凡例


1:この翻訳はエミール・ブートルー(Emile Boutroux)の『自然法則の偶然性について』(De la contingence des lois de la nature [Paris,1898]の部分訳である。原著はINTERNET ARCHIVEで全て閲覧できる。
http://archive.org/details/delacontingence00bout

2:強調を示すイタリック体は「」に置き換えている。《》はそのまま用いており、〔〕は訳者による補足である。

3:訳出にあったって、野田又夫訳(創元社、1945・11)を適宜参照した。
 


 
 無機的なinorganiques物体の試験をパスできても、そのまま、動物や植物が君臨するより高次の型の試験へいこうとするなら、どうして前者が後者を生み出したのか分からなくなってしまう。生理的な現象を説明するには物理的化学的法則だけで十分だという考えには嫌な感じがする。生物の階梯を降りていくと、諸々の機能が混ざり合い、有機体organismesは単純化し、形態組織conformationは段々漂うようになるか、幾何学的な図に近づいていく。最終的には、動物と植物の中間にいる、或いは動物でもなければ植物でもない、原基的な生物にたどり着く。その生物はほとんど同質的な集塊によって構成され、生命が栄養作用としてのみ現れてる蛋白質性物質の不恰好な形をしている。或いは、高次の生物が完璧であるところの状態に先行する位相の連鎖をさかのぼると、それら位相と低次の種の不変的状態の間には一個の類似があることが発見される。ほぼ類似している諸々の部分から極めて相違する諸器官が生じてくるが、その部分そのものも互いに一体化して、往々にして最終的には、固い層、柔らかい層、液状の層を組み合わせた微視的要素に連れ戻される。これを見ると、生命の世界はどうして、少なくとも低次の端っこでは、無機的世界を抱えなかったのかと問うことができる。そして物理的化学的な力の単純な働きが直ちに錯綜した有機体を生み出すのに十分でなく、まづ初めに基本的な生命物質、続いて、その物質そのものの、有機的形態のあらゆる位階制が必要なのではないのか、と。

 細胞の蛋白質性物質は原理的には、炭素、酸素、水素、窒素で構成されている。その要素の組み合わせcombinaisonのモードや組織化された物体の極端な不安定性といったその性格は、分子の運動モードに準じた数、重さ、形、位置、これらの関係を使えば説明できる。或いはまた構成素の一つである或る物理的特性、例えば炭素の特性を用いれば、普段潜在的だった別の特性が、位置づけられた特殊な条件の力でそこに顕示してくる。様々な比率のなか、同一要素の組み合わせから最も多様な組み合わせから生じることを、私たちを見ることができないのだろうか?〔いや、できる。〕

 無機的世界にも細胞の機能に似た機能がある。細胞の機能は要素の実体を原形質に変換しながら新たな細胞群を生む。初め、細胞がまだ細胞膜を備えていないときでは、その変換は細胞伸長intussusception〔細胞壁に新徴粒子が堆積し、細胞の表面積が広がること〕なしに行われる。ところで、結晶は自身にとって同一の化学的本性の溶液で発生し、過飽和状態になると、液体に含まれた塩を結晶化させる。細胞群は決定された諸形態をもち、そこで細胞が相互的に差異化する。これは化学的組み合わせを変えるのではなく形態を変える結晶も、同じだ。結晶のなかには、軽く傷ついても、塩を含んだ溶液にひたすと、その溶液そのものを用いて形を回復するものがある。

 要するに細胞は相互に結合し体系を形成している。かくして水銀の一滴はしずくのすべてと混ざり合う。

 このように生命的世界と物理的世界の間には、程度の差異しかないようにみえる。違うのは要素での多様性がより富んでいたり、分化différenciation〔差異化〕や組み合わせの複雑さがより強かったりするだけだ。

 さて生物の観察は、その目の前にある本性の視点から考察されても、先の生物の発生に基礎付けられた帰納でもってあらゆる点で確証されるのだろうか?

