凡例


1:この翻訳はエミール・ブートルー(Emile Boutroux)の『自然法則の偶然性について』(De la contingence des lois de la nature [Paris,1898]の部分訳である。原著はINTERNET ARCHIVEで全て閲覧できる。
http://archive.org/details/delacontingence00bout

2:強調を示すイタリック体は「」に置き換えている。《》はそのまま用いており、〔〕は訳者による補足である。

3:訳出にあったって、野田又夫訳(創元社、1945・11)を適宜参照した。
 

 
 
 物質と運動以外のものを使って世界を創造することは果して可能だろうか? その二つの概念は不可欠で還元不能な与件として一旦認められており、それでもう残り一切は説明可能になっているのだろうか? 

 本来の意味での物質に乗っかっているのは、物理的化学的な本質、すなわち図と運動を私たちに現わさせるところの、物体corpsである。物体は自身の十分な根拠を運動やその法則があるということに有するのか、それとも依然として還元不能な何かを秘めているのか?もしも物質が物体を説明しないのならば、生命や思考を説明できるなどということはもってのほかだ。

 しかし物質はどうして物体を説明しないのだろうか?ここで問題にすべきなのは物理的化学的な対象が生じるという観念での人間に関する説明ではない。感覚作用の主観的要素ではなく、ただその外的原因だけが問題であるのだ。さて感覚作用のなかで事物の部分はどうして運動に還元されないのか? 

 なるほど、私たちの意識状態を外的物質の特性とみなすことは不可能で、感覚されたという事実が、客観的な物質と物体との区別を許すわけではない。しかし純粋かつ単純な物質はもちろんのこと、音や光の実体の中にだって物質の他には何もないと結論せねばならないのだろうか?物理的な科学〔自然科学〕の記述的分野は対象をもたないのだろうか?

 存在の様式が意識状態に与られるとき、その存在の様式が事物に一切属していなくても大丈夫だとすれば、運動自体も意識に属すことはない。というのも運動は意識している触覚的ないし視覚的な感覚作用のなかだけで私たちに与えられるからだ。触れることを抽象化してしまうと、運動はまったく訳のわからないものになってしまう。となれば、外的要素という私たちの有する無前提の観念に特に準じて、運動は生じるのだとする学説ほど、曖昧なものはないことになる。私たちが認識する運動、つまり知覚された運動は、あらゆる知覚がそうであるように、与えられた事物の符号としてしか存在しえない。にも関わらず、もし事物に知覚された運動が属すというなら、本来の意味での物理学的特性を拒もうとして、物体の認識に意識が介入すると結論づけるということはできない。

 しかし、必然性のない存在を多数にする必要はない、と反論する人もいるかもしれない。物理的な様々な特性はそのすべてが唯一の同じ外的原因をもち、その原因が運動であるのだということは証明されている。同じ動因agentでも、様々な感覚器官にとってみれば、様々な感覚作用を生む。様々に現れる動因でも、唯一の感覚器官にとってみれば、いつも同じ感覚作用だけを生むのだ。〔J・ミューラーの「特殊神経エネルギー説」を参照せよ。〕様々な物理的動因はだから唯一のものの変化でしかない。音や熱、恐らくは光も運動へと帰着する。つまりあらゆる物理的動因は運動へ帰着する、とその人は言う。

 しかしこの証明は厳密ではない。

 最初に〔熱と仕事が変換可能であることを示し、後のエネルギー保存の法則にも繋がる〕熱の仕事当量の法則は本来の意味での運動へ熱を還元することを意味せず、私たちの熱の感覚作用を決定する物体の中に、分子の運動があることを意味するだけだ。

 次に、もしすべてが運動でしかないとしたら、物体を目の前にしたとき、一体どうして様々な種類の感覚作用を、意識が感じるのだろうか?本性の異なる複数の意識があり、それが運動の複数のカテゴリーに対応し、相対的に量的なその差異に対して、質的差異を創出するのだろうか?しかし意識は本質的にひとつであり同一的だから、一なるものから多なるものへ、類似したものから多様なものへのその移行を説明できない。そもそもここで問題なのは純粋に外的な多様性と唯一の典型のバラエティではないことは明らかだ。熱の感覚作用は音の感覚作用と比較して根本的に異質的だ。その異質性は意識の本性によって説明されないがために、事物自体の本性の根っこを持つことになり、そして物質は事物同士に非還元的形式をはめ込む特性をもち続けることになる。ところが異質性は図となり運動可能になった延長の本質、つまり本来の意味での物質とは異なる。振動運動それ自体は平行運動に対して異質的であるとはいえない。それは同じ現象の単なる大きさ、方向決定、強度、モードの違いである。それ故、感覚可能な対象は、意識が感覚作用の中に自らを位置づけること禁じてもなお、運動する物質に還元されないということを認めなければならない。感覚可能な対象において振動する物質は本来の意味での物理学的特性、上位の特性への乗り物でしかない。この新しい本質は私たちにとって異質的な諸感覚作用を意識に提供する能力において成立する。

