凡例
1:この翻訳はエミール・ブートルー(Emile Boutroux)による『自然法則の偶然性について』(
[Paris,1898])の部分訳である。原著はINTERNET ARCHIVEで全て閲覧できる。
(http://archive.org/details/delacontingence00bout)2:強調を示すイタリック体は「」に置き換えている。《》はそのまま用いており、〔〕は訳者による補足である。
3:訳出にあったって、野田又夫訳(創元社、1945・11)を適宜参照した。
存在が論理的形式を受け取るのは偶然的な仕方に拠っている。こうして形式それ自体は、その適切な展開のなかでも、偶然性の何がしかの余地を残すことになる。ではそこで必然性につながる権利を有するのは二つの原理だけなのだろうか? 存在と概念が一度置かれると、あらゆる事物を説明するのに、原理から不可避の結論を演繹し続けることしかしないのだろうか?
論理的秩序は単純にその基本的形式の下だけで私たちに与えられているわけではない。それは、数えることや測定することができるようになった事物において、延長になって運動可能な本質において、つまりは「物質matière」と呼ばれているものにおいて私たちに現れてくる。この存在の新しい形式は分析的に先行するもの〔論理的形式〕から派生しているのだろうか?
瞥見しただけでは、物質的形式は論理的決定性が実体の役割を演じることと比べてみれば偶有的なものでしかない、というふうにみえる。延長、持続、運動、これらは与えられたある種の事物を整理する概念や、一般的観念ではないのではないか?というわけだ。しかしそこには混乱がある。もし数学的厳密さの特性が概念であっても、それは概念でしかないということにはならない。本質が思考されたest penséeと言うのと、本質が思考であるest une penséeということは別のことだ。
物質の要素は〔とりわけデカルトに従えば〕延長や運動に帰着する。というのも運動は持続性を折り込み、数を帰結さす多様性を引き起こす。ところが、延長や運動を純粋に論理的な本質に連れ戻すには、延長を概念の共存としてだけ、運動を矛盾ない状態それ自体の継起としてだけ、要するに、様々な概念としてだけ考えることが必要だ。しかし延長と運動の純粋に論理的なこの概念化は正当化されているのだろうか?
概念に固有なもの、その本質と完璧さを構成するものは、正確に限定されてあることであり、つまりは、概念と同じ秩序にある種の概念の間隔によって離れ離れにあること、相対的に類的な概念に全体的に属することである。類的な要素とは同じ類の二つの概念が同一的であるということで、種の差異は同じ性格の有無によって成立する。従って、概念は一方と他方とが相互に連関して外的ないしは内的のどちらかででしか存在しない。同じ秩序に二つの内容〔種〕があるならば相互に外的だ。共通の容器〔類〕が連関するならば内的だ。つまり概念世界とは本質的には非連続的なものだ。
さて、非連続性のカテゴリーは、延長と運動とに適用されると、前者では無限小の点の無限を生み出し、後者では無限短の瞬間の無限に対応した位置の連鎖を生み出す。しかし無限小の点が相接するときは、一なるものしか生じず、間隔によって互いが切り離されているときは、一方と他方とは互いに区別される。その間隔がどれほど小さいものだ仮定としても、他の点を使って完全に埋めることは一切できない。同じく、無限短の瞬間は、互いに混じり合ってしまうか、空隙を埋めることはできずそのままであるかのどちからだ。そこから発して、問われている〔延長や運動が概念的関係に帰すという〕仮説においては、A……Bという有限の同じ大きさの空間は動体Mによって通過されられはしない。というのもAとBの間には点が際限ない数あるからだ。同じく、AからBへ動くと仮定された動体は実際には不動だ。というのも不可分なそれぞれの瞬間において動体も不可分の点であるからだ。加えて概念の法則は諸部分のなかを例外として、全体のなか、つまりは全体的な持続のなかにあろうと望んでいないからだ。
結局、この体系において、延長と運動は諸関係でしかない。感覚に現れるのに先んじてある内的な特性によって事物は完全に定義され只々相互に区別されることになる。しかしこの学説は満足のいくものではない。というのも実際には異なっているある種の事物を同一化して混合することを結論としたがっているからだ。例えば重ね合わすことのできない対称的な図がそうしている。これら図同士の区別は純粋に抽象的なものではない。それは実験科学に適用され、とりわけ、ある種の結晶が提示する化学的特性の差異、これを説明する。
延長は統一性によって整理された多数性ではない。それはほとんど同一化されている、集合に溶けた多数性と統一性だ。その二つは同じ秩序の部分としての一方にとっての他方の外的な部分というわけでなく、高次の秩序の部分をなす内容のような内的な部分というわけでもない。そこには位階制的秩序はなく、互いに内的であると同時に外的でもある、相似した諸部分だ。一言でいえば、延長は連続した事物なのだ。同じく、時間とは連続した持続であり、運動は一つの場所から他の場所への連続した移行だ。連続性のこの観念は、延長、時間、運動の概念から復元してきたものであり、それら概念に純粋に論理的な意味を割り当てたときに誘導してくるところの詭弁を退ける。
