凡例


1:この翻訳はエミール・ブートルー(Emile Boutroux)の『自然法則の偶然性について』(De la contingence des lois de la nature [Paris,1898]の部分訳である。原著はINTERNET ARCHIVEで全て閲覧できる。
http://archive.org/details/delacontingence00bout

2:強調を示すイタリック体は「」に置き換えている。《》はそのまま用いており、〔〕は訳者による補足である。

3:訳出にあったって、野田又夫訳(創元社、1945・11)を適宜参照した。
 


 
説明すべき事実が突如として現れたとき、科学の規則は新しい原因の存在を認める前に、既知の原因に照らし、それに従属させようとして、できる限り原因を少なく想定する。ところで存在や、類や、物質や、物体や、生命などの概念や法則を一度手中にした精神はすべてを説明できる力をもち、科学の公準の長いリストを完成させたのではないだろうか?


 実際、人間がそのように帰着さすことが可能ならば、世界が精神に提供するすべてのものは、その原理を使って説明することができる。というのも、その原理が無媒介的に適用されるところの存在の諸形式の外に、経験に与えられた対象として残るのは人間的本性以外にないからだ。

 なるほど、私たちの第一の意見は、理性と言語に恵まれた人間と、そのほかの生物の間には、根本的な差異が存在するということだ。しかしその信仰は比較と帰納によって弱められはしないだろうか? 過去でも現在でも、下等生物に近づかせる劣化の連鎖を提示する人間的本性が見れないだろうか? 最も高められた人間においても、その感嘆に値する能力は、発生を探求してみれば、還元不能な性質のようには現れては来ない、ということはできないだろうか? つまり反対に、最も単純な能力から性質は派生し、最終的には推測できないこともない自然法則に従い、外的事物の作用に自動的に反射する作用で応答する能力といった、すべての生物に一貫した基本的な力に連れ戻されるといえるのではないか? 感覚作用とは私たち固有の傾向に対して外部からの影響力の、少なくとも不完全ながらその影響力に沿った起こる衝撃とは別物なのだろうか? 例えば眠りのように、刺激が極めて弱いときや、習慣のように、適応が完全なるときに、感覚作用は消え失せたりするではないか? また思考とは現象のつながりの恒常性に従い整理された、外的現象の内的な再生産とは別物なのだろうか? そしてその再生産は恒常性を受け止め保存するために適切な強さをもつ蝋にひとつひとつ刻印づける、現象そのものの働きではないのだろうか? 最後に、意志とは、最初からあるものにしろ、獲得したものにしろ、外からの刺激の影響力の下で活動力を注入し、その活動力で自分の印を事物に与える、私たちの傾向の集合とは別物なのだろうか?

 自由意志libre arbitreの意識というものは、私たちの欲望と欲望とが相克することの知覚と、その解決を決定し続ける諸原因の一部への無知とに結びついた、私たちの行為の原因である感情(この感情は基礎づけられている、というのも私たちの傾向性とは、私たち自身だからだ)と別物なのだろうか?

 あらゆる心理的活動力は詰まるところ反射的な作用に連れ戻すことができるようにみえる。しかし、そのようなものは生理的世界に既に存在してないだろうか? どんな有機体の機能にもあるのではないか? とりわけ高等な有機体においては、それが特異な錯綜さや、調整や、適応力を獲得するということだろうか?

 つまりは人間を説明するために新しい原理を認める必要があるのだろうか? 最も高く持ち上げられたその能力そのものは、実は、分化の一般的法則の力で、段々特殊に生成する生理的特性ではないのか? 心理的現象の説明は生理学に対して求めるべきではないのか? 例えば、生理学と物理学の間にありえる、科学の関係とは別の関係を心理学が有すること、判明な科学の如き心理学の構築を望むことは不当であり危険であり、無駄ではないだろうか?

 なるほど、現在の生のなかには、あらゆる心理的現象が、決定的な生理的現象に存する条件をもっていることは確かであるようにみえる。だからこそ、心的生命の生理的条件を探求し、それと同じく有機的生命の物理的条件や、心的変形の力学的条件を探究することは正統だ。しかしその探究が、期待通りに進んでも、生理学が心理学を吸収してしまうことは可能だろうか?

 どんな心理的現象においても、反射作用の理論や、感覚作用変形の理論にさえも、説明なしに同意できる要素が、様々な度合いで、見出される。つまりは、自己そのものの意識、存在の固有の在り方についての反省、人格性である。あらゆる心理的現象は意識の状態である、或いはそうでありうる。

 この要素を、感覚作用は既に含んでいた。だからこそ感覚作用を用いて魂の能力を構築することは問われているものを前提にすることだったのだ。

 反射作用についていえば、それは分析的な展開を通じて、意識を引き起こすことができるのだろうか? 意識を各要素に分解して、それらが反射作用に入っていたものすべてだと示し、その組み合わせの法則もどれにも等しく含まれていたと示すことが、できるのだろうか?

 意識の作用とは知覚ではないのか? と言う人もいるかもしれない。〔スペンサーの主張だ。〕しかし知覚は思考する主体を前提にしている。

 諸状態においては同時性の欠如によってでしか意識と物理現象は違わない、つまり心理的現象と生理的現象とに共通した、継起的秩序が、いずれの現象も同じ類へと整理するのではないか? と言う人もいるかもしれない。〔これもスペンサーの主張だ。〕しかしどうして、純粋かつ単純な継起はなぜか自己そのものの感情を含み、反対に同時性に結ばれた継起が感情を排除したりするのだろうか?

 意識とは、外から来た刺激と有機的システムの中心化に負う、生命力の蓄積ではないのか? しかし蓄積していく生命力は、その力が分散状態にあったときにどんな度合いでも顕示されない特性を、どうやって獲得したのだろうか?

 意識は有機体の傾向と外力との相克でしかないのではないか? しかし他の物体に対する物体の衝撃が別に意識を生じさせないのに、なぜ相克は意識を生じさせるのだろうか?