 第一に注目すべき事は、数学的世界においては、運動可能な物質が、先ず最初、運動以前に置かれ、物理的世界においては、運動と物質が同時に置かれているようにみえることだ。ならばここで示されているのは生物が外見上もつ、対応する物質以前に置かれてる運動、つまりは存在に先行しているかのような変化、有機体organismeに先行しているかのような組織化のorganisateur仕事である。

 《生命》という言葉が意味するのは先ず何よりも《自動的な運動》ということだ。生物は連続的に変形していく。つまり摂取し、発育し、別の生物を生み出す。それは一個の不安定性であり、特異なフレキシビリティだ。蒸気や、水滴もその存在が脅かされている。というのも、それ自体あらゆる方向へ変化し、数え切れないほどの障害物の間に散らばったその道を無事に通過するには千の操縦術が要るからだ。しかし生物には、機能の起源がどんなものであろうと、機能の役割と物質の役割との間に、際立った不釣合いがある。物理的な力が利用するよりも更に制限された数の要素をもってすら、生命は、それよりはるかに力強い仕事をなしとげる。草の新芽は岩をも貫くのだ。

 生命的作用l'acte vital、組織化はどうやって成立するのか? 明らかなのは組み合わせという言葉だけでは十分に定義されないということだ。つまり硫黄の一片や水滴に良く似た集塊の形成では成立しない。そうではなく、ある部分が他の部分に従属する体系の創造によって組織化は成立する。生物一体には、ひとつの動因と複数の器官からなる、位階制がある。

 この位階的秩序の根拠は、それぞれ異なる諸形態を獲得した解剖学的要素〔諸細胞〕の特性に求めることができるのだろうか? ――いいや、そうではない。何故ならば要素が別の要素を従属させるには、分化が遇運で生じてはいけないからだ。つまり、細胞は、自身がまとった様々な形態を通じても、位階的体系を創造するに至らず、本来の意味での化学的物質とは別様に振舞う必要があるのだ。

 しかし、その適切な分化は様々な細胞が生じることや現にあることとは異なる諸条件によって説明されるのだろうか?――それには価値の差異を決定する必要条件において細胞が誕生し存続していることが明らかに求められる。しかしそのようなフレキシビリティを無機的物質のなかに見ることはできない。

 最後に、あらゆる組織化を説明する原理が内的条件、要素的な、即ち細胞群という材料の化学的な組み合わせだということはできるだろうか?――しかし細胞は、すべての生命の要素が材料に導かれることを前提としても、ある程度は、物理的特性へ溶解させるべき性格さえも既に有している存在である。つまり、同一の位階制を設定する部分の間には、部分の位階制と新しい細胞を創出する能力があるのだ。原形質は、細胞内では支配的な部分だ。原形質protoplasmaは液体の核と固体の膜を生み出し、次に自分と区別された存在を誕生させる。自分の発育そのものを使って、やはりまた、自分とは異なる現存として生じる、他の諸存在が生じるのを、待ち続けているのだ。だから有機体を細胞に還元することは困難から後ずさりすることでしかない。

 要するに、生命の機能は始まりも終わりもない。それは諸部分が単に異質性を提示するだけでなく、位階的秩序も提示する、システムの創造であるようみえる。生物は個体であるが、より正確にいえば、連続的な作用によって、個体性を自己創出して自ずから個体性を帯びれる存在を発生させるものだ。組織化とは個体化のことだL'organisation est l'individualisation.

 ところで、この機能は無機的物質には存在しないようにみえる。化学的な実体が、もし組み合わせられても、力学的分野に提供するのは相互に相似た部分だけだ。そして、だから、物質は分化や、分業や位階的秩序をもたらしはしない。無機的世界には個体も、個体化もない。もし原子が存在しても、それは個体ではない。というのも原子は同質的であるからだ。故に結晶は個体ではない。結晶は目の前にあるのとよく似た結晶に、おそらくは延々と、分割できるものだからだ。では中心の恒星とそれに従属し続ける惑星で構成された、天界のシステムは、個体性に似たものを私たちに提供するだろうか? 外見上そのシステムが、一種の位階制をもたらす、というのは本当だ。しかし生物は、最後の要素にいたるまで、個体化可能なシステムに分解可能であるが、天界のそれは違う。物理的な力は、無限大から、無限小にいたるまで、生命を実現させようと試みているようにみえる。しかしそれによって到達するのは生命とは無縁な類似物でしかないのである。

 だから生物は物理的特性に還元できない、新たな要素を秘めていることになる。即ち位階的秩序への歩み、個体化である。物理的特性と生命の機能の間にある関係は前者〔物理的特性〕には、予め、後者〔生命の機能〕が含まれていたというように、無媒介的に必然的であるとはいえない。しかしながら、たとえ根本的に異なる事物の間のつながりであっても、もしアプリオリな因果的綜合のなかで肯定されたら、その関係は必然的である。しかし果たしてそうだろうか? 生命の概念は純粋な悟性によって構成されているのだろうか? 〔違う。〕