 同じ動因が色々な仕方で様々な感覚を動揺させるならば、それはおそらく、その動因が外見は単純であるのに、実は複雑で実際には様々な感覚作用を生むのに応じてだけ相異なった複数の動因を含んでいるからだ。例えば、熱、光、電気などは、多かれ少なかれ恒常的な仕方で、それぞれ互いを相伴うが、だからといって唯一の同じ動因に混ざり合うというわけではない。おそらく問われている事実も、そしてその反対の事実も、こう説明されればいい。つまり受け止めるべき印象に適当な本性を感覚器官はもち、潜在的な状態では、それ自体において、外的対象によって引き出されてくる、本来の意味での物理的印象のある総和を保存しているのだ。つまり、ある種の刺激の範囲のなかで、その印象が潜在的状態から顕在的状態へ移行するのだ。これは例えば、想像的な感覚作用や夢想の事例で生じるものだ。

 それ故、物理的化学的要素、つまり物体は、異質性をもちやすいという点で、純粋かつ単純な物質と混ざり合わないのだ。それは物質からの分析的展開の方法で派生することはないが、新たな要素が足されることを意味している。

 この付け足しは理性によってアプリオリに置かれた因果的綜合の結果なのだろうか?

 ここにあるのは物理的現象の物質、即ち熱や、電気や、化合物等々に関する特殊な概念についての問いではない。それら特性は明らかに経験によってでしか認識されない。しかし人々はおそらくその特性の一般的形式、即ち物質が異質的な実体へと変形することがアプリオリに与えられたとみなす。定義上物質がそうであったように、存在が時間と空間の条件に従った瞬間、おそらく存在は、無限に多様化しながらでしか自らのあらゆる力を実現さすことができなくなるようにみえる。プリズムを通過する太陽光がこめていた光のすべてを保存しておくには幾千の微妙な色調を帯びるしかないというわけだ。

 だから、異質な性質の概念はきっとアプリオリな概念の性格を提示すると理解されている。しかし、それではどうして物質の形式が無限の数ではなく、音や、熱や化学的性質といったような少数の分類に帰着するのかが分からない。加えて、アプリオリな概念は時間のなかにあるものすべてが、正にそのことによって、物理的形式を帯びると想定されるが、これはまったく確実とはいえない。〔例えば「意識」は時間的存在であるが物体的存在ではない。〕

 物体の科学的定義はそのような形而上学的観念を意味してない。つまり、感覚に及ぶ異質的な物質的事物の観念を単に含んでいるだけで、だからアプリオリな概念は経験の範囲を少しも超越しないのだ。

 こう言う人もいるかもしれない。物体の定義において、感覚可能な性質は純粋な現象とはみなされないが、特性としては、即ち一般的原因や、感覚を超えた性格をもつ本質といったようなものとしてはみなされるのではないか?

 しかしそれでは《特性、親和力、一貫性》等々といった用語の、科学的受容からはそれてしまう。それら表現はある感覚作用が私たちに与えられると、別の感覚作用が必ず与えられるといったことの画一性を意味しないならば、何物でもない。特性など現象の二つの集まりの間で観察できる関係でしかない。

 数学的特性から物理的特性へ、物質から物体への移行は、事物に押し付けられたものとアプリオリにみなすことはできない。だとしたら事物それ自体が事実として必然的であるかのようなその綜合を私たちに提示しないのだろうか?例えば、存在するものすべては物理的特性を有すると、本当にいえないのだろうか?

 大多数の事物が最初は本来の意味での物理的特性よりも下位か上位かの特性にしか属さない、これは確実だ。例えば天体や生命物質といったものは、いまでは下位特性が重なり合って、上位特性のなかに折り込まれた物理的特性を所有しているかのように私たちに現れる。しかし存在するものすべては物理的特性を有するということになるだろうか?〔ならない。〕例えば、人間において、すべてが身体的であろうといえるだろうか?あるいは別に、ある現象を説明するのに、力学的特性をほとんどもたず、本来の意味での物理的特性を奪われているかのような、エーテルと呼ばれる、極めて単純な実体を科学そのものが想定することを私たちは知らなかっただろうか?