それ故に数学的特性は論理的特性の分析的綜合ではないし、論理的特性が法則と存在理由という要素を同時に含む結合ということにもならない。それは新たな、異質的な、非還元的要素を内に秘めている。即ち連続性だ。
しかしながら、それは直接に数学的特性をもって現に存在するものが偶然的であろうという結論にはならない、という人もいるだろう。実際に、数学的特性を、事物の本性の、その筆頭として押し付けられた、アプリオリに受け取れるものとみなすことは、できないのだろうか?共存と継起における連続性の認識、つまりは空間と時間の認識は、合理的直観の性格を提示しないのか?運動について、私たちのもつ運動の観念は精神それ自体によって操作された空間と時間の磨き上げélaborationに拠らないでいられるのか?〔いずれも否といわねばならない。〕
時間と空間を、現象が根絶するときでさえ存続できる、一にして無限な、物自体とみなし、なおかつ運動を、絶対的始点のなかの原初的自然発生性の作用としてみなすならば、なるほどその学説は正統である。というのも実験と抽象化はそのようなことを決して私たちに提供しないからだ。しかし科学はこの方向で与えられた世界を対象とし、空間、時間、運動の考察をするのではない。科学にとって空間は無際限に引き伸ばされていく延長でしかなく、そこには新しい延長以外の別の限界などない。同じく時間は無際限の持続でしかない。運動は所詮他の事物に連関するある事物の位置の変化だ。
もしもこれが前提ならば、実験は空間、時間、運動の科学的概念について満足のいく説明ができる。実際、それが私たちに見せるのは、延長的で運動的になった諸対象の連鎖で、そこで私たちは決して終わりを知らず、自分たちの眼差しが及ばせれる範囲がどれくらいなのかも知ることはない。
延長、持続、運動のなかには、すでに統一があり、いかなる程度でも、統一を折り込んでいる概念は、経験から派生することはない、と言う人もいるのではないか?しかしそこで求められるのはアポステリオリな認識が現にあるということを否定することだ。というのも与えられた事物は与えられてないものに比べ、判明で必然的な全体を形成するということだからだ。しかしながら、もし、経験の分担を正確に線引きしようとすれば、延長、持続、運動の経験的概念から、精神が付け加えるかのような、個々概念相互のつながりを除去するのではないか、そこには何が残るのだろうか?それは精神のみならず、感覚にも想像力にも何物も寄与しない、何だかよくわからないものUn je ne sais quoiである。経験に固有の領域から何らかの度合いであれ統一を折り込んだものすべてを除去し続けると、与えられた要素は、永遠的に想像不能で、定義不能で、理解不能な未知なるものになってしまう。与えられた要素が現にあることを否定することの代償とはこれだ。その時すべては精神に由来することになる。経験はもはや判明な認識のモードでしかない、思考の体系化よりも単に劣った体系化だ。自分自身だけの精神は他の認識の法則をもたなくなる。しかし勝利を収めたと信じられた、〔精神と経験の〕二元論は、精神そのものの只中で、つまり感覚性のアプリオリな直観と悟性のアプリオリな概念の必然的区別という形で、早々に再来してくる。ここでは数学的特性を包んでいる、前者の直観が、後者の概念に帰着されねばならないのか、それとも、悟性がまるで異質な能力であるかのように、感覚性それ自体にその起源をもっているのか、ということが問題になってくる。問題の用語は変化した。けれども、問題は、同じものであり続けたのだ。
加えて、空間と時間の形式が私たちにあたかも無限定に現れてくるが故に、経験からその形式を取り除くことは、経験の範囲を極めて制限することになるだろう。たしかに無媒介的な経験は私たちに無限定的なそれを一切提供しない。しかし経験に認められるあらゆる知的活動力や、悟性へのあらゆる参加が、排除されずにすめば、経験の連鎖は終わりなき継起の観念を私たちによく与えれる。排除してしまえば悟性の働きが対象以前に、本性によって理解不能な働きになるだろう。認識が経験的たろうとするなら、感覚や経験的意識の与件に含まれているだろう物質と形式、つまり対象をもっていれば、それで十分だ。悟性によって感覚の与件から多かれ少なかれ秘められ隠されていた要素を引き出してくるという仕事はその与件をアプリオリな要素に変形させているわけではないのだ。
延長、持続、運動の概念はそれ故、与えられた世界の認識が前提にしているように、形而上学的な原理を要請するものではない。
しかしこう反論する人もいるかもしれない。非決定的な意味でのそれら概念以上に問題であるのは、概念の決定性であるのだ、と。つまり少なくとも概念の決定性はアプリオリにしか認識されず、結果的に必然的である、というわけだ。果たして三角形、円、球、等速運動、並行力など、一般的には、数学的力学的な諸々の定義を精神が構成することはアプリオリなのだろうか?また、正確で、適切なそれら定義は現にあるものから派生しうるのか?定義とは自然に匹敵するモデルであるのだから、もし精神が現にあるものの物質を創造しないのだとすれば、精神はその形式を創造することになるはずだ。そこには現実の直線も、現実の円も、現実の均衡も存在しないはずだ。