 もし生命のことを、単純で、非物質的で、目的を目指して手段を調整する、原理のひとつと理解するならば、生命の観念は生物の観察からは派生しえない。というのも、生物が絶対的な単位をいつ持ったか私たちは知らないからだ。絶対的な単位とは、即ち、有機体のことである。しかし細胞がセグメント化しながら、様々な細胞を誕生させ、従って根本的に細胞は一つではなく、有機体の部分とは、ある程度、それ自体が固有の生に恵まれた有機体なのだ。同様に、有機的な合目的性の観念は経験からは生じないことは確実だ。なるほど、経験はその機能と調和した諸器官を私たちに示してくれる。けれども、もし器官が機能を目指して創造されるのか、機能が単なる器官の結果であったのかということを、経験によって学ぶことはない。

 故に一にして知的な生命の原理とは実のところアプリオリな観念であるが、生物の認識によってその観念が前提とされるということはまったくない。観念が認められるとすれば、経験的探求の出発点ではなく、事実の形而上学的解釈としてだけだ。現象の科学的な観察と説明がどんなに助けてくれても、それら現象と同じ類に属してない、つまりは経験によって提供されたものに適用できる規則を提供できるだろう、本質の概念は分からない。その超越的原理が、科学に適用されると、観察を妨げ誤らせる危険をもっている。

 しかし、少なくとも、生物学は、それに次の二つの観念によって支配され監督されているのだ、と言う人がいるかもしれない。〔つまり、サンティールとキュヴィエが主張した、連結の法則と相関関係の法則だ。〕先ず初めに生命とは原型の実現だ。その資格において、生命は諸々の部分間の〔第一の観念たる〕結合の場だ。ひとつの器官が与えられるのなら、それが仮に原基的な状態であったにしろ、結合の器官として等しく与えられねばならない。生物とは全体である。次に、生命とは共通の作用だ。そこで諸器官は作用に協力できるよう構成されている。器官の役割の間には〔第二の観念たる〕相関関係があり、だから、その形態にも同じものがある。この意味で生物とは調和的システムなのだ。

 生物学に折り込まれたこの二つの原理〔連結と相関関係〕は正しい。しかしこの二つは経験の範囲を一切超越せず、それを明示してくれるのは経験そののものだ。統一性〔全体〕は並存が恒常的に続く関係としてしか認識されず、調和は相互的な影響としてしか認識されない。

 しかも、結合の法則であれ、相関関係の法則であれ、その結びつきは絶対的なものとしてはみなされない。法則の一方が絶対的に獲得されるのなら、他方を誤りにしてしまうからだ。原型の保存には他方からいえば余計な器官の存在が必要だ。個体の保存には原型的形態からの例外が必要だ。

 故に、全体性と調和として、静的単位と動的単位としてみなされた生命は、アプリオリな概念の対象ではない。生命と物理的特性とを併せ持つ関係は経験によって与えられ、経験の性格を共有している。

 しかし、もしこの関係が権利的に必然的でないのだとしても、経験の視点そのものでは、事実として必然的と主張できてしまうのだではないか? 生命は自然の至るところに拡がっているのではないだろうか? つまり無機的物質の不動性は麻痺や眠りとは別物なのだろうか? その物質が生の実体に変形する以上、物質が生命の特性を共有していなければならないのではないか?

 なるほど、もし生命の定義を改変したり、生命を例えば、純粋で単純な形態の発育や、無生と呼ばれる物体に既に一貫している特性の観念に還元するのなら、このテーゼは弁護される。しかしその全体、その質料の如きその形式において、生命、即ち部分間の位階的秩序の創造は、本来の意味での物理的世界には現れないのである。その世界は細胞の類似したものを一切私たちに提供しない。いや、生命は物理的世界のなかでは可能態puissanceの状態にあるもので、自己を顕示するために、有利な条件だけを待っているのでは? と言う人もいるかもしれない。しかしここで問題になっているのは明らかに顕示している生命である。というのも、もし顕示することが概念しか考察しない論理学者の目からみればどうでもいい情況なのであっても、事物そのものを考察する博物学者naturalisteの目からみればそれは最重要の情況であるからだ。

 しかしながら、生命出現が事実として必然的だとみなされるには、ある条件が実現したときに、その常に生命が出現するということだけでは不十分ではないか?