 しかしながら、もし存在するものすべてが物理的特性を所有していると主張することが不可能なのだとしても、その特性がそこで現れるところの宿命的な性格は、その外見を統べる法則だけで、十分生じうるのではないか?物理的特性は変形された運動と別物だろうか?そしてその変形は必然的な法則に従って生じるものではないのか?

 この推論は混乱を含んでいる。熱が、言葉が意味するところのすべてでもって、変形された運動なのだと、つまり、運動が消えて力学的ではなく物理的現象が代わってやってくるなどということを物理学は示さない。物理学が示すのは単に、熱や光等々といった、外見上純粋に物理的な現象のもとでは、特殊な自然の運動があり、その運動は本来の意味での物理現象の条件であるということだ。運動が熱ではなく、別の種類の運動、分子の運動に変形するとして、その運動自体を物理学者が熱と呼ぶのはもっぱら諸観念の結合を使ってやっているにすぎない。本来の意味での熱は分子の運動それ自体とは区別される。故に分子の運動へと移転する運動の移行を説明する法則を使っても熱の出現を無前提に説明したことにはならない。

 しかしある力学的条件が実現されても、人は物理現象がどのように生じるのか分からないのだろうか?その力学的条件が数学的法則の力で実現するというのは果して本当だろうか?そして数学的必然性それ自体が物理的世界の必然的現存を保証する結果にはならないのだろうか?

 そのような演繹は純粋な抽象でしかない。というのも、現実の事物に関連することにおいて力学的必然性は確実ではないから、そして運動の偶然性が表出する事例の一つに物理的現象の力学的条件の実現が入ってないだろうことは一切証明されていないからだ。その条件が、一定の限られた数だけ数学的要素をかき集める人間が想像するあらゆる組み合わせを、錯綜しながら、まるで無際限に超越していくということは注目に値する。それと同様に数学的なものを具体的な物理学へと適用することは絶対に近似的な結果しか与えない。なるほど、もし物理的現象のあらゆる力学的条件を認識したならば、絶対的な確実性でそれを予見することができる、と人は思う。しかし問題になっているのは概念《すべての条件》が現実的なものに応じているかどうかということだ。物理的現象にとって完全に定まった力学的条件が限られた数だけ存在するとしよう。それで、仮に無前提の力学的条件から物理的現象を演繹できるとして、条件それ自体にも同じことをし、しかもそれを際限なくすることができると断言するのか?力学的原因を遡行していく連鎖のなか、なんの極小の偏差にも陥らないでいる、ということは可能だろうか?

 この仮説はもし運動がいたるところで同じように現れ、運動それ自体にとってしか存在するのみならば、根拠がないようにみえる。しかし、通常の力学的現象の事例、つまり運動、合力の表出においては、純粋かつ単純に様々な延長の位置関係に現れた変化であるのに、当該の、物質の襞に隠された運動は、合力なしに留っていてもなお、新しい上位の特性を支えるのだ。前者の事例は比較的単純で、後者はまるで無限の錯綜を抱えている。そもそもどうして別の運動の中にある或る運動がその十分な理由をもつのか誰も理解できないし、甚大な変化からは隔たってもある結果になだれ込むのには、要素の運動に極めて弱い変化さえあればそれで十分だ。もしこういうことならば、物理的現象の力学的条件が生まれるには一部偶然性があるというのが本当ではないのか? その力学的的条件に一様に結ばれるだろうけれども、物理的現象の出現とは、それ自体偶然的であるというのが本当ではないのか?



 しかしながら、物理的世界そのものもまた、自らの法則ももっている。現象は偶運では生じない。もしその法則が絶対的なら、力学的世界への物理的世界の介入が、偶然的でありながらも、結局は、物理的世界それ自体に固有な内的必然性によって規定されてしまう。そして結果的には、力学的現象の流れに影響を及ぼす本来の意味での物理作用を説明しようとして純粋に数学的な視点に移ったとき、部分的には決定されていないものが、完全に決定されているかのように現れるだろう。だから海王星があることを知らなかった時は、天王星は偶運的に彷徨っているようにみえたのだ。

