展覧会レヴュー

「膜|filmembrane」@小金井アートスポット シャトー2F

展覧会ウェブサイトhttp://filmembrane.tumblr.com/ 

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膜。フィルム、牛乳の膜、サランラップ、羊膜、油膜、オブラートなどなど。膜というものを考えてみれば、なんてあやふやなものなのだ。薄くて、ぺろんしていて、頼りなく、面でしか存在できない。しかしなんとも無視し難い存在だ。それは壁のように両者を完全に分つ訳ではなく、ものの内部と外部に仲って両者の関係を取り持ったり(浸透)、あるものの表面の分身としてその主の表情・状態を浮かび上がらせたりする(膜が張る)。膜というものは、何かと何かの間や表面にあることで、ものの性質や状態への感覚を敏感にするのだ。


2013年7月に開催された津田翔平、渡辺俊介、阿部圭佑の展覧会「膜|filmembran」のウェブサイトやフライヤからは、すでにこのような無視し難い感覚が醸し出されていた。(上の図参照) 展覧会に関する文章などに薄い膜がかかったようなデザインになっており、普段反射的に記号を読み取る私たちの思考をいったん保留して、より根源的に「そこになにがあるのか」を見つめる視線を喚起していると言える。このように表面的な情報ではなく、存在や感覚への眼差しを引き込む力が展覧会場には充満していた。


会場に入ってまず目に入るのは津田の《無在 nowhereabout》である。暗い室内に半透明のシートが何層にも張られ空調の風で小刻みに震えている。その中心部からは灯火のような光がぐるぐるとゆっくり放たれることでシートの表面を浮かび上がらせる。シートが重なっているところとそうでないところがあるために、さっきまでそこあった光が急に、あちらに移動したような錯覚が起こる。この感覚はなんだろうか。海を例えに考えると、わたしたちは海辺に立つとき水面を見て膨大な量の水を意識する。しかし一旦水に入ると人や魚などは見えるのに、水は「見えなく」なる。では、空気ではどうだろうか。この作品から湧き起こったのは、私たちは空気あるいは空間を「見えない」状態としてミュートして都合のいいものだけ認知しているのかもしれなくて、私たちは実は常に空間という存在に満たされているという感覚であった。同時に作品がシートで空間を囲む形をとっているため、その空間内に満たされたなにか溶液のようなものを連想させ、シートは「見えるもの」とも「見えないもの」とも言える未分化な状態を保っていた。奇しくも作家が作品内で作業中で、シートに時々人の姿が映っていたことは象徴的だった。私たちが見て、認識することの土台が危うくなるようで、グラッとくる作品であった。


津田の《無在》を「膜」という視点から見れば、それは事物を認知することの表面性と、目と事物の間の空間を満ち満ちる溶液のような存在として浮かび上がらせるものであると言えよう。一方で渡辺の《追放 purge》《追悼 sorrow》《追憶 nostalgia》は、「膜」が内包する境界性と浸透性というアンビバレントな性質から語ることができるだろう。映像作品《追放》で映されるのは並んだ裸の男女の腹や背中である。彼らはただ静かに並んで息をしている。それに同調するかのような音楽。息をするたびに男女の身体がゆっくり膨らんだり縮んだりして、人の体内に別々の生命機関が働いていることを実感する。それぞれの生命の営み、言うなれば内的世界が交わることなく別々に存在していることを強調するのは、身体の表面、皮膚である。作品に添えられたテキスト中の「私の声は届くことはない。今はただ見つめるだけである。」という言葉が身体による断絶の感覚を増幅し、皮膚=膜の境界性を思わせる。そのテキストは「明日が来ればまた、私の存在が彼女を孤独にするだろう。」という予感的な言葉で終わっている。これに続く作品《追悼》は壁を切り抜いた穴に男性のポートレートをはめ込んだ形になっていてるが、照明がないため時々他の作品の光に透かされることでやっと顔の輪郭がかすかに見える。光を受けなければ見ることができない構造と先の言葉からの予感を受けて、他人がいなれば自分という存在すら認識できないが、同時に他人がいることで孤独を感じるという根源的な葛藤を想起する。《追憶》は水に浸った男女の服とその間に映される少女の影という構造だ。少女の影が手足を動かすたびに、男女の服の静性が強調されて寂しい印象を受ける。これらの思考をなぞれば、人と人の間に存在する乗り越え不可能な境界や、自己という存在の他者依存性という着想に至りそうなのだが、渡辺の作品にはそのような否定形の言葉では取りこぼしてしまうなにかがあると私は思う。彼の作品から読み取れるのは徹底的に分かり合うことなき世界ではないはずだ。膜という補助線に頼れば、微小な隙間からなにかが滲みだして移動する浸透の作用を連想し、呼吸するたびに肉体が溶けて混じり合ってような想像をしたり、《追憶》の動きがないように見える水が実は分子レベルで流動していることを思って感情の可変性を想像したりできるはずである。それは渡辺の作品が内包する静かに混ざり合う力によるもの、膜から連想したような混ざり合うエネルギー、合一への経路だと私は考える。


阿部の作品《people hole》はくすっと笑ってしまうようなゲーム性をもっている。床に設置されたブラウン管テレビに順に監視カメラの映像がながれた後に、正面の壁にコンビニで買い物をする男の姿と真っ暗な映像が映る。男は箱をもっている。男が店員となにかを話すと彼は箱の正面をこわごわと触る。他人が動揺しているのを覗き見ているようで、いたずら心をくすぐられてワクワクしていると、先の黒い画面から膜を破る男の指、そして怪しむような顔が見える。「いたずら成功」に一瞬喜んだ直後、急に怖くなった。なぜなら急に男の訝しむ視線は鑑賞者の方に向けられているのではないかと思い始めたからだ。小さな部屋の中にいる自分が見られているのではないかと感じると、先ほど破られた膜が急に自分を守っていた何かだと思い始める。膜を破ることで見る−見られる関係が逆転してしまっただけではない、見る−見られる関係を俯瞰的に見る視線を私自身も、おそらく他人も持っていることがこの作品では提示されているのだ。しかも、その俯瞰的な立場の安全性が、膜という象徴的なものを破る事で脆く崩される。


以上のような感想にはおそらく作者の意図を曲解したところもあったと思う。そして、展示場所が変われば作品が全く別の表情を見せることもあるだろう。しかし「膜」という言葉がこれらの作品の力を鋭くあぶり出し、一つの見せ方を提示していたと思えば、これほど作品を輝かせるタイトルはない。そしてなにより重要ことは、一つの言葉からこれだけの想像を許す作品の豊かさである。



転載元:site0.9 

2013年8月9日(金曜日)

展覧会レヴュー「膜|filmembrane」

http://ishidadaisuke.blogspot.jp/2013/08/filmembrane2013710-21.html