 ここで問題なのは純粋に物理的な条件だけだ。というのも自然発生説や、既に組織された物質の道を通ってもなお、そこには生命演繹の循環論法があるからだ。つまり、その学説を維持しようとするなら、(もし不変の前件に生命が宿るというのが本当ならば)絶えず生命が出現する環境、その要素、その組み合わせのモードの条件が純粋に物理的であると主張できなければならない。しかしそれだけではない。純粋に物理的な事物の状態も、それ自体において、そこから多かれ少なかれ離れた〔物理とは〕異なる結果でありうる。そのような干渉は、現象の秩序のなかで多かれ少なかれ重大な偏差が働いた後で、事物が正常なその流れを回復させたと考えるだろうから、生命を自ら顕示さす条件は、原因の階梯を遡っても、純粋に物理的な情況を用いて証明せねばならないのだ。生命の物理的起源を明らかにするには実験室の実験だけでは十分ではない。なぜなら物理的世界が、それ自体で、知性をもって経験を重んじる者が提起するもの条件と類似する条件を創造するかどうかは分からないからだ。

 
 しかも上記のように現れなければならないと説明される生命物質は、尿素、エーテル、糖、アルコール、酢酸、蟻酸、等々のように、組織されていないあれやこれやの有機的産物ではない。つまりは、単純に活動的な物体、同化や異化のしやすい要素、被膜と形を創造し、細胞に生成し、別の細胞を養い、発育させ、産み出す原形質protplasmaだ。というのも生物が、己のように生きていない産物を創造したり、部分的さらには全体的でさえある物理的ないし力学的な作用を実現させたりする能力をもつことは明らかだからだ。物理的化学的世界が純粋に力学的な現象を多数誕生さすのと同様だ。必ずしも一つの原因がその複数の結果のなかに完全に表れるとは限らない。物理的に生まれたことが説明された有機的産物が、その形成に生命そのものは何の寄与もせず、生命の衝動l'impulsion vitaleに対する純粋に力学的な離れた反動にすぎない産物の一つであろうとも、その物理的説明をあらゆる物理学的作用に例外なく広げるのは正統ではないだろう。

 最後に、この困難が克服されようとしても、次のことを示さねばならない。つまり、細胞が与えられると、一度にすべての生物が暗に与えらる、即ち生物は必然的な法則に従いすべての細胞から派生するのだ、と。もっとも複雑な構造や機能は、その基本的な有機体〔細胞〕に、充実した根拠があるのだ、と。

 ところで、ここで証明されたものを集めて見えてくるのは抗いがたく経験の範囲を超越してしまうということだ。必然的なつながりを用いても、生物、とりわけ高次の生物の物理的条件と、本来の意味での物理的世界の現象をどうやってつなぎ合わせればいいのだろうか? 物理的現象が高次から介入されも、固有な流れから逸らされないということをどう証明すればいいのか? 複雑性の視点からみれば、もっとも高度だが無機的である物体ともっとも基本的なのに組織化された物体〔身体〕の間には大きな不釣合いがあることは本当だ。さらに、その特異な物理的錯綜は、新しい質、完全に異なる秩序、確実により大きな完璧さと一致している。高次の本質によって明らかに決定づけられた思いがけないその組み合わせを形成するのに、有機的ではなくなった物質のただなかで革命が生じるなどというのは果して本当だろうか? 生命が自分自身で物理的条件を設定したというのは本当なのではないか? この学説に従えば、物理的条件と生命の間にある因果関係が実際にあることになるのだが、しかし原因となるものこそ生命なのである。

 そもそも生命の影響力を不意に感じたり、飛躍によって進歩が実現したりすることを認める必要はない。互いに隣接する進化の瞬間瞬間を考察するものの目からみれば、高次の原理の作用は多かれ少なかれ感覚不能であろう。物理的な力だけが働いていてもそう見えるだろう。ある場合では、高次の原理が、物理的な力がその目的のためには十分であるとき、物理的な力に対して、一度準備されたものを自ら完成さすようにと、物理的な力そのものに任せてしまうことも考えられる。その場合、生物そのものにおける、条件から条件づけられたものへの移行は、生命が、正に、特別な原理であったとしても、純粋に物理的だろう。

 もし上のようなことであるなら、要素、即ち生命における物質は、正に、物理的化学的な力であるに尽きる。しかし、その材料は自然のままのものではない。いわば高次の介入によって整理され、調和化され、規律を与えられている。生命は、この意味で、真の創造なのである。


 しかし、もし生命が物理的動因に束縛されてないのだとしても、生命そのものにいわゆる必然性はもたらされているとはいえないのか? 偶然性を僅かしか残さないか全く偶然性の代わりになる、生理的といわれる、特別な法則に従っているのではないだろうか?

