神の言葉と本居宣長 (矢那やな夫文芸批評叢書)
神の言葉と本居宣長 (矢那やな夫文芸批評叢書) [Kindle版]

 訳あって、というか、縁あって、矢那やな夫『神の言葉と本居宣長』を読んだ。作品解説のようなことはしない。というか、できない。いまいち何が言いたいのか分からないし、無駄に長いからだ(或いは、無駄に長いから、言いたいことがぼやけているのかもしれない)。時々頭を出してくる金原ひとみも効果的だとは思わない。邪魔だ。別に、悪口を書いているわけではない。寧ろ、ベターにはよく書けている気がするし、日本の文芸評論というのはこのようなものだと言われれば、その通りだった気もする。しかし、ここにあるのは、文芸誌から統計的に導き出された「っぽさ」であり、試験官の顔色を伺いながら行われる器用な自己PRタイムだけだ。

 
 しかし、そんなことはどうでもいいのかもしれない。この評論が真に面白いのは、上記のような性格をもっているため、一種のメタ評論として機能してしまっているという点だ。キーになるのは本居宣長の「実情」という概念である。矢那が指摘するに、宣長は芸術表現(とりわけ和歌)の根幹的な動機に「実情」を置く。それは政治や道徳に役立つといったような従来の意見に反駁したものだった。「実情」主義はそれらを相対化し、単に心のままに表現することを命令する。しかし、心のまま、とは一体どのようなことを意味しているのか。矢那は次のように述べている。



「例えば、近世の和歌には流派ごとにいろいろな決まりごとがあって、その決まりを遵守した作品でなければ、歌壇で高い評価を得ることはできない。しかし、そんな不条理な決まりは「実情」のさまたげになるのだから、決まりを無視して「実情」の赴くまま、ありのままに作歌したほうがいいのだろう。けれど、人々から評価されたいと思うのもまた「実情」なのであって、高評価を得るために決まりごとをちゃんと守って試験の答案を書くように作られた和歌であっても、それもまた「功名心」という「実情」に基づいた表現行為であると言える」
 


 曖昧模糊とした「実情」は、その曖昧さ故に、汎用可能性が極めて高い。「暇だから歌うか」も実情だし、「クールなソングで出世チャンス」も実情だし、「芸術に奉仕する、オレ!(ドヤァ」も実情だし、「ナウい和歌で、モテたい」も実情だ。はっきり言って、何も説明していないに等しい。だから、矢那のいうように、「実情」の論理は、「現実肯定の思考」といって差し支えない。百人に百人分の現実があるのだとしたら、当然「実情」はそれと不可分で、百通りの「実情」があることになる。そしてそれ故に、悪い実情と良い実情を分別することもできない。「分別するオレ、なう」もまた当の「実情」に他ならないからだ。だから宣長の「原理主義」はほとんど、ポストモダニズムの領域に至近している。

 この評論はAmazonでキンドル本として購入できる。そして、そこにある紹介文によれば、このテクストは「群像新人文学賞評論部門予選通過作」という冠がついている(ちなみにこれは本書の最も魅力的な特徴だろう。我々は従来、新人賞受賞作を読むことはできてもその途中で落選したテクストを読む機会がなかったからだ。電子書籍化の適例の一つといえよう)。逆に言えば、このテクストは新人賞の審査に最終的には引っかからず、泣く泣く辺境の地で、個人出版された素人の戯言に過ぎない。もはや、長々と言葉を重ねる必要はないかもしれない。ここで矢那は図らずも自分のことを重ねてを語ってしまっている。つまり、『神の言葉と本居宣長』は、選考過程も判断基準も不透明な新人賞という「不条理な決まり」に直面しつつ、彼の「「功名心」という「実情」」が「高評価を得るために決まりごとをちゃんと守って試験の答案を書くように作」るよう命じた末に、完成に至ったテクストである、と。

 本居宣長の名を借りて著者は著者自身のことを語っている。そして、宣長の名の元に、自己正当化と自己美化が行われる。しかし、同時に、ここには矢那が考察し切れなかった「実情」の基本的性格が隠されている。

 どういうことか。このテクストは「新人」になりたいという「実情」に即して創作されたものだ。そして、もしその「実情」が残存しているならば、一度返されたこのテクストを適当に改変して、再度「不条理な決まり」に再選するべきだったはずだ。しかし、そうはならず、この本はAmazonで今正に購入できる。然り。この本がAmazonで購入できるという情況そのものが、当初持っていた「実情」が無化された(或いは弱体化した)という「現実」をパフォーマティヴに示唆している。

 ここには「実情」の基本的性格が露呈しているように見える。「実情」は容易に変化する。同一人物であっても、「実情」は時を経るにつれて、ほとんど何の法則もなく自然に変化変形してしまう。では、どうやって「実情」の自己同一性を確定すればいいのか。「実情」に即してテクストを読むことを、矢那は「良心」や「誠実」と呼ぶ(そう、意外なことにこのテクストは倫理的なテクストなのだ)。しかし、他人はおろか自分の「実情」さえも、時と共に移ろい、つかみどころなく確定不能ならば、読み手が現在時の己の実情をテクストに投影することによってでしか「実情」に即せない。これが倫理的であるとする判断は一体どこから出てくるのか。

 問いはまだまだ続く。例えば、実情が実情に触発された場合、ひとつの実情とは一体何なのか。例えば、相互に矛盾するような二つの実情がしかし平和的に同居するような状態があるのか、ないのか。矢那は「どんな書にも作者はいて、当然、その作者にも「実情」はある」と述べている。しかし、聖書のように(おそらくは)長い年月をかけて複数人がパッチワーク的に共同執筆した書物の「実情」とは何なのか。ドゥルーズ+ガタリのように「二人で書くことÉcrire à Deux」に決定的な意味を見出していた者たちのテクストは。いや、もっと一般的に、条件的に複数人が参加せざるをえない演劇や映画の「実情」とは何なのか。

 矢那はこれらの問いに答えられていない。最終的には「われわれの思考そのものの中に宣長の神道が潜んでいて、学問も芸術も政治も暴力もすべては、宣長のテクストに回収されていく」という一種の構造論が結論として提出される。構造というマジックが「私」と(出会ったこともない正体不明の)「われわれ」の間の回路を捏造し、形式的でしかない全体性を仮構する。しかし「実情」とは所詮己の「実情」なのではないか、他者の「実情」を受け取るとはどういうことなのか、それとも「実情」に所有格を付ける営みそのものが間違っているのか、といった一連の問いに原理的に答えない限り、これは極めて雑駁な手続きと言わざるをえない。

 このテクストは決定的に失敗している。決定的というのは、自らの手によってそのウィークポイントを露出させてしまっているからだ。けれども、ウィークポントから始めることも悪くないだろう。フロイトだっただろうか、結晶は最も弱い処から裂けていく。複雑で美しい形象の物的成長は、局所的な危機の絶え間無い連続によって準備される。critique(危機=臨界=批評)の場所とはそういうものであり、壊れやすさfragilitéだけが成長の原動力なのだ。そのことを自戒も込めて記しておこう。