「あ、それはそうとぼくさえきさんの書いている小説、読みましたよ」
と中村さん。
「そりゃ、ありがとうございます。どうでした??」
やや自信なさげな声でわたしはたずねる。
「うん、面白いんじゃないですかね」
「そうですか?」
「面白いですよ」
中村さんは手元のiPhoneにメールが着信したのを横目にしながらハイボールを注文した。わたしはすこしぬるくなったビールを啜った。
「赤裸々な感じがしますか?」
「うーん、やっぱりシショウセツ的な何かという感じはしますよね」
「そうですか」
「そうですね。文体の速度なんかは独特だけど」
「そういえば、最近高橋源一郎を読んでいるんですが、文章の速度について触れていたなぁ」
「そうですか。さえきさんの文章はタイム感が独特ですよね。そこが面白いかな、と」
「ドライブ感ありますかね?」
「そうですね。たぶん、ありますよ」
中村さんは背をひねって店員からハイボールを受け取り、ひとまず口を着けた。ハイボールのグラスについた露のなかに、中村さんと店の天井の灯りが歪んで映っている。
「文章のドライブ感だけは、生来の感じが出るんじゃないかとぼくは考えているんですよ」と、中村さん。
「その、ドライブ感は、作者の思考するスピードと等価なんでしょうか」
「うーん、きちんとした作家はいくつかのタイム感をあやつれるように思います。音楽と似ているかもしれませんね。必ずしもスピードとイコールではない。早くもできるし、ゆっくりもできる」
「文章が黙読される文化っていつからなんでしょう」
「黙読は明治期からじゃないですか。その前はけっこう音読していたと思うんですね」
「文字を読める人口が少なかった、とか?」
「それもあるかもしれない。そりゃ平成25年からふりかえれば、字を読める人は少なかったでしょうね」
「うーん、音読文化が黙読文化にどういうふうにシフトしてきたのか知りたいですね、というか知りたくなってきました」
「探すときっと何か良い本が見つかりますよ」
「そうですね。そうかもしれない」
「なんだか、妙に暑いですね。この店、冷房効いてるのかな?」
中村さんは額に噴き出た汗を手のひらでぬぐいながら言った。
中村さんは額に噴き出た汗を手のひらでぬぐいながら言った。
「まだ6月ですけど、そろそろ冷房が入っても良い頃ですよね。というか、これだけ暑いんだから冷房入れとけって話で」
「うん。あまりに暑いと思考能力が減退しますよね。というか何も考えたくない。どこかで静かに休みたい」
「ぼくは年中そうですね。一年中、そう。何も考えたくないし、何も感じたくない。できれば静かで涼しい墓地かなんかで、永遠の眠りをむさぼっていたいですよ」
「永遠の眠りをむさぼる………文学的な感じがしますね」
「まあ、こうやって口に出すと文学的な感じがするかもしれないですが、実態は実家に寄宿している、無職男のざれ言に過ぎませんよ」
「さえきさんもそうやって、自分の生を貶めるようなことを言うのは止めて、―どうせ生きていることは止められないんですから、自殺に成功しない限り―、もっと肯定的に、つまり、人生を楽しんだほうがいいんじゃないですか」
「おっしゃる通りだと思います。でも、ぼくはもう人生を楽しむことに飽きている気がします。もうこれ以上生きていてもしかたない、そう思って、でも、自殺する勇気もない、堂々めぐりです。そうやって堂々めぐりしているまま、もう1年半くらい経つかなあ」
「まあ、良いんじゃないですか。手持ちの金が尽きるまではそうやってぐだぐだ言ってればいいんですよ。そのうち、金策に汲々として、そんな愚痴も出なくなるでしょう」
中村さんは、冷たい声でぼくを突き放すように言った。
「ひどい………そんなにはっきり言わなくても…」
「ものごとにははっきりさせたほうがいい時と、そうでない時があると思いますが、いまは前者のほうですね。結局、さえきさんは甘えているんですよ、自分自身に、家族に、そして奥さんに…」
「妻の話は、、、妻の話は、、、、、、止めてください、ぼくは、もう、何も考えたくありません。何も感じたくないんです」
「そうやってまた自分から逃げようとする…正直、飽き飽きしています。さえきさんの自己憐憫に付き合っていると、こっちも消耗するんですよ。病んでいる人は、周りの人も病ませていくんです。それが事実です。病んでいる人は不可避的に周囲を傷つける、損なっていく、そのことの良し悪しは別にして、そういうものであるということについて、さえきさんは自覚が足りないですね」
「………そんな、ぼくは好きでうつ病になった訳ではないですよ!過酷な労働環境と、周囲の無理解、厳しい勤務シフト、誰とでも交換可能な…この世のほとんどの仕事がそうですが…つまらない、くだらない、ゴミのような仕事に人生をスポイルされつくしたんだ!」
「でも、さえきさん、人は誰でも、何らかの手段で金を得て、暮らしていくんですよ。そんな甘ったれたこと言ってられるのも、金があるうちですよ。金が尽きたら、どうするんですか」
「それは………」
「生きていれば、いつか、金は、尽きます」
中村さんは店の天井を仰ぎながら、ことばひとつひとつを区切るようにしっかりと言った。
(つづく)