 先ず第一に、生理的現象と物理的現象の間には正確な対応があるのではないか? その結果、生命の世界の只中には、物理的世界にあるものとのと類似した結びつきの原理があるのではないか? そして、生命が物理的現象でないにも関わらず、生命が許したいくらかの偶然性が本来の意味での物理的世界を伴う偶然性によって正確に測定されるのではないか?

 なるほど、あらゆる生理的変化が決定的な物理的変化に繋がっていることは本当だろう。しかし、量の視点、物理的現象の視点からは、その相互を比較することが既に困難であるとしたらどうだろうか? そして、科学的に決定可能な要素をそこで探求するとき、量の力学的条件を測定することへ還元されてしまうのならどうか? 二つの秩序の現象のそれぞれの関係において、生命の世界と物理的世界の対応を設定する、生理的な測定単位を発見することが未だになお難しいとしたらどうか? いかにして生命の形態と機能の多様性を特殊な同一の単位に導けばいいのか? しかも他方の関数として一方を考察可能にするには、二つの量のそれぞれの変化を測定しなければならない。

 そもそも、生命は往々にして物理的な力に対する闘いではなかったか? その現象が理解されるには、たとえば生命の機能が物理的対象を別の言語へ純粋かつ単純に翻訳したものだとすればいいのか?

 最後に、高等生物においては、生理的変化とそれに対応する物理的変化の間に、尽きることのない不釣合いがあるのではないか? 例えば、生から死への生理的推移とその推移の物理的条件の間だ。もし病気が生理的である以上に、物理的な変化であるのだとしたら、生命の視点からみれば無秩序であるその変化は、物質の視点からみても同じ無秩序なのだろうか?

 要するに物理的現象の法則にある必然性の度合いを生命現象にまで及ぼそうとして、前者と後者の間に存在する対応関係を結論づけることはできない。もし生命現象の秩序が必然的であるなら、必然性の根拠とその尺度は生命現象そのものにある。

 物理的法則と数学的法則がそうであったように、生命の本質的法則は、次の定式の表現がふさわしい。《一切を滅せず、一切を創り出さず》。

 個々の機能と全体の機能の間にある、有機的相関関係の法則は、一点集中する諸力の間にある法則によく似た関係と決定づけられた合力を前提にしている。もし一点集中する力のひとつが変化したらならば、他の集中する諸力によって被る相関的変化があるせいで、合力は同じものであり続けることはできなくなる。同じく、生理学において、もし個々の機能が変化したならば、全体的機能が残れるように別の機能も変化するだろう。相関関係の法則は、個々の機能の被るあらゆる変化を通じて、全体的機能の不変性という、もっとも単純な法則に連れ戻される。

 しかし全体的機能は単に自己における目的である以上に、或る形態、或る組織された物質を実現させる手段でもある。


 ところが有機的な形態と物質はそれ固有の法則も持っているようにみえる。

 形態には結合の法則が関係している。系corolaireのために諸器官の均衡〔つまりはサンティレールとキュヴィエのいう「均衡の法則」〕を伴う、その法則は、個々の形態と原型と呼ばれる全体的形態の間に、個々の容量と決定された総量の間にあるのと類似した関係を、前提としている。もし個々の容量のひとつが変化しても、別の容量の部分が対応する仕方で変化して、全体的容量は同じものであり続けるしかない。生理学でも、同じく、ある器官が変化したならば、別の器官もそうなるだろう。取り除かれるのではなく、原型が保存されるだろう仕方で、やはり変化するのである。つまり結合の法則は形態や原型の不変性へと連れ戻すのだ。

 では〔結合と相関関係という〕二つの法則同士の関係はいかなるものだろうか?

 もし結合の法則が絶対的なものだとしたら、即ち形態はそのもののために存在しているのならば、その法則は、ある場合では不必要な諸器官が揃っていることを必然ならしめながら、相関関係の法則に対立する。しかし、もし形態が機能の結果としてしか存在しないのだとしたら、つまりはもし結合の法則が相関関係の結果に従属するならば、諸器官は傾向として機能のバラエティが豊かになった後で出てこなければならず、機能が弱くなるにつれて衰えなければならないし、機能が消え去れば萎縮せねばならないだろう。ところが、それが起きるのは明らかだ。だから結局、結合の法則は、相関関係の法則に属していたのだ。