 要するに、人は次の二者択一の外に出ることことはない。第一に、意識演繹問題の渦中にある有機的事実のなかに人為的に意識を導入する。第二に、最初に意識があるかのようにした上で、完全に分析的な歩みを進めるも、純粋に有機的な事実に連れ戻すことの不可能性に舞い戻る。

 しかし本当は、ここで意識という名の下で分析しているのは、意識そのものではなく、意識の条件や、意識の対象であるのだ。その条件がおそらくは全体ないしは部分に還元可能な、複雑な集合を、生理的物理的な要素で形成する。同じく、意識の対象(感覚作用、思考、欲望)を、それのみで考察すると、生理的事実の継起との、大体は正確な平行関係を提示できる、複雑な集合を形成している。しかし意識そのものは還元不能的に与えられており、説明しようとすると見渡せず、分析しようとすると壊してしまう。意識の要素の細部、それを相互に対比させたり、下位の機能の要素に結び直したりして探究することは、意識の材料や働きを考察しようとして、意識そのものの視野を失うことに等しい。意識とは現象でも、特性でもなく、機能でさえない。それは作用acteであり、外から与えられたものを内に与えられたものへ変形することであり、現象を継起的に変貌させる生きた鋳型の一種だ。理想的な形式をまとうために固有の形式と実体を失いながら、現実的な本性と相異なると同時に相似ることで、すべての世界は場所をみつける。意識とは極めて深刻な現象の同化原理であり、だから変形の意識が事前にあってもそこに観念をもたらすことは決してできないのである。ある意味、意識に知覚されなくても、事物は事物のままであろうから、意識は存在に何も付け足さない。別の意味でいえば、存在させるfait êtreのが意識なのだ。というのも意識的な人格は、存在の立派な形式であり、意識に入るもの、あるいは入りうるものにしか現実性を割り当てないからだ。一方で、反射作用は内的統覚の対象ではないため、その本質を一切失わない。だから異なる反射作用のうち最も複雑な組み合わせも、統合した要素として、意識を入れることなく理解することができる。反射作用が問題である限り、問われるべきは認識された諸人格ではなく、既知の事物である。他方で、意識が現れ続けているあいだ、反射作用そのものには少しも光が当たらない。というのも、意識は私たち有機体における過ぎ去っていくものを、言葉の固有の意味で、私たちに明かしはしないからだ。意識は完璧に異質な現象を喚び起こす。現象は、生理的現象に何らかの仕方で結ばれ、生理的現象の現存の秩序を大体正確に、自分流儀で再現しているにしても、それ自体では、やはりほとんど別個の世界を、そして(これは反射作用の錯綜をただ考察していても予見することはできないが)他の意識に対して閉ざされた一世界を形成する。

 そもそも感覚作用や、思考や、欲望のなかに、生理的現象とパラレルにある要素を見つけ出せるということはどうでもいいことだ。他になく生理学にだけあるものとは、感覚作用の、思考の、欲望の意識である。同じく、意識における段階が現にあってもここではどうでもいい。自己moiに伴う現象の関係は本来の意味での意識によってすべて理解するべきものだ。その関係こそ、感覚作用や、思考や、欲望に、特殊で新しい形式を、与えるものなのだ。

 それ故、それ固有の法則に従う反射作用を組み合わせながら、分析的な構築の道のりを辿っても、意識を確かめる試みは、意識の本質そのものに対立することとなる。この理屈でいくと、意識よりも複雑なものは、一切存在しないだろう。しかし逆に思うに、意識のもはや一切が単純でないなら、自然はどこであれ、その観念的な項、つまり完璧さにおける統一に接近することはない。意識とは生理的機能の特殊化ではなく、発達でもなく、改良でさえない。また局面や合力でもない。それは新たな要素、創造なのである。意識に恵まれた人間は、生物以上のものだ。人格である限り、少なくとも人格性へ至る自然な発達である限り、個体的な有機体でしかない存在が達せないような完璧さを人間は有している。意識の形式は生命に重ね合わされた絶対的な綜合であり、根本的に異質な要素の付加である。即ちそれは、少なくとも論理的な視点から見れば、偶然性を折り込んでいる結びつきである。

 するとこう主張する人もいるかもしれない。その結びつきは理性そのものの作用であり、生命の概念から出発し、超越的な法則に従い概念を豊かにして、まるで必然的な結果のような、意識という形になるのではないか? と。

 主体にも客体にも絶対的に一なるもので、結果的には経験に与えられたものには還元することのできない意識が問題であるのなら、かくのごとく理性に訴えることは正当化されるだろう。しかし、心理学で問題となる意識は個体的であり、主体の多数性を認めている。更には、個体それぞれにあって、意識は適用される対象の多様性に従い、下位区分され、経験のバリエーション豊かな場の全ての部分に入り込んでいく。しかもこのように理解された意識が現にあることは、アプリオリな悟性によって私たちに明示されない。悟性は個体的な区分と現象の無限の変化に対し無知なのだ。だから反対に、意識は、経験的な意識そのものの無媒介的な対象なのである。別の言葉でいえば、意識は未だに経験に属しているのだ。だから意識の実現を権利上必然的とみなすために私たちが意識の本性を認識する仕方を持ち出してくることはできないのだ。

 最後にこう言う人がいるかもしれない。経験そのものに基づいても、生命と意識の関係は事実として必然的なのではないか? と。

 そのテーゼを確かめるには、多少とも定義することに成功したある条件が有機体において実現したとき、意識が常に現れることを示すだけは十分でない。というのも即ち、意識そのものによってその条件が喚起されたかもしれない、ということが残っているからだ。生命の法則が偶然的なら、これは認めるべき仮説だ。意識が因果関係を顕示しても、二項〔生命と意識〕共存の一様性が意味しているのは二項のいずれが他項の原因であるかを示していない。

 ここで必要なのは一般生理学の法則だけを使って意識の条件を出現させるすべての神経現象を説明することだ。ところがこの望みは無謀だ。神経分布についての徹底的な研究では段々と特別なその機能が明らかになってきた。神経の刺激や鎮静、しばらくのあいだ外的動因の印象を保存する神経細胞に内属する特性、調和的に振動して刺激を周囲に広め、対象そのものによって印象付けられていない細胞集団に一種の燐光を伝達すること。これら事実はすべて栄養や発達や生殖といった、基本的な生命の特性との釣り合いの、更には既に一般的な特性を超越する収縮contractionの力能との釣り合いの外にあると一般的にみなされている。神経分布と基本的な生理的特性との間には、物理的化学的現象の力学的条件と純粋に数学的な形式との間に存在するものと類似した関係があるようにみえる。注意深く調べてみれば、ただそれ自体に対してのみ存在する与えられた形式の最も複雑な諸々の分析的綜合と、自らはこの形式の諸モードでありつつもより高次の形式に関する条件の役割も演じる、観察の際に見出される特殊な諸事実の間には、ほとんど越え難い間隙hiatusが現にあることが明らかである。あれやこれやの現象に現にある類的同一性を認めたい観察者は、本能的に同じ起源があることを前提にしている。しかしこの仮説以後に試みられた、固有の物質と高次の形式の説明のひとつひとつは、厳密ではなく、不十分で、人為的になっていた。突如としてではなく、感覚できないほど少しずつ、進化の先端ではなく、単に起源の先端に介入した、として、もしそれ固有で流れる事物の方向を変えようと高次の介入が到来するとなると、誤算は避けがたい。

