小馬鹿にしたところがあってそれがすっごく不快だな、という印象を持っていた。五、六年前だったか、「プチクリ」だの「ダイエット」だの自己啓発的なことを言い出して、さらには「評価経済」というコンセプトで宗教すれすれのコミュニティを作ってからは完全に「違う世界の方」だと認識していたのだが、一連の「風立ちぬ」評は本当に精度の高いものだと思った。

◆ アニメに限らず、この手の作品分析や批評の多くが、ただの自分語りか我田引水のコジツケ、あるいは凡庸な観点からの退屈な解説に過ぎないのに比べ、岡田の「読み」は作品そのものから離れず、かつ単独で充分にエンタテインメント足りうる強度と鋭さを持っている。長くなるので詳細は動画とブログ本体を参照して欲しいのだが、以下に評価と分析の主な点を要約してみる。



  • 総論としては宮崎駿の最高傑作。100点満点で98点。

  • 多くの観客が誤解しているような、きれいで泣ける悲恋話、夢追い物語では全く無い。反戦平和も憲法も関係ない。宮崎駿がはじめて「子供向け」ではなく「大人向け」に、「作家性(おれってこういう奴だよという自意識)」を全面に押し出して創った、「残酷で恐ろしくて美しい映画」であり、無教養な者(庶民)を突き放した作品。

  • その「作家性」とは、「美しいもの」を生み出すためには社会(文明)に搾取と差別の構造が必要であり、自分(宮崎駿)はそれを肯定するという姿勢である。スタジオジブリが存在する現実世界がまさにそうであるように、「ピラミッド=格差と貧富差」が存在し、強者が弱者を搾取しながら夢を追うことでしか、飛行機や芸術などの「美しいもの」は実現され得ない。「美しいもの」の探求の為には、人々が困窮しようが、国家が滅びようが、百万の人が死のうが知ったことではないという強烈なエゴイズム。

  • つまり「風立ちぬ」は、徹底して「きれいなもの」にしか興味の無い、現実認知が歪んだ天才である堀越二郎の生き様を中心にして、(どんな犠牲も厭わず美しいものを追ってしまう)人間の「罪」を描いている。「罪」への「罰」はなく、死んだ妻からの「赦し」によって後ろめたさを浄化させて終わるところに、宮崎駿自身の「アニメを作ってきた自分への赦し」という自己正当化願望がダブらされている。二郎は宮崎の自画像であり、自分にとってアニメとは?青春とは?という己語りにもなっている。観ている我々が感動するのは、我々も二郎=宮崎の「罪悪感」を自分たちなりのスケールで持っているから→生きるということはどんなかたちであれ、他者を犠牲にすることに他ならない。

  • そうした作家の本音、メッセージを露骨に提示することなく、細かな演出による多層的なレイヤー構造の中に落としこんで表現している点が非常に高度である。「ポニョ」や「ハウル」のように監督の見たいシーンや妄想が垂れ流されているだけのものとは違う。表面上はノスタルジックな風景を舞台にした素朴なラブストーリーとも解釈可能な世界の中に、残酷で恐ろしいものが内包されている。

  • 「風立ちぬ」が持っている多層性と、物語における「戦争」の描き方は、宮崎駿なりの「火垂るの墓」や「エヴァンゲリオン」への回答になっており、その本音も、作家性の作品たる所以。「おれにとって戦争は、戦時下の悲惨とかではなく、どういう戦闘機が闘ったとか、そういうものだよ」「美しさとか残酷さとかは(エヴァのように)絵に描いて”ほら、ほら”ってやるものじゃないんだよ」



◆ 岡田は、動画やテキストの中で以下のように言っている。「初見の人には予断ができてしまうので勧めないが、もう観ている人で、単純に泣けたとか、あるいは、なんだかよく分からなかった人たちは、僕の解説を思い出しながら、もう一度、観て欲しい。そうしないともったいない。宮崎駿は本当に注意深く作っている」

◆ いまのところ、ぼくは二回目に行っていないし、行く予定も無い。恐らく、もう一度観たら指摘のとおり「アー、ホー、ヘー」といちいち「納得」するのだとは思うが、あの作画や声優(岡田に指摘されるまでもなく、庵野秀明が起用された意図は充分に理解できたが)によって醸される世界観というか雰囲気にまったく入り込めないのは変わらないだろうし、答え合わせをするような面白がり方しかできないなら、わざわざ映画館で観ても仕方ない気がするからだ(とはいえ、ソフト化されたら観るかもしれない)。

◆ つまり、ぼくは「風立ちぬ」そのものより、岡田の語る作品の構造や演出意図の読み解きの方が遥かに面白く感じてしまっているわけだ。それは岡田の「芸」が優れているからでもあろうし、自分にとってアニメ表現というジャンル自体に求めているものが違うからでもあるのだろう。