 最後に、組織された物質〔有機的物質〕が生じることはそのままの物質〔無機的物質〕が生じることに類似した法則に服従しているようにみえる。つまり生の渦動を通じて、生命物質の量は決定され、その量は不変でありつづけるようにみえる。おそらく、実際は、同化と異化はなかり大きな集合のなかでは釣り合いがとれている。誕生や死について、それが大きな範囲に対してなされるに応じて、統計statiqueは、段々恒常的になり、段々平等に近づいていく平均値を見つける。個体からみても、普通の条件下では、老人と若人とは釣り合いがとれている。つまり、成長が断ち切った断ち切られた均衡が、老衰により回復するのだ。

 絶対的だとされた、この法則も、それでも根本的に相関関係の法則とは異なるようにみえる。何故ならば、集合の作用の視点からみれば、その法則は無用な機能を折り込んだり、必要な機能を排斥したりすることもあるからだ。しかし、組織された物質が組織化の作用の力でしか存在しないのだと認めるならば、物質が生じることに関する法則は、やはりまた、相関関係の法則に帰すのだ。

 結局、〔相関関係、結合、物質が生じることの〕この三つの法則の中では、最初のものが比較的確かで、最も不変的だ。そして他の二つが最初のものに逆らって自分自身のために存在するようにみえることがあったなら、その相違は、究極的には、全体的機能における統一性と同質性の欠如につながっている。多かれ少なかれ等しさを欠いた釣り合いのなかで、組織化の様々なモードが混合しているのだ。

 つまり生物の最高の法則は全体的機能、つまり組織化の度合いの不変性であるようにみえる。だから、その結果で、原型と有機的物質〔manièreをmatièreと読む〕それ自体には不変性がある。一言でいえば、生命の保存だ。

 さて生命エネルギーの保存がそのエネルギーの使用のモードを予め判断しないということを理由に、その法則は生物学的現象の絶対的必然性を折り込んでいないと主張することはできるだろうか?

 保存の法則のこの解釈は物理学や力学以上に生理学においてほとんど基礎付けられていない。事物は常に決定された形式下でのみ与えられる。そして保存の法則そのものに従い、同じ秩序の新しい条件の介入によって、諸決定、使用のモードは変化しうる。もし諸決定が、予め、同じ体系の一部をなしていなければ、それは平均値へ改変される。

 適用に際して様々ある、諸法則の必然性の問題は、一般的形式においては同一的であり続けている。物理学や数学におけるように生理学においても、その関係は次のように提起されなければならない。つまり、与えられた量の不変性は必然的か? そもそも、生命に関して、この問いかけにはいかに応えればいいのか?


 先ず宇宙の中の生命エネルギーの総和はずっと必然的に保存されると断言することで生命の定義そのものを基礎付けることはできない。というのも、その定義は無数の組織化度合いを認めても、生物数を非決定なままにしておくからだ。

 さらには、生理学という科学にアプリオリに構築できる綜合的で合理的な原理を援用することはできない。というのも、そのような構築の不可能性が明らかだからだ。つまり、形而上学的な外見をもつ、その原理を構築するだろう諸項は、科学に役立とうと受容されると、たかだか経験的な与件にすぎないなるだろう。

 ならば、経験そのものを参照し続け、もし経験が実際に、生命の量の不変性を保証してくれるかどうかを、見るほかない。しかし事実はそのようなものではないだろう。

 生命のエネルギー(組織化の錯綜さ、分業、解剖学上現れる形態、組織された物質の特性)とは留まることがほとんど不可能な代物だ。そこには数に逆らっているようにみえる、完璧な質の観念が入り込んでいる。実際、もし、細胞が同じ数保たれ、複雑な有機体は原基的な有機体にどんな場所をも譲らなくてはいけなくなるとしても、生命エネルギーの量が恒常的に留まる、とはいえないだろう。

 さらに、数多くの事実によって機能や有機体の不変性を明らかになているというのが本当でも、多かれ少なかれ他方の事実としては深刻な生理学的変化も意味しているだろうとは認めねばならない。人間は、多少なりとも、ある種の植物や動物の種を変化させ、その種のなかに安定的な変種を創る力が、あるのではないか? 人工的であれ、教育の可能性は、その本質によって捉えられた機能や器官が、絶対的な不動性を折り込んでいないことを、示さないのだろうか? そして、集合的には生命の量が大体同じものに留まるのだとしても、それは必然的にそうなのではないと、示さないものだろうか?〔いや、示しているのだ。〕

 生物そのままを考察すると、現在では不要な原基的な器官が現にあること、いくつかの種の消滅、土地の形成〔地層〕が浅くなるにつれて完璧になっていく化石があることといった、保存の力の底の、その傍らにあって、自然そのものの只中に留まっている、変化や、凋落や、進歩の力の徴が、ある種の事実のなかには見えてくるのではないか?