 しかしながら、神経システムに負った存在とは負わない存在が段階的に分化したにすぎないのなら、一般的な生理的特性に関する神経のその機能分岐は、外見上のものでしかないと信じるのは当然だ。しかしそのようなシステムの現存は意識の出現、あらゆる生命機能に勝る能力の出現と一致するのだ。ならば、例えばある生理的条件が敷かれるといつも意識が現れるのだとしたら、自己顕示できないことはない、その条件を意識自体が敷くのだ、と考えることはできないのだろうか? 曙が太陽を告げるのは、太陽が曙を発しているからだ。

 しかしだとしても可能な意識を回復さすある特殊な生理的条件を予定しておくことはできない。きっと意識の始まりは本質的かつ生命的な特性に既に結びついており、従って下等な有機体と高等な有機体との間には程度の差異しかないことになろう。故に細胞にさえも何らかの意識があるのだろう。人間の意識を創造するには、細胞群に固有な意識を特殊化し、多様化し、組織化することだけが問題となるのだろう。

 けれども仮に意識の元基がひとつひとつの細胞に属していたとしても、固有の現存の意識や感情は、本来の意味での生理的特性に還元することはできず、特性にその起源をもたないことには変わりない。高等な有機体におけるように、細胞においても、意識の存在は偶然的だろう。しかしそのような能力が下等な有機体にも存在すると考えることはどう基礎づけられるのだろうか?

 このテーゼを主張するのに、人は滴虫類や植物の観察からさえ借りてきた、数多くの事実を引き合いに出す。例えば淡水のサンゴ虫は、肢で一種の渦動を起こして、生きた滴虫類や植物を自分に引き寄せ、死骸や無機的存在を脇に残す。昆虫が触れると震えて、それを捉える植物は、〔意識の〕支点を選択しているようにみえる。こういった種類の幾千の事実が証明しているのはきっと、最も基本的な有機体においても、外部からの作用によって内的な刺激が生まれ、その刺激が生物の欲求に適応した反射的運動が生じれるということだ。では適切な手段の刺激や選択とは意識の徴なのか?

 しかし刺激や反射的運動がいつも意識を伴うだろうことは疑わしい。というのも自己を仲介しない刺激や反射的作用は私たちの内に沢山生じるからだ。行為acteと合致すれば、それは合目的性と呼ばれるものを構成するのだ。では引き合いに出された事実において、合目的性が力学に連れ戻されないことを認めたとして、合目的性はそれを顕示する存在の意識を必然的に前提としているだろうか? 私たちは器官の物理的、化学的、生理的構成が必要な機能に適切たることで行為の意識をもつのだろうか?

 生理的機能が欠けているような種類の意識は主体と客体との判明な区別から成立するのだ、という人がいるかもしれない。ところが意識を理解するこのやり方は余りに窮屈だ。生命の性格づけが完璧に反映された状態から睡眠時に現れる外見上の意識がない状態まで、意識は無限の度合いを備えている。普通、目覚めのときに私たちの精神は空っぽではないが、寝る前に占めていたものとは多かれ少なかれ異なる観念に占められている。注意を重ねれば、最初無感覚的だった知覚もはっきりしてくるものだ。多様性を顕示するものは、無ではない。この種類の鈍い意識は明らかに下等生物にも存在している。

 この演繹が意味しているのは意識という概念の深刻な変化である。

 人間を問題にする限り、意識は、最小強度へに帰され、不変の主体に多様性や多数性の状態がつながっていく不断の作用acteとなる。そこでは変化するのは、知覚の明瞭さであり、自己の統一性ではない。

 しかし、下等生物の、その過敏性や、行為の合目的性が問題となるとき、意識はもはや唯一の自己に相異なる感覚作用を割り当てることではなく、そしてそれはありえない。というのも意識の統一性は感覚間の比較を条件としているからだ。その比較は、その発揮に、様々な対象が原因となってできた印象に接する核心〔つまり意識〕を、前提にしている。下等生物に割り当てれる意識は、純粋で単純な、感覚作用、思考、傾向を、自己によって知覚されることなく存在する可能性があるものとしてしか存在しえない。

 ところが、このように現実的な価値へ還元すると、下等生物に割り当てれる意識は、人間的意識に対して、度合いの差異以上のものを提示している。それはその内で核心となり、多様性や多数性を比較する自己ではない。感覚作用相互のつながりを欠いた、意識的感覚作用の集合体agrégatだ。人間的意識が同時的な感覚作用しか認めなくても、その集合体は、継起的な感覚作用も、同時的な感覚作用も含んでいる。細胞や解剖的な単純要素についていえば、そんな意識を所有できる種類の統一性は本来の意味での意識の統一性と根本的に区別される。というのも、有機的に単純であることそのことにより、細胞は唯一かつ同一の質の感覚作用しかもてないからだ。この意識に生じれるだろう唯一の差異とは、量の差異であり、強度の差異だ。だから意識の統一性が割り当てられるのは明らかに様々な質同士を比較する主体である。この比較においてのみ主体が自己を意識し、外的事物に対立するようになる。

 では、細胞に割り当てられた意識から人間的意識が派生したということはどのように理解すればいいのだろうか?

 こういう人もいるかもしれない。人格的意識とは要素的な諸意識の決定的な合力でしかない。つまりそれは、感覚作用、思考、欲望が諸意識そのものであり、その組み合わせが、合力、即ち人格的意識を一気に引き起こす。すると、新たな感覚作用は自己の内か外にあることになる。即ち、その合力に釣り合うか合わないかによって、知覚に生成するか感覚作用に留まるかするではないか? と。

 しかし要素的な諸意識は人格的意識の性格を与える統一性の芽germeを有しておらず、前者〔要素的諸意識〕の組み合わせでどうやったら後者〔人格的意識〕が生じるのか理解できない。更に、どうやったら複数の意識がかくのごとく段々高度になっていく意識へと溶け合っていくのかも理解できない。実際、意識の定義とは他の諸意識から閉ざされていることであろうと思われる。その特性はもっぱら自己の意識だけに属し、統一性のない諸意識は違うのだと反論しても、その要素的な諸意識の概念を把握することはできない。そして人格的意識と比べてみたときにある、その異質性は、更に一層根本的なものとなる。

 こういう人もいるかもしれない。人格的意識とは要素的諸意識の集合体ではないのか? と。

 この場合、要素的諸意識の統一性を説明することは先に断念されている。ただなお、全体的意識の要素がそれぞれの細胞に私有的に属するとしても、下位の諸意識のその集合の一定数が一年も経てば完全に刷新されることひとつをとってみても、何故要素を要約しているとみなされている意識が、要素の後で存続しているのは理解できない。

 最後にこういう人もいるかもしれない。唯一つの細胞に一貫した意識が他の細胞群との関係によって高い度合いの発達を身につけているのではないか? 〔細胞群の意識の内の特別なひとつが、他の細胞との関係のなかで発達したのではないか?〕と。