 しかし力学的世界とは異なる、物理的世界固有の法則はどのように決定づけられているのか?実証科学は段々と明確な与件を提供できない記述的視点を捨て去り、相対的に質的な物理的現象を、相対的に量的な力学的現象へと、できるだけ連れ戻した。例えば、実証科学は熱そのものを研究しないが、力学的均な等しさは研究する。同じく実証科学は電気や他の物理的動因の力学的等しさを探求する。そんなだから、物理現象の法則を科学的に決定する仕事が数学それ自体に託されてしまう。

 この方法を前提としている平行関係〔等しさ〕がもし絶対的であるなら、物理的現象の非力学的要素に固有の偶然性は問われえない。力学的な物理的法則は本来の意味での物理的法則に正確な尺度を与える。とはいうものの物理的秩序に折り込まれた力学的秩序が、文字通り、等しくあるということは果して確実なのだろうか?

 或る意味、《等しくあるéquivalence》という表現は完璧に正統だ。孤立してるとみなされた、ある物理的現象が、いつもある力学的現象を伴っているということは正しい。しかし、この意味では、物理的現象の力学的等しさは力学的現象固有の法則を提供しない。何故ならば、二つの秩序の間の作用や反作用がないのかどうか、本来の意味での物理的要素が力学的要素に影響しないのかどうかまだわからないからだ。

 力学的法則が本来の意味での物理的法則の翻訳とみなされるには、事実の二つの秩序だけでなく、関係の二つの秩序、物理的事実の連鎖とその力学的条件の連鎖の間の等しさが、存在していなければならない。ところがこの二番目の等しさは不可解であるようにみえる。なぜならば、変数が同質的であるのに、関数たるべき要素は異質的であるからだ。運動は連続的な仕方で変化しやすい。けれども物理的ないしは化学的状態は同じように連続的な仕方で別の状態に変形することはない。電池の両極の電気状態と電池用炭素棒が光っている状態の間を仲介する物理的状態とは一体何なのか?本来の意味での物理的状態は、力学的条件がそうであるように、いくらでも小さく変化できるのだろうか?要するに、平行関係は実際には違反されているようにみえはしまいか? 例えば運動量を少し付け足すと化学的現象が発光する現象に、発光する現象が発熱する現象に変形するとき、或いはある状態の物体が別のものに移るとき、つまりは突如としてまったく新しい現象が生じるとき。

 故に本来の意味での物理的現象の秩序と力学的条件の秩序の間に完璧な等しさは存在しない。そして一方の法則は他方の法則によって事前に判断することはできないのだ。

 こうして導かれるのは、本来の意味での物理的世界の内的必然性を判断するには、それのみで世界を吟味すること、つまり物理的世界の記述的分野を考察するのに物理科学の数学的分野を脇に置いておくということだ。その視点からみれば、もっぱら物理的現象に入り込んだ力学的現象を考察して獲得したものが、正確に類似する結果に到達することができないことは明らかである。しかし数学的な科学はおそらく認識の唯一の原型ではない。この意味で、ではどうやって、物理的世界の法則を知ればいいのだろう?

 逆もそうだが並進運動が分子の運動に変化するとき、現れたり消えたりする熱は、無から生じたり無に帰したりするということは、外見ではそうだとしても、本当ではない。おそらくは(分子の運動に他ならない)力学的な熱、少なくともその瞬間に重ね合わされた物理的な熱の、潜在的な状態があることを認められる。そして熱が感覚できないとき、物理的な熱はその状態に留まっているのだ。要するに、物理的世界は力学的世界のように保存されている。同じ動因が同じ特性を伴って存続する。化学物質の量はほとんど同じであり続ける。ここにあって物理的作用それ自体の保存によって成立する必然性の原理など、物理的世界のなかには、ないのかもしれないと問うことができる。

 おそらく、最初は、その法則を認めてしまうと、物理的世界の中の偶然性への接近は塞がっているようにみえる。その法則はなるほど物理的視点そのものからみれば、前件状態に対する後件状態の等しさが折り込まれている。しかし前件から後件への移行が必然的であろうことは直接的には要求していない。法則が決定してるのは現象の諸モードではなく、強度の方だ。法則は力を測定し、力の使用を割り当てる。ということはその法則がそもそもの偶然的な変形を生じさせている条件を単に報告していると考えることはできないのではないか?

 しかし、状態の変化が物理的に説明されるには、一つかもっと多くかの物理的事情が与えられた条件に付け加わるか、それともその条件のあるものが消失するかせねばならず、このことは物理的作用の一定量の介入や消失を前提にしている。現象にいくらかの強度がなければ、諸モードは抽象化したものでしかない。故にもし物理的作用が絶対的と認められなければならないとしたら偶然性の徴を物理的世界の中に探すことは無為であろう。しかしその法則それ自体は明証的なのだろうか?