 こういう人もいるかもしれない。その変化可能性は存在する。しかし、それはどんな偶然性も折り込んでおらず、ずっと必然性が存続しているのだ、と。もっとも無機的な支配の法則に変化可能性の源と基盤があろうなどということはありえない。その支配が有機的発育の材料と条件しか提供せずに、その発育は生物そのものの固有の本性に原因をもっているというのは確かだ。しかし、有機体は生きねばならない環境に調和する仕方で、かつその構造の範囲内で、自分自身を変化させ、自身を蓄積し、子孫に例えば突発的に起こる変化を伝達さえするのは、すべての有機体に一貫した法則があるからだ。生物には、適用力と遺伝的習慣の力が存在している。生物の不変性の傍らには、変化があるものの、それは必然的で、適応accommodationの不動の法則によって定められ、習慣のなかで固定化されている。この習慣もまた、宿命なのだ。そしてこの二つの法則が現実化してきたし、或いはしている全ての有機的変化を説明している。法則は変化それぞれに恒常的な前件を割り当てている。もっとも根本的な変化といえど、もし変化を発生させた環境への情況を集合的に認識するならば、まるで完全に決定されたかのように現れてくるだろう。故に必然性は無機的世界におけるように生の世界にも君臨している。唯一の違いは、一方〔非有機的な世界〕にある基礎的な法則が本質的同一性の法則であるのに対し、他方〔生の世界〕にあるのは根本的な変化の法則であるということだ。一方は静的な法則に、他方は動的な法則のなかにある。という訳だ。

 しかし根本的な変化可能性は必然的な連鎖と一致しうるとは認めれるだろうか?

 無機的世界のなかで、偶然性を仄めかす変化が、幻影にすぎず、唯一の現実とは現象の変化の下で同じものとして留まっている数学的定式であるという主張が、もし不当であったとしよう。しかし物質がほとんど存在しなくなり、作用がほとんど一切となり、つまりは、現象的なものphénoménaの変化をまだまだ維持しようとすると現実から遠のくよう感じられるときに、なおも変化を必然性に帰着さすことは、それも不当だ。もうそこでは生物学的現象の必然的連鎖を証明せんとする人の考えの力を借りた定式は、与えられた力学的な力の量の保存を表す定式の正確さをも持っていない。計算はフレキシビリティと習慣に相応させようとしても使い物にならない。そしてこのような基礎の上で、演繹的な科学を設定し、事実の間に、真に必然的な関係を表すことがどのようにして可能なのかは分からない。結局、その原理を、人は力学的物理的な定式の鋳型の中へ放り込んで必然的な法則の外見を与えるものの、原理は事実間の実定法や恒常的関係を構成するのに必要な条件を欠いており、本性が別の関係を表現しているのだ。

 適合の法則に従えば、生物は自分が置かれている条件に対して生き延びれるように自分を変化させる。ところで「ようにde manière à」という概念はある程度まで決定されていない。実証的な視点からみれば、与えられた材料を用い提示された目的を実現するには複数の仕方manièrsがある。つまり目的が実現されれば、方法はどうでもいい。条件の数や本性に従い、複数の方法の選択できる数が段々制限されていくだろうことは、本当だ。しかし「ように」という表現も選択が限界づけられるに応じて適切でなくなっていく。それでもし可能な〔最低限の〕手段しか残らないならば、その表現の存在理由は完全に失われてしまう。というのも、そこで現象を実現させるのは単に置かれた条件の力によるだろうからだ。獲得するべき結果の観念は決定的な条件の資格では、もはや介入してこない。

 もしここで、あらゆる合目的性を折り込んだ手段の複数性を考慮にいれるとすると、そのうちのひとつを優先することを説明するには、最小作用の原理〔自然において何らかの変化が起こるときには、その変化に必要な作用の量は、可能な限り少ない〕や、美しさの本能や、一般的な善といったものの考察の力を借りなければならず、これは実証科学の場から離れ、形而上学や美学の土地へ移ることだ。そして。そして経験の権威を引き合いに出すことはもうできなくなる。

 まだある。「ように」という概念は、条件の間のつながりを設定している。条件とは、一方は生物の諸条件であり、他方はその諸条件の下での中心にある存続性であり、つまりは概念は実現した事実と実現すべき目的との間、与えられた事物と単に可能な事物との間のつながりを設定する。ところが、第二の項〔存続性、実現すべき目的、可能な事物〕の観念的性格によって適合の法則が本来の意味での実証的法則であろうとすること、物理学や化学の法則を折り込める意味での必然性を折り込んでいることを認めることはできない。