 もし強度の差異だけが問題であるならばこの説明でも十分だ。しかし問題なのは本性の差異だ。加えて生命の渦動tourbillon vitalを通じても意識が不変であるということも問題だ。ところで、神経細胞は、その一般的な受信の役割にも関わらず、他の細胞と比べても、程度の差異しか提示しない。前述の仮説のなかで、神経細胞の特性と他の細胞の特性の間にある、類的差異〔本性の差異〕を説明するにはこれでは不十分だ。ほとんど同じような解剖学的諸要素が並外れてもいる機能を果すのを目の当たりにすると、物質は、等しくない力能によって取り扱われた、道具にすぎないとみえてくる。

 要するに、細胞群に属している意識とは個人的意識と名前がよく似ているものでしかないのだ。根本的に主体的な統一性なしには、どんな錯綜を想定しても、自己に属す、質的な差異の知覚を説明することができない。従って、混乱につながる言葉〔意識〕を除け、単に感覚作用、思考、無意識的傾向が問題だと言う方が望ましい。このような現象のどの点までが理解可能なものか、感覚作用、思考、欲望から人間において実体をなすようにみえるその自己を除外すると何が残るのか、さらには無意識的であるこれらの様式は純粋かつ単純な刺激、反射運動、適応からは区別されるのか。これらのことは、自己そのものがもう問題ではなく、ただ、本来の意味での心理的現象にとって根本的に下位的な特性だけが問題で、この瞬間において、もはや第二位の重要点しかもたない。

 ここで確実となったのは人格的意識がすべての生物に一貫していないということで、その意識が存在するのは特別な生理的組織化を目にするところだけだ。もしその組織化がすべてまるごと生理的法則に従って発生するのだとしたら、意識が生命以上の何かを含んでいる以上、最高原理の介入なしに、意識が法則の結果として生じるはずだ。しかし、この場合、法則がそれに伴う生理的現象に結びついているのに応じて意識の出現は必然的ということになる。それに反して、意識の条件である生命の特性が生命の一般的法則によって完全に説明することができないと認めるなら、意識そのものがその特性の実現に介入するというのは本当だということになる。この意味で、アクチュアルな世界において意識は決定された物理的条件に結びついているにも関わらず、意識は偶然的な仕方で、実現するといえる。


 故に、意識をもった人間の創造は、物理的生理的法則の働きだけで説明することはできない。物理的世界や生理的世界の視点からすれば、偶然的に現れる人間の現存や行為は、本性に対しそれのみでは説明することのできない変化を押し付けてくる。

 もし人間の内に宿命性があるのならば、人間にとって物事を多少とも自由にすることはどうでもいいことだ。というのも、そうでなるならその感情も、観念も、解決も、内的生命も、一言でいえば、必然的なやり方で決定してくる、特殊な法則によって支配されているのではないか? もしすべての行為が宿命的に心理的事実の体系に折り込まれているならば、下位の世界に対して独立性をもつ思考の世界が個体に接触することなどあるのだろうか? その体系に比べれば、個体とは抑え難い急流によってもたらされた水滴にすぎないのではないか?

 しかしすべての存在は法則をもち、意識の現象も、現象の他の秩序のように、相互依存した関係を、提示するべきではないのか?

 たしかに魂は第一に完全に自然発生的な力とみなされるように仕向けられている。魂の作用のひとつひとつ、その原因ならびに理由は、付随現象にではなく、ただ魂の中にあるようにみえる。心理的現象は計算に挑まないのだろうか? ある人がある情況になることを予言できるのだろうか?

 しかしながら、期待のもてる研究によれば、もうそうろそろ、少なくとも感情や思考に関するものにおいては、一様の心理学的継起が発見されている。

 長い間、意志は科学に逆らってきたし、攻略不能にみえる砦を偶然性の学説に提供していた。しかし観察や比較の進歩は政治的かつ社会的な自然法則が現にあることを明らかにした。歴史が私たちに示すのは類似した仕方で誕生し、発達し、衰退する色々な社会だ。歴史は文字や制度のバラエティの豊かさから、恒常的にみえる人間的活動力の一般的形態をすくい上げる。精密科学は精神的かつ社会的現象の研究において、その一部を自分の当番として求めており、この点からすれば、科学は感覚的には不変なままでいる平均的な原型を決定している。統計学は計算に首尾よく従い、人間の意志の産物は、物理的な力の産物と同じく、大きなマスを取り扱い続ける。

 抽象的な数学において、「大数」の法則といわれる、固定した法則がある。それは孤立して、偶発的と想定された多くの事例の集合のひとつひとつには言われるが、結論からいえば集合が決定されるのは細部の決定によると速断しはしない。集合と諸個体の間に差異を設け、諸個体の自然発生性は残っているのだと、望まれているのだ。しかし数学者が手に入れる遇運など虚構でしかない。実際、すべてはその存在理由raison d'êtreをもつ。人間の行為の、ひとつひとつが、遇運で生じるのかもしれないとすれば、影響力が研究される一般的原因に逆らうだろうものには無限の特殊原因があり、そして、収束を完璧に欠いているその特殊原因には、再統一する作用がないから法則もないことになる。法則から解放され別の原因が顕示されるのは、正にそれら原因のその相互的無効化によるものだ。そもそも、特殊なグループや諸個体の直接的な観察によって、一般的な統計の遇運的なままに現れる部分は段々制限されていく。個体の行為に対して、まるで社会の行為に対するがごとく恒常的な平均を見つけることができるというのは本当だ。日常的に、より確実に、一人の男を認識していけば、その振る舞いを説明し予見することができる。不確定性が残っていれば、それは与えられたものが欠けていたからだ、といえる。天候を確実に予見できないからといって、天候は偶然的な仕方で生じたのだと認めることができるだろうか? 〔いや、できない。〕 

 では心理的法則の一般的定式とはいかなるものなのだろうか?

 その定式を決定するためのより科学的な方式とは、一見したところ、意識状態の物理的力学的条件に遡ることであるようにみえる。例えば、身体の物理的変化と魂の変化の間には恒常的な関係が見つかるということは経験が明らかにしている。しかしでは現象の二つの秩序が、類似的に釣り合って存在し、同時的に交差したりすれ違ったりするのだろうか? また力の相互関係の一般的法則を魂に適用し、熱や化学作用と同じような、感覚作用、思考、意志の力学的均衡が存在すると憶測することはできないのか? できるならば、物理的必然性は、そんな風にして心理的必然性の根っことなるだろう。〔まるでフェヒナーの精神物理学のように。〕

 心理的発達と物理的発達の間にありえる類似は力学的現象が心理的現象に変形したものだという仮説を正当化しない。それは運動が本来の意味での熱に変形しはしないのと一緒で、物理的発達はただ心理的現象の条件だけ、物理的基礎だけを構成する。しかしながら、類似は思考の世界が力学的世界一部分の、一種の内裏地doublure interneでしかないということを教えているようにみえる。類似は正確な平行関係が思考とそれに付随する運動の間に存在すると前提されている。これによって、力学的条件を考察するだけで、心理的現象を説明し予見できる定式を発見できるのだ、と信じさせる。

 もし力学的条件そのものにおいて、力学的変化に対応する心的変化を測定することができるのなら、その企ては正統なものだろう。

 ところが、完璧な仕方で魂の表明を測定するためには、心理的現象の多様性を同質的な量、つまり、例えば心的エネルギー量に変換しなくてはならない。しかし魂の質の多様性を測定の同じ単位に連れ戻すことは可能なのだろうか? 