 先ず法則は物理的現象の定義それ自体から生じていない。物体のなかに存在する変化の力は明らかにその力の強度を決定していないからだ。

 次に法則はアプリオリに綜合的な原理と関係しえない。もし私たちが純粋理性に還元されたならば、法則は私たちが確実に決して知ることのない観念たる存在の形式に関係しているからだ。

 もし法則が必然的であるなら、それは経験と帰納を用いて設定された、事実上の必然性以外にはない。けれども、この視点からしてもなお、蓋然性は〔必然性ではなく〕偶然性の傍らにある。

 本来の意味での物理的状態が一変した運動であろうことを認めないと、潜在的な状態の理論は、なるほど、是認できるものだ。しかしその理論は前件と後件の物理的作用の等しさを不完全にしか保証していない。実際に、潜在的な状態はそれに対応して顕示する状態と同じ作用量を含んでいることは本当であるとは思われない。真に前提にできるのは、ある物理的特性が潜在的状態に移行すると同時に、別の特性が顕示し、それがまた繰り返されるということくらいだ。つまり連続的な埋め合わせによって宇宙の均衡が維持されるというわけだ。しかし事物の集合に関するこの仮説は経験の領野を超越している。その仮説を使っても、もし事物の集合の量が無限ならば、私たちはそれを知ることさえできない。

 物理的作用の保存の法則は、それ自体、経験的な検証をやりにくい。法則は本来の意味での物理的秩序を測統一性を折り込んでいる。ところが、物理的諸状態の相互的異質性は量で比較しようとすることに障害物を置く。一部の変化は既に不変性の一部に対してその障害物を運んでいる。〔障害物とは質的な変化である。〕何故ならば質的な要素はもう既に甚大な役割を演じているからだ。最も基本的で一般的な物理的化学的法則でも、それが表している事物同士の諸関係が極めて異質であるがために、後件と前件が釣り合っているだろうとは言えず、同じ理由で、結果的には、結果が原因から生じるともいえないのだ。前件と後件に共通した基礎的な要素、必然的な結びつきの条件は、完璧なまでに、私たちから逃げていく。そこで私たちに残されているのは、経験のなかに与えられ、経験と同じく偶然的な結びつきでしかない。

 故に本来の意味での物理的現象の基礎の関係には偶然的な何物かがあることを認めれることになる。力学的世界に固有の法則が絶対的に必然的ではないということが本当であるなら、自らの実現や自らの偶然的変化に条件が生じるという仕方で、物理的な動因は力学的現象の流れに介入するのだ。

 もしそうだとすれば、物理的世界は不変ではない。物理的な作用量は宇宙の内部やその一部では増大したり現象したりする。もしも基本的な宇宙の物質が空間それ自体と同じくほとんど一様であるのが本当なら、実際に、次第に凝集して光や熱に恵まれた天体が形成されるには、数世紀を経て生じるだろう作用量が少しずつ増大していくしかない。そしてその天体の中心部は段々と物理的化学的特性を豊かにしながら、物体の無限の変化を出していった。そうではないだろうか?或いは、もしもある恒星系がその輝きや熱を少しずつ失っていき、不明瞭な粉塵状態へと回帰する解体運動に向かって歩むというのが本当なら、私たちの眼下に生じるようみえるものは、さっきとは逆に物理的作用量が減少している。そうではないだろうか?

 そして、もしそのような革命的変化が宇宙のどこかの一部で実現されても、しかし均衡を回復する正確に逆向きの革命的変化が生じると誰が断言できるのか?〔断言できない。〕

 特殊な法則は必然的であるかのように現れる。何故ならば特殊な法則は一般的法則へと必然的に帰着するからだ。しかし、特殊な法則を横糸にした、もっとも一般的な法則が、ほんのわずかであれ、変化しうるのならば、運命の全ての構築物は崩れ落ちていく。

 集合は細部の総和でしかない。部分のなかに非決定な要素があるのならば、集合の形式は偶然的でしかありえない。しかし、もし一般的な法則の偶然性が巨大な総体や驚くべき時間の周期にとって微弱な変化しか導かないのならば、ある瞬間にだけ物質の数片に対して手を加える経験を重んずる者にその変化という要素が、現れてくることなどあるのだろうか?〔現れないのだ。〕