◆ ぼくがアニメに求めるものは、「美しさとか残酷さとか」を、「絵に描いて”ほら、ほら”」と誇示するさまであり、だから「もののけ姫」がジブリのアニメではいちばん好きなのだ(そして宮崎駿の最高傑作は漫画版のナウシカであり、他に考慮の余地はない)。


Chapter-3 【美を追う天才の「罪」は赦されるという傲慢】


◆ アニメーションとしては前記のように思うわけだが、「美を追う人間の罪、そして罰の無い赦し」というテーマには個人として深く感じ入るものがある。

◆ 宮崎駿は、公式公開されている「企画書」に、「夢は狂気を孕む」「美しすぎるものへの憧れは、人生の罠でもある」「美に傾く代償は少なくない」と書いていたが、いついかなるときも「きれいなもの」にしか興味の無い技師の二郎が、その類まれな能力と情熱を極限まで傾けた「夢」は、破壊をもたらす翼、戦争を前提とする殺戮兵器なのだ。

◆ 自覚的に兵器の「美」へ没入する行為は、美の探求(夢)が国家を破滅させようが人々の大量殺戮に繋がろうが考慮せず己のエゴを最優先させることであり、単なる芸術至上主義とは全く違った倫理の逸脱、「罪」が存在する。

◆ しかし、二郎はそれに対して殆ど現実逃避的なまでに反応を見せず、価値判断を放棄している。「(日中戦争勃発の報を聞いて)破裂だなあ」「散々でしたよ」「1機も帰ってきませんでした」と他人事のように呟くだけだ。

◆ 二郎の不気味なイノセントさと無責任は、原爆開発に関与し、「我は死神なり、世界の破壊者なり」と【バガヴァッド・ギーター】から引いた言葉を遺し、「わたしの手は血まみれです」とトルーマンに泣き事を言ったオッペンハイマーの精神構造とは遥か遠く隔たっている。



【美しいモノのために生きた男というのは、まゆをひそめる程度なんですよ。戦争には負けたなあと。何千万人も死んだなあと。まゆをひそめるだけ。で酒を飲みに行っちゃうんですね。】

 


◆ 幾ばくか、「まゆをひそめる程度」には「罪」を犯す迷いらしきものもあるが、繰り返される妄想(カプローニとの夢)や悪魔の助言(軽井沢のドイツ人、カストルプ)によって、結局はエゴが肯定され続け、日本に破滅が訪れたあとも二郎本人が払う「代償」=罰は描かれない。僅かにあったうしろめたさも、無体に扱った亡き妻の赦しによってウヤムヤになり、妄想の中で物語は終わる。

◆ 当初のラスト(宮崎駿の最初の案では、主人公・二郎も死んでいた)ならば、救済には導かれるものの、煉獄という「罰」によって、「盲目的に美を追う者の破滅」「美しすぎるものへの憧れは、人生の罠」という教訓を導く構造になったのだけれど、結局、宮崎駿は、肯定され、免罪されることを選んだ。

◆ 人生最後の長編でそんな自身のエゴイズムを全面開陳し、「おれってこういう奴なんだよね」と告白するかれの「正直さ」には、ただもう、「すごい」としか言い様がなく、たじろがされる。


Chapter-4 「生きねば」ならないのは「あなた」ではない


◆ 岡田斗司夫は、「生きねば」という映画のコピーについて、「本人が考えたもんじゃないですよ。どうせ鈴木敏夫さんが考えたんでしょう。生きねばは関係ない。この映画はうまく宮崎駿以外の中和剤が入っている」と断定しているが、妄想の中で菜穂子に、「生きて」と言わせている以上、あれも宮崎駿の告白に他ならないのではないか。「美のために、どんな犠牲を払っても自分(天才)は生きねばならない」「天才は赦される。そして生き延びて、また探求を始める」

◆ なんとも凄まじく、おぞましいまでの傲慢と自己愛。

◆ 宮崎駿にとって、映画を観ている観客はラストシーンで地上を埋め尽くす飛行機と死体のようなものであり、「生きねばは、関係ない」とは、「お前らの生死とかじゃないんだよね」という意味でなら、正しい。「おれも頑張ろう!」と涙し感動する凡俗の誤解などとは徹底的に無関係な言葉なのだ。少なくともぼくはそう受け取った。「生きねば」などとは言えないし、言いたくもない。

◆ 今後、もし再びこの映画を観る機会があったとき、「生きねば」は自身にどう響いてくるのか。このテキストを読んだ人も、意識してみて欲しいと思う。



追記:そういえば、「もののけ姫」でアシタカがサンに呼びかける有名なあの台詞、「生きよ、そなたは美しい」も、「風立ちぬ」の文脈から敷衍して読むと、「そなた」は、「美しい」からこそ「生き」るべきだ、という身も蓋もなく赤裸々な言葉にも聞こえてくる。「美しくなきゃ勝手に野垂れ死んでろ」みたいな。いや、これはさすがに穿ち過ぎだろうか…。