 ただこの問題に取り組む前に、同一の心的性質の変化に対応する力学的変化を研究するところから始めなくてはいけないのは明らかだ。この視点から想起souvenirを研究すると仮定してみよう。想起の量であるSと運動の量であるQ、この表を作成してみる。S1、S2はSに与えられた特殊の価値をもち、Q1、Q2はそれに対応するQの価値がある。
 
bandicam 2013-08-08 13-43-17-898

 ここで演繹するとS=f(Q)となる。

 しかしS1、S2、等等はどのように与えられるのだろうか? 魂そのものと同様、想起も、単純な質ではない。想起は明晰さ、活発さ、複雑さ、正確さ、明確さ、過去のもつ隔たり、人格的同一性の感情、渦中の観念を既に理解しているという意識、等々を包摂している。想起の価値は明らかに、その様々な質の現前、不在、または度合いによって決定されている。だから想起と同じくらい複雑な全体の価値については測定することを諦めねばならず、その価値はこの複雑さ故に同じ本性の量へと帰結しないのだ。ならば延長と運動に類似した、正確に決定された単純な質を探さなければならない。というのも、その質それぞれの力学的当量を決定し、次にそれぞれ独立しているそれら質間の数量的関係と質同士の組み合わせの結果を見つけなければならないからだ。ところが、このような科学的な企て、つまりは機転、判断、感情を介入さすことなしに、言い換えれば、明らかに質から量への代替が問題となっている質のその直接的評価を、介入さすことなしに試みることは不可能であろう。そもそも心的性質が強度の変化を通じても同一的である単純な要素に分解可能であるなどということは、一切証明されてない。

 この観察は、特に、最も重要である魂の精神的質に適用できる。

 ここでもし、さっきとは逆の方向からみればどうか。つまり物理的現象の変化からそれに対応する心理的現象の変化を演繹しようとしてみれば、心理的変化を物理的変化で測定する悪循環がそこにはある。というのも、変化の二つの連鎖間にある恒常的な関係を設定するには、事前に、その二つを分離して測定できなければならないからだ。

 この探究方法は、心理の世界の極めて制限された側面にしか適用できず、しかも近似的な結果にしか到達できないように見える。その側面では魂がいわば物質に接触しており、未だ魂そのものとはいえてない。固有の本質として考察される心理の世界は、物理的世界の裏地のようにはみなせない。というのも、物理的エネルギーのほとんど同量を費やし、炭素のほとんど同じ重量を消費する人間の行為には、精神的視点からすると、極端な不釣り合いがあるのに説明をしてくれないからだ。同時間の平均的筋肉労働の当量よりも力学的当量の方が少し大きいと分かったとき、それで知的労働の価値は認識されるだろうか? 快楽の価値、思考の真理の価値、行為の価値を判断するのに、その快楽、その思考、その行為に関する一酸化炭素の重さによって判断するのだろうか?

 要するに、魂を運動の関数fonctionにしようとして心理的現象と物理的現象の平行関係にすがることは無駄である。心理的現象は運動と同じように測定することはできない。そして現象間に程度を設定する限りにおいて、魂の高い領域で、変化は、物理的力の量の変化に割り当てれる関係をもたない。

 絶対的ではないやり方だとはいえ、心理的現象が力学的現象ではなく、神経的現象の内的再生産でしかないとする〔ヘルムホルツやヴントの生理的心理学の〕学説についても、同じことがいえる。平行関係は、ここでもまだ、心理的生命の最も大きな部分へと確実に広がるにも関わらず、部分的でしかない。実際、魂の変化ひとつひとつに対応する神経システムの変化を見つけるのは、どうでもいいことだ。問われるのは一方の変化ひとつひとつが他方の変化の尺度であるかどうかだ。ところで、生理的差異と、例えば、天才と狂気を区別する心理的差異の間には、釣り合いというものがない。だから身体によって魂を判断しようとすると、その二つの状態〔天才と狂気〕を同一化させることになる。更には、心理的現象と力学的現象が歩み寄ると、二項のうち少なくとも一方、つまり力学的現象が正確に測定することができたのに、ここではもはや二項共がほとんど測定し難くなり、従って二項の対応の度合いに対しても大きな不確定性が必ず君臨することになる。

 要するに、真に実践的な企ては、関係の対応ではなく、孤立したとみなされた現象間の対応を探究することだけだ。ここならば正確で参考的な結果が獲られる。けれどもその結果は心理的現象の法則を一切明らかにしてくれない。というのは、物理的決定の法則が絶対的ではなく、その結果も、物理的条件が魂そのものによって部分的に決定されているのではないかとか、その意味で、物理的条件が生じることに関する心的影響力がどれほど条件の一部たりうるのか、といった問いの形で延々ありつづけるからだ。

 しかし、下位の現象に対応する心理的現象の必然性を演繹することが不可能ならば、それ自体で考察された心理的世界には、対応の土台が不変な証と必然的進化が、あるのではないか?

 心理的現象の研究に対して可能でかつ成果のある統計を適用すること、つまり精神の平均値を発見するということは、その現象が下位の世界の法則に類似した基礎的な法則に従属しており、その法則は心的エネルギーの同一量が不変であることで成立しているということを示している。

 まだある。力学における、力の保存の法則は、実践的には太陽系のような、十分に巨大な運動の集合に対してでしか真ではない。物理学と化学では、保存の法則の適用は特殊なもので、物質の形態はその特性を頑張って保存しようとする。生物においては、形態の保存は更にずっと特殊だ。それは種の本質に適用される。原型的な有機体は、外力によって連続的に傷つけられると、その外力そのものを裂け目を直すために使う。思考する存在〔人間〕においては、エネルギーは人格化されている。私たちひとりひとりにおいて、エネルギーは自身の不変性を意識し、永遠を我が物とする抗いがたい傾きを感じる。