 最後に「現にあるexister」という概念はそれ自体で何かしら非決定の余地を残している。というのも複雑な生物にとっては、少なくともそのあれやこれやの能力が発達するに従い、現にあることの複数のモードがあるからだ。様々な能力の発達は多かれ少なかれみな等しく多かれ少なかれ調和的でありうる。調和それ自体は、あらゆる能力が同列に置かれるか、ある種の能力が他の能力よりも秀でて置かれるかによって、様々な仕方で理解される。では適合の的とを構成するだろう仕方とは、現にあることのそのモードのどれが、そうなのか? 〔決められない。〕

 これ以上に遺伝的習慣の原理も実証的な法則の条件を満たさない。この原理に従えば、物理的環境、生存競争、性の選択、そして結局は、ある作用のエネルギー、連続性、反復といったものといった、ある範囲の情況によって、最初偶発的だった変化が、個体から種へと移される。しかし、習慣を決定するかのように言及されても、実際は、純粋に物理的ではない情況の本性を調査するまでもなく、習慣とは事実ではないと注意することができる。しかし習慣とはある事実を実現さす傾向dispotionで、そして、この意味で、実証的法則の定式には相応しい場所がないのだ。

 さらに、ここでは習慣は個体の本質、本性におけるほどまでの変化を起こすとみなされている。ところが本来の意味での実証的法則は、結局、恒常的とみなされた事物の本性から派生した、諸関係である。法則は存在に先行せず、単に相互的作用の結果を表現するだけだ。なるほど、法則は、科学的証明において、存在の本性に、即ち一般的事実につながっているという資格で、細部の事実を規定するとみなされる。けれども結局のところ、細部の基礎をなしている、一般的事実に従属し続けている。もっとも一般的な事実はそれ自体で変化する、これを認めるということは、法則が変化することを認めるということだ。或いは、もしその変化そのものを説明する法則〔法則変化の法則〕を手中に収めたと思っても、それがあらゆる事実の前に置かれたということによって、その法則はもはや実証的法則とはいえない。実証的法則と遺伝的習慣とを同一視することを正統化する唯一の手段は、その傾向の形成や保存と物理学や化学のもっとも一般的な法則とを繋ぐことだろう。そんな風にして、生理学的変化可能性は比較的安定した基礎を拠り所にする。正に生理学的とみなされるだろうという意味での現象に、見かけ上先立つ習慣の法則というのは、実際は、生理学的現象が、特殊事例として、物理的現象に属するという意味で、基礎的な条件に後続することとなるだろう。しかし遺伝的習慣の法則は明らかに、生理学に関する本来の意味での物理的法則の欠陥を改善することをその対象としている。つまりは法則が表明する特性は実際には物理学や化学の基礎的な原理、つまり物体の本性はいちどきに決定されているということに従う原理と直接矛盾しているのだ。特殊事例はたしかに別の特殊事例の否定でありうるが、しかしだからといって、一般的な事例そのものの否定というわけではない。生命の世界を説明するのには遺伝的習慣が貢献せねばならならず、そこには本来の意味での生理学的法則や、基礎的法則という資格を与えなければならない。そして、これら関係においては、習慣は実証的法則とはみなされないのだ。

 要約すると、組織化のモードは、単に個体においてだけではなく、或る点までは、種のなかでも変化するようにみえるのだ。そしてその変化は、無差別ではなく、衰退もそうであるが、しかしほとんど大抵は、改良を構成することになる。だから宇宙における生命の量が一定に留まると考えることはできない。生理的現象の本性はそれらに固有の法則によって完全に決定されてはいないのだ。

 そして、実際、生理的現象の条件という、本来の意味での物理的現象の連鎖が、宿命的ではないだろうということが本当だとしたら、その非決定を生命の世界が利用しているということは容認しがたいだろうか? つまり、ある可動性を自分自身で得て、発育と進歩の能力に恵まれた、組織された存在が、物理的な条件の組織tissuの弾性そのもののおかげで、自然の賜物を利用してあらゆる意味で広がっていくことに成功したのだとは認められないのか? 〔いや、認めることができる。〕

 そもそも物理的な事物の流れに生命が介入することは突発的でも暴力的でもなく、だからそれは非知覚的で連続的ではあることは理解されていい。それというのも物理的現象がもっぱらそれ自身により、それ自身のために存在しなくなって、道具へと生成するところの、高次の形式によって消化され始める点を決定することは実際的には不可能であろうからだ。