↑田村紀雄『号外』(池田書店、昭四九・一二)と渡辺一雄『実録号外戦線』(新聞時代社、昭三八・九)。わざわざAmazonで注文して買った。図書館に置いてない!
最近、論考「号外に驚異せよ――国木田独歩と戦争ジャーナリズム――」(http://p.booklog.jp/book/74994)を書いた。目次は、第一章「『号外』評価の政治的力学」、第二章「「挙国一致」と報道の条件」、第三章「従軍記者/編集長としての独歩」、第四章「『牛肉と馬鈴薯』と驚異の願望」、第五章「驚異としてのテクスト」、第六章「独歩のアキレス」。日露戦争後のナショナリスティックな熱気が去った日常の虚しさを描いた国木田独歩の短編小説『号外』、これを独歩のジャーナリズムの経験の文脈から読み解いていこうするものだ。文字数は18632字、原稿用紙に直すと47枚程。中々のボリュームになった。
・号外への欲望
『号外』論を書くにあたって、新聞研究の分野の文章を漁っていた。『号外』(http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/1055_15939.html)の主人公は、戦争報道にしか生きる楽しみを見出せず、日露戦争の号外をポケットに入れて常に携帯し、何かというと外で朗読をしだすという、中々にアレなネトウヨ・ニート男なのだ。そんな彼が好んでいた号外とはどのような出版物だったのか。そこから研究を始めてみたのだが、さてさて、これが中々に面白い。
一番参考になったのは、小林宗之「号外と戦争(2)」(『Core ethics』、立命館大学大学院先端総合学術研究科、平二四、http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2012/km02.pdf)という論文だ。小林は号外の第一の機能を「速報性」に求めている。思えば、昔はラジオやテレビなどないわけで、速報ニュースもやっぱり紙で出すしかない。しかし、新聞では遅すぎる。その不満を埋めるために登場したのが号外だったわけだ。同じ紙といっても、色々な紙の体制があるのだ。ちなみに小林は立命館大学の大学院生だそうだ。
現代では新聞/号外の区別は、紙/ネットの区別へと継承されて号外の登場する幕はなくなったが、それでもスピードへの欲望は消えない、というよりも明らかに激化している。TwitterやFacebookを見ていれば、そんなことは一目瞭然だ。もっと速くあれ、の定言命法はますます厳格になってきている。『号外』論で、近代をスピード戦争の時代として描き出していたP・ヴィリリオを引用しようかと思ったのは小林の論文を読んだからだ。結局、引用しなかったけど。
要するに、速くありすぎるのも考えもの、というわけである。
・明治版「希望は戦争」?
そうそう、『号外』を何度か読んでいて気付いたけれど、これって明治時代における「希望は戦争」(赤木智弘)だよなぁ、と。ニートの加藤男爵には、戦争がもたらす「挙国一致」のお祭り騒ぎにしか楽しみがない。だから再び、あの戦争を、ということになる。幸徳秋水とか、マジでひっぱたきたい。
もちろん、赤木と加藤は全く違う。加藤は男爵でインテリだが、赤木は多分、丸山真男を読んでいないだろうし、読む技術も意欲もないだろう。それに、赤木が戦争に求めているのは、靖国神社に平等に奉られて英霊として崇められる(承認が獲られる)ことだったわけで、ネトウヨ的な「ネタ」として戦争戦争言ってる男と一緒にされたら、たまったもんじゃないだろう。泥臭さが違うぜ。
いや、何が言いたいかというと、頭が良かろうが悪かろうが(赤木サンの悪口を言っているんじゃないよ)、本を沢山読もうが読まなかろうが、学歴が高かろうが低かろうが、ニュースに敏感であろうがなかろうが、人は時と場合によれば戦争を欲したりする生き物なのだ、ということだ。労動者赤木は自尊心のために戦争を欲して、ニートの加藤は暇つぶしのために戦争を欲する。まったく、なんたることか。こんなに両極端な奴等が、それなのに戦争イケイケ状態ならば、もう「永遠平和」なんて圧倒的に無理感。論考の最後に「ソフィスティケートされた知性」について言及したが、こんな無様じゃ、一体全体、何のための学問なんだか。もはや戦争を欲しない奴の方が不思議に思えてくる、この不思議。
こんな時には、戦争に反対し義務もなかったけれど、自ら進んで従軍し、戦場を目の当たりにした兵士アランの著作を開いてみるのも悪くない。スピノザの想像力批判を受け継いだアランは、銃後の想像力が、見えない戦場に過剰に怯えたり過剰に熱中したりして、人は情念の囚われになってしまうと看破した。赤木は本を読まないだろうから、加藤に『マルス』を贈ってあげたい。マルスとは戦いの神様のことだ。あと、9条、頑張れ!
・驚異と習慣の哲学へ
「ソフィスティケートされた知性」といえば、論考の最後でアリストテレス=プラトン的な哲学観を取り上げた。つまり驚くこと(タウマゼイン)こそが哲学(フィロソフィー)を起動させるという、例のアレだ。この古典的な問いに、独歩が文学の立場から間接的に、つまりカーライルを媒介に取り組んでいた、そんなことを書いた。そして、驚異と共に問題になるべきは、驚異に対立しつつも、その条件となるような習慣についての考察である、とも。
私などが、習慣の問いで第一に思い浮かぶのは、(特にベルクソン研究関係の論文で名を知った)ラヴェッソンの『習慣論』であり、その元ネタであるメーヌ・ド・ビラン『習慣の思考機能に及ぼす影響』なんかで、この辺も追々勉強していきたいと思っているのだが、取り敢えず、独歩が直に影響を受けていたのはやっぱりカーライルのようだ。茅野直子が『サーター・リザータスSartor Resartus』での習慣批判を紹介している(「国木田独歩とカーライル」、『青山語文』、青山学院大学、昭四五・一二)。しかしこれが曲者、Sartor Resartusは邦訳がないのである。英語嫌いな私にとって、これ以上の凶報が存在するだろうか? いや、存在しない(反語表現)。
まぁ、しかし、独歩を考える上で、カーライルだけでなく、ワーズワース、エマソンといった英米文学の影響を無視することはできないのだから、泣き言なんか言わず、少しずつやっていくことにしよう。塵も積もれば山となる。余り物には福がある。亀の歩みでも着実にこなしていけばよい。速くありすぎるのも考えもの(おぉ、なんか上手い感じにまとまった!…気がする)。
↓資料。加藤が実際に朗読していた号外の実物(『時事新報』号外、明治三七年三月十一日)。作品(http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/1055_15939.html)で引用されている下記部分は、記事の右頁=表の下から左頁=裏の上部分。「――戦死者中福井丸の広瀬中佐および杉野兵曹長の最後はすこぶる壮烈にして、同船の投錨せんとするや、杉野兵曹長は爆発薬を点火するため船艙におりし時、敵の魚形水雷命中したるをもって、ついに戦死せるもののごとく、広瀬中佐は乗員をボートに乗り移らしめ、杉野兵曹長の見当たらざるため自ら三たび船内を捜索したるも、船体漸次に沈没、海水甲板に達せるをもって、やむを得ずボートにおり、本船を離れ敵弾の下を退却せる際、一巨弾中佐の頭部をうち、中佐の体は一片の肉塊を艇内に残して海中に墜落したるものなり――」。