 なるほど、魂は、成長と有為転変をなす。しかし、心的潜勢力が現にあることを認めてしまえばどうなるだろう。例えばある能力の発達に応じて、他の能力の段階的な弱化に注目したらどうか。例えば個々の人間にとって、一般的に心的進歩の最高の度合いがあり、それを達した後で人間は、普通、心的進歩を捉えるかわりに、あたかも均衡を再設定するために、衰兆の位相に入っていく、そのことを観察してみればどうか。最後に例えば、固有の本性の進化を変化さす、外的影響力や、人間同士の関係を考慮にいれてみればどうか。結論的にいえば、心的エネルギーが、個人的生命全体においてさえも、決定された平均値を目指すだろうことは本当だ。つまり法則は決定と不変の傍らにあり、それに反する事実は例外でしかないということになる。

 個体に与えられた心理的生命の位相でさえ、心的エネルギーの量は決定されているようにみえる。魂の能力のひとつが極めて発達すれば、普通、それは、他の能力を毀損さすことだ。感情、観念、決心が大きな力を獲得すれば、作用の他のモードの弱化によって均衡が再設定されるだろう。このようにして現在の感情が過ぎ去った感情を大体完璧に消し去るのだ。或いは、心的エネルギーの最良の部分を摂取する新しい印象によって抑圧された可感的な印象は、生気を失いつつ、感覚作用の状態からイメージの状態へ移行する。そして、新たな感覚作用とイメージが絶えず湧き立つ流れを前にし、漠然とし、抽象的で、死んでいる観念へ生成するために、先件が引き伸ばされ、その色、固有の輪郭、その生命を少しずつ失っていく。もっともこの変貌が有益なのは、最も多様な事物の観念を、現象の枠組みとして私たちに表象される、次第に一般化される観念に近づけて一体化することにある。最後に、また例を出せば、意志の範囲において、精力的な決心が段々と鈍くなったり、絶望がヒロイズムに接岸したり、努力を続けることが実現の最も困難な力となったりするのだ。

 しかしながら、魂は弱まった感情、消え去った観念、憔悴した決心に、それらの原初のエネルギーを、しばしば一度として帯びたことのないエネルギーを取り戻させる。しかし、この場合でもまだ、少しも心的エネルギーは創造はされてない。そのような復活はそれ自体だけでは実行されない。それは過去の状態に類似した現在の状態によって決定され、現在の状態の生命こそが過去の状態の幻影と連絡し合うのだ。
 
 この保存の法則は、物理的現象が説明される仕方で、意識状態それだけを説明しようとする、あらゆる探究によって想定されているようにみえる。法則は実証的な心理学の全ての試みに折り込まれている。

 では、もし心的エネルギーが思考する存在において同じであり続けるのなら、人間の行為の偶然性を主張することができるだろうか?

 力学に等しく心理学においても、現象の偶然性を保証するために、非決定な力と方向決定directionの区別を引き合いに出し、一方の不変性が他方の方向決定を必然的にもたらしはしないと認めることはもはや納得できない。心的作用、つまり感覚作用、観念、傾向など、これらは非決定な状態では決して与えられない。前件の方向決定は後件において再発見され、そのエネルギーも同様だ。そして、後件において前件の組み合わせを生じさすのとは異なった方向決定を獲得するには、新たな方向決定を介入さす必要があり、そこには必然的にある強度の新たなエネルギーが折り込まれることになる。かくして、方向決定の変化、或いは、魂に関する質の変化は、常に量の変化を前提としている。新たな量は、当の存在に対し、同じ秩序の他の存在から与えられたものでありうるというのは本当だ。しかし他の存在での突発的な変化もまた、その決定的理由をもたねばならない。そして、もし、集合的に、作用の量が恒常的であり続けるなら、現象は「循環circulus」でしかありえず、そこでは偶然性が如何なる場所も占めていない。一般的に考えられた力が運動の方向決定を説明しないように、一般的に考えられた魂も、この感情、この概念化、この直観といった、特殊な性格をもう説明しないのだ。

 もし絶対的な仕方で心的エネルギーの保存の法則、即ち感覚作用、観念、決心の心理的前件との釣り合い性を認めるならば、魂の現象の秩序においては、あらゆる偶然性を諦めることになるだろう。しかしその法則は必然的なのだろうか?

 心理的作用の観念が、その現存の条件として、エネルギーを一定程度含まないということでいえば、法則を分析的にアプリオリに与えられたものとみなすことはできない。

 法則は綜合的でアプリオリな判断でもなく、それというのも、それとは反対に、人間は人間の行為を自由にこなしていると信じやすいからだ。つまり、その法則は経験的な認識であり、事実上の必然性しか要求しえない。

 ところで事実上の必然性そのものは法則に属しているのだろうか?

 もし事物を第一に包むものを突き破ると、なるほど心理的世界の表面に移る無限の変化もその根底には存在しないことが見つかる。精神的な秩序においてでさえ、変化する外側には、段々固くなる層をがある。瞬間的な意向の下には、個体的な性格があり、個体的な性格の下には時々の習慣が、続いて国民的nationalな性格が、そして最後には人間的本性がある。しかも人間的本性は特別同じものであり続けているのだ。

 このようなことは普通、心理学によって帰着される。しかし歴史家は物事を別のアスペクトの下で見るように仕向ける。歴史家からみれば、全ては変化し、正確に相似た二つの時代などありはしない。過去と現在の間に設定される同一視はよくて近似的なものでしかない。そして実際に、哲学者が歴史的一般化の仕上げとして好む、決定的であるかのように閉じられて置かれる、短くて明確な、定義なるものは、避け難く現実の一部を定義の外に残したままだ。生きているものが、本質上、公式の正確さ、統一性、不変性と両立不可能であるかのように。〔つまり現実と定義の関係は生きているものと公式の関係に等しい。〕しかし現実的に不可変だろう人間の性格がなどあるのだろうか? 歴史だけが唯一無二の同一観念の表現であるような国民があるだろうか? 人間的本性そのものは不変の土台に秘められているものなのだろうか? 変化そのものが最初は知覚できないくらい極めて小さいものだという口実によって、事物の原理にまで生じうる変化を留意してはいけないのか? 角の出発点が問題であるとき、隔たった二辺の変化は殆ど無であれ、蔑ろにはできない。

 分析と抽象化は、真に同一的な原理に到達するまで、追求すべきなのだろうか? しかしその操作の果てに、魂には何が残っているのだろうか? すべての人間に正確に共通した特徴を還元して、人間の本性は成立するのだろうか? そのようにすべての要素を継起的に捨象していくと、人間の本性のその栄光を作るあらゆるものが少しずつ失われていくだろうことは明らかである。要するに、種的性格の砦、つまり一般化は、段々空虚に、段々貧しく、そして同時に、段々現実の生命を説明するのに適さない概念へ到達していく。諸存在の実体を不変の要素に求めることは間違っており、そうして理解された実体の無媒介的で等しく不変な表現とみなされる事物の本性によって、変化を最後まで説明しきることは不可能である。とりわけ人間に関して、行為を前提としない、第一義的な本性を私たちはどこで見れるのか? 性格は本能的ないし反省的行為の結果ではないのか? もし人間の能力が鍛えられなければ、それは発達しないのだろうか? 存在しないのだろうか? 行為以前の魂とは何なのか? 最初の物質が、とりわけここに、ひとつあるとして、それを捏ね、組織し、生命と、顔つきと美しさを与える芸術家のそれと比較可能な役割を物質はもつだろうか? その外見にも関わらず、個体は、国民は、そして人間は決して完全にその性格の奴隷たりえない。というのも、その性格とは行為によって生まれたものであり、結果的には行為に従属しているからだ。人間本性に支配的な特徴は不動性ではなく、変化、つまりは進歩や衰退である。この視点からすれば、歴史とは静的心理学の必然的な緩和物correctifである。人間の現実的条件とは常にある状態から別の状態への移行である。最も一般的な心理的法則であれ人間性の位相に関係している。

 そもそも、この学説は、心理学が余儀なくすべてを予め正確かつ不変な定式に還元しなければ、心理学の与件と矛盾をきたすものではない。心理的後件はその完璧な原因と十分な理由とを前件に見出すことは決してない。

 二項間のこの不釣り合いは自発的行為の中に部分的に顕示している。動機を熟慮した末の決心には、動機にある以上の何かがある。つまり別の動機よりも選好されるある動機についての意志の同意がある。動機は行為の完全なる原因ではない。では少なくとも行為の十分な理由でないだろうか? なるほど、勝利するのは常に最も強い動機である、だがそれは、意志によって選ばれた動機に対するその付加形容詞epithète〔最も強い〕を、事後的に、与える限りでのことだ。残されているのは、意志が己自ら、魂に対し、予め最も強い影響力を行使する動機を常に選出するということの証明だ。さて、意志が、観想的には魂を誘惑する力の合力ではない動機を、実践的に優越してしまうことはないのだろうか? 私たちの同胞の振る舞い、ひとりひとりに固有である振る舞いさえ、外から観察してみたとき、私たちが見出すのは同じ行為が一様に同じ動機に結ばれているということだ。しかし行為が、動機そのものとみなされた動機によって延々決定され続けるだろうということになるのか? もし意志そのものが前面に立ち、己の行動の条件に突き出していくのなら、その法則はみな立証されないのではないか?

 そうであるとしたら、行為はなるほど説明されるものの、優越した動機と、魂の決意déterminationsの集合との関係は、因果性の原理を否定している。そう言う人もいるかもしれない。これは正しい。そして、もし因果性の原理が絶対的なものと認められねばならないとしたら、恐らく自由な行為など、実際は、容認し難いものなのだ。しかし恐らくこの原理もまた、それが事実に適用されると、抽象的科学を割り当てるような厳格さをもたず、先件から後件への変形の際に何がしかの偶然性を含んでいる。与えられた行為の直近の諸原因が因果性の原理に正確に適合する仕方で原因間で連鎖する、或いは連鎖するようにみえる、これが幻影を生じさせる。しかし原因の連鎖を遡行しながら、少なくとも完璧な仕方で諸原因を分析できる範囲で、その原理が現象の説明にとってもう十分とはいえない地点に出遇わなくなったことをいかにして証明するのか? 指導的な力が同じエネルギーで時場所問わず介入するのではなく、衝動を与えたあとでは、行動を完遂させるのに十分であれば、力は自然の流れに多かれ少なかれ事物を委ねる。恐らくこの衝動は、それ自体は極めて弱い。けれども、好都合な時と適切な地点でならば、余波が起こって大きな現象を決定することが可能だ。

 一般的な仕方では、上位の動因は下位の力の選り好みをしないというのは確実だ。上位の動因が容易に効果的に介入するのは、とりわけ後者が相互闘争状態にあって何がしかの均衡を生み出してるときだ。魂が様々な欲望に分裂しているとき、意志は、努力なしに、欲望の間に現れ、熟考を始めて判断を下す。反対に、意志が同じ目的に向かって集中し相互的に強固になる情念passionsを目の前にしたとき、意志は忘れ去られ、それ自体捨て去られる。しかしながら、たとえそうであれ、意志は目覚めて作用することがある。間接的にその情念と同じ強度の他の情念と対立したり、情念を他の対象へ気づかぬうちに向かわせたりするのであれ、直接的に敵対者〔情念〕に対して頑固として立ち上がるのであれ、意志は最も強い情念に対しても闘える。最後に意志は、最も不都合な情況にまで、魂を導くために魂を規定する法則そのものを扱うことができる。

 もし意志の決意が偶然性を最もよく示す心理的現象の秩序によって生まれるのだとしたら、別の秩序も偶然性を完全には失ってはいない。というのも、たとえ吟味された関係の単純性や一般性がどうであれ、感情や観念は心理的先件にその完璧な説明を決して見つけ出さないからだ。感情や観念はその先件とは別物であるように、新たな質を含むように、現れてくる。そして、そのせいで、原因と結果の釣り合いの法則から逃亡するのだ。

 かくして変化可能性は人間本性の最古の深淵にいたるまで見出されるものということになる。では、心的エネルギーの量は正確に決定されており正確に同じであり続けるということは本当なのだろうか? そのような法則が権利的に存在すると主張するには、不変が証明されて、正確に決定づけられた、基本的な継起のモードにすべての心理的継起が連れ戻せることができなくてはならない。ところが正しくその用語〔不変〕こそ探求者の前から逃げていくものなのだ。

 根本的な変化そのものは、しかしあらゆる現象に先行する一定の動的原理において必然的な法則をもっているのかもしれない。心理的世界とは魂の本質そのものを折り込まれた一様の進化なのかもしれない。

 例えば、心理的現象の歩みには、存在する二つの要素の合力が必然的にあらねばならない。合力の一方は、個人personneに与えられた本性を構成する能力の集合であり、もう一方とは、幸福の探求、生命本能、外的条件への内的能力の適合といった、単数ないしは複数の傾向である。このように言うことはできないのか?

 この学説は複数の反論を免れない。人間のあらゆる行為、その定式、或いは何らかの定式にさえ帰着さすことが可能であるかどうかは疑問だ。人間は英雄的行動、犠牲など、その本性が抱く最大の抵抗感を打ち破る行為が自分にはできると感じているからだ。

 或いは、事物で可能であることを認めたとしても、少なくとも、相互関連が欲される定式を正確に決定することは難しい。というのも問われている諸定式は、それぞれがある程度まで正しいものの、相互には和解しないからだ。

 幸福への欲望は、例えば、絶えまぬ苦痛以上のものであろう私たちの生活を、厭わせ逃げさすことができる。

 物理的精神的生命の愛は、私たちの力と能力をできるだけ発達させるよう私たちを導きつつ、千の困難、外部との千の相克、不活発な魂には存在しない千の苦痛を喚起させる。

 〔人間の〕事物への適合の傾向は、それがより一層実現するに応じて、意識を鎮めて自己顕示するには衝撃が必要となり、快かったり不快だったりする鋭敏な感覚作用を、無関心と無感覚の状態に替える。それだけではない。人間と物理的世界の間の相克は、事物が自然発生的に実現しないために人間が追い求めることになった目的fins、事物の目的よりも高次の目的、そのことから発している。その相克をなくすには、その高次の目的を追い求めることを諦めなければならない。つまり外的条件にその生命の目標を適合させる人間は、存在の度合いを継起的に降って、衝撃の恐れのある事物に服し、従い、同一化しなくてはならないだろう。だとするなら、精神的意識、知性、感情、生命、現に存在することそのもの、これらのなかに悪しかみなくなるだろう。というのも、それらあらゆる傾向は外的世界によって反対されているからだ。そして最終的には絶対的消滅が至高善とみなされるだろう。

 けれども、すべての人間の行動は力学的dynamiquesな定式やそれと同じ種類の別の定式によって説明済と証明されていても、必然性が心理的生命の主人となるという結果にはならない。というのもその定式は実証的法則、つまり経験的与件の間にある関係の条件を満たしていないからだ。

 先ず第一に力学的法則の第二項、人間的活動力に提供された目的は、漠然として非決定な何かを持っている。幸福とは何か? すべての人間が同じ仕方で幸福を理解するのだろうか? 人間的行為の普遍的目的としてみなされた幸福とはいかなる種類のものなのか? 同様に、私たちの腕力と能力の調和的発達はどうやって成立するのか? 腕力や能力の間に設定すべき従属関係の秩序はいかなるものだろうか? 事実の領域に留まるために、最高の能力とは最高の腕力を授けるものだと認めようか? しかし精神的な偉大さが腕力にだけ帰して、畏敬そのものがついてくるに値しないとすることは全く明白ではない。私たちの潜在的な力能に釣り合った発達とは全ての人間によって同じ仕方で理解されるのに適した、明白な原理なのだろうか? 事物に対する傾向の適合についていえば、どれも様々な仕方で理解することができるのではないか? 人間的特権を犠牲にすることなく外的条件に順応しようとする者と、適合を妨げるという口実の下、上位の能力を衰えさせておく者を、同じ序列に置こうとするか? 人間的行動の自然な目的とみなされるだろう適合とはいかなる種類のものなのか?

 第二に、傾向が確実な現実だろう、と言えるのだろうか? 傾向はそれが顕示する時にしか存在しない、つまり過去ないしは現在の行為の総和でしかないのではないか? もちろん、顕示しない時でさえ傾向性は存在しうる。では可能な行為の総和とは何か? 次のうち、二つに一つだ。〔第一に〕傾向の作用が確実に実現する。そこではその作用は単に可能的であるのではなく、未来的でもある。しかし現存が傾向を許可するために必要なのは傾向が実現せねばならぬということではない。〔第二に〕傾向の作用とは真に可能的、即ち実現したりしなかったりするだろう。しかし、この場合、行為は確実な現実、即ち経験に与えられた現実とはみなされない。

 同様に、傾向の、明確な方向決定、強度、知性などは与えられたものとはみなされえない。というのも、傾向とは、存在〔人間〕そのものだからだ。つまり、存在が自分の傾向に作用し、自然発生的に変化する力を持たないと誰が主張できるのか? 〔誰にもできない、つまり傾向は自己変化するかもしれない。〕力をもてないことは与えられて、つまり経験のなかに与えられているのだろうか? 〔そうではない。〕

 思うに、必然的な根本的変化の法則を科学的に設定することが不可能であろうように、根本的保存法則も不可能なのだ。実際、不変そのものに先立ち、魂において変化は不変の傍らに存在する。他方、保存の法則に帰着しない変化の法則、事物に絶対的に先行する法則、概念に先立つ原理は、実証的法則と同一視されず主張できず、この意味で、必然性と同一視することはできないのだ。

 そうだとすれば、心理的現象は絶対的には決定されておらず、観察者にも提供される現象の継起の一様性には、根本的な偶然性を隠されていると権利上は認めることができる。

 人間の行為を規定する不変の法則に固有な性格は部分的な非決定性が他のすべての現象におけるよりもより大きくあらねばならないことを証している。

 実際、下位の領域において、力学的体系、物質の形態、生物種がそうであるように、不変の基礎的な法則は多かれ少なかれ巨大な集合に無媒介的に関係がある。だから個々の動因のそれぞれはそれが属すところの全体に吸収されているかのように存在している。動因を規定する法則は動因集合と協力してしか作用しえない。ならば、いかにして偶然的な行動が生じれるのか? その行動の法則そのものに支点を取り入れながらするのだろうか? しかしその法則は、動因を無限へと沈ませ、完全に反対的だ。法則は動因のイニシアティブの発揮に関しそれが属すところの体系の集合が変化するという条件を押し付ける。その宿命に絶対的に抗いながら無為に動因を見積もることは妨げなのだろうか? しかしそれは創造、つまり事物間に支点を得ることなく事物に対して作用できる存在ではないだろうか?

 もっぱら全体の部分として存在するということは絶対的な宿命性に従属しているということだろう。実のところ、現存と両立不可能な、その性格は現実的なものを一切提示しない。そんなことは完璧に抽象的な科学の純粋に観念的な対象においてしか見受けられない。そして、もし人間にとって下位の存在が、集合的な形のもと、既に何らかの偶然性の度合いを提示しているのなら、空間と支点のある世界の外部で、ある程度は、下位の存在が構成したシステムが既に〔科学とは〕異なる世界であるということを意味している。

 ところで、他のすべての存在以上に、人間的人格は固有の現存をもち、人格それだけでの世界である。他のすべての存在以上に、人格は自身を超越するシステムに無理やりではなく自分の行為を介入さす振る舞いができる。心的エネルギーの保存の一般的法則は、いわば、個体それぞれがそれぞれに固有な、異なった法則多数に細分される。無媒介的なのは個体的なその諸法則だ。一般的な法則とは媒介的でしかない。その上、思うに、同じ個体法則にしても、法則は心理的生命のそれぞれの位相に固有な細部の諸法則に下位区分され変化する。法則はいよいよ事実に近づいていく。従って、集合の保存は個体の行為をもはや決定しないのである。集合の保存は個体に従属し続ける。個体法則は、それだけで、法則に適用されるう種全体に生成し、集合の材料となる。個体法則は道具に変わるのだ。かくして個体は法則の同類であり、それ自体で、その行動のすべての要素を所有する状態を、その現存の瞬間瞬間、夢見るのだ。