なるほど、経験によって数学的決定性の正確さを説明することは、もしその正確さを、完全無欠と保証されて、積極的かつ絶対的な性格としてみなすならば、それは不可能である。しかしそもそもそれは相対的に偶有的な特性を排除することからもたらされる、消極的性格であるようにみえる。直線とは一点から他の点に、他の点にだけ向かう動体の軌道以外の何物でもない。均衡とは一物体を引きつける力の合力が零であるときに見出される物体の状態でしかない。ところで経験はそれ自体が数学的決定性の純粋性をかき乱す色々な偶有事を除去するように私たちを導く。近くで見ると、曲がりくねった樹の幹も遠くで見るにつれて段々真っ直ぐになってみえる。この単純化の仕事を完遂し、あらゆる偶有事、不規則性を思考を使って除去する、つまりは私たちが見えている見えてないに関わらない不規則性を漠然と抽象的な仕方で除去するには、アプリオリな概念を求める必要があるのだろうか?〔ない。〕除去によっては、現実よりも上位の事物の観念を私たちは獲得しない。反対に、獲得するのは、貧困で、やせ細ろえ、骨格の状態に還元された現実だ。が、そもそも幾何学的な図が現実よりも上位のものであろうことはそれほど明白なことだろうか。そしてもし世界が規則正しい完璧な円や多角形から構成されるとして、それで世界は今よりも美しくなるのだろか?
要は数学的要素の形式と物質は経験の与件にもう含まれているのだ。継起、移動、共存において測定可能な連続性はアポステリオリな認識の対象なのだ。
当然、その項をより下位の存在の形式に結ぶつながり、つまり本来の意味での論理的形式であるところの数学的形式の関係は残ったままだ。しかし精神は説明可能なすべての事実が空間と時間のなかで生じて、しかも運動の現存に含まれていると断定するのだろうか?これは疑うべきだ。というのも私たちはまるで空間になく、どんな場所の変化にも左右されないような、心理学的事実の観念をもっているからだ。先の学説は科学的探究に開かれ続けなければならない問いに対し軽率な仕方で予断を下している。実際、運動可能な延長が与えられたものすべての必然的な形式でないだろうことは、まったく考えられないことではない。
分析的であれ綜合的であれ、図と運動が存在の本質的かつ必然的な特性であると、アプリオリに設定することは不可能に見える。しかし実証科学それ自体がそのような学説の証明と発見がその学説に負っていることがもう確証になるのではないか?数学的に測定可能な要素をあらゆる事物に求めながら、あらゆるところに図と運動があるのだと前提にしながら、物理学を一新させたり、とりわけ熱や光の力学的理論を創出することもあるのではないか?科学の進歩は部分的には数学的諸概念の獲得如何で測られるのではないか?
たしかに依然として豊かなその観念には高い蓋然性を割り当てなければならない。しかし他方で、その観念の起源を忘れることはできない。図と運動とを私たちに認識させるのは経験だ。そんな観念が現にあるのかどうか私たちを怪しまさせる数多くの事例あるその様式を発見させるのもまた経験だ。ところが経験はその特性が存在するものすべてに一貫しているだろうことを証明してくれない。よくあるように、私たちは日常的事実よりも予見不能な事実の方に、より思い打たれるから、熱や光といった、事実として現れにくい事物の下で発見した力学的な基体substratumは方々で喜んで認めたがる。しかしながら〔数学的概念たる〕運動に連れ戻すことのできず、動く主体のなかには無いようにさえみえる形式が、驚異的な数、いまだ存在している。例えば種々の知的能力などそうだ。本質的かつ普遍的な特性としての、存在にある動く延長の一貫性は、その観念が科学を満足させる役を演じるにも関わらず、仮説に留まっている。
そもそも、図と運動が存在するものすべてに一致すると設定してみても、存在のその様式を永遠的で絶対的な、つまりは必然的な本質に昇格させることは依然無理なことだ。というのも悟性がある学説を展開しようと試みるとき、悟性は解決不能な困難へと投げ出されているからだ。
悟性は、あるときは、延長と運動とが限界をもち、限られた全体を形成していることを前提にしながら、その限界が隣接する延長や対立する運動なしにいかに存在できるを理解しない。というのも悟性は、遠く離れた延長や運動に対し、隣接する延長や目の前で起こっている運動を支配する法則とは違う法則があるのだと認める理由が分からないからだ。悟性の機能は類に認識できるものを種にも主張することにあるから、運動は運動の後にしか生じず、延長は延長によって限界づけられるほかない、と判断する。その上、仮に、無限の進行を避けるため、進行なり退なりに終わりを認めようとしても、空虚な時間や空間のあらゆる点が悟性の眼には同一的であるので、終わりの位置するところは分からないのだ。
またあるときは、悟性は反対に、延長と運動は限界を欠いていると前提にしながら、そこから延長や運動が決して完璧でなく、決して完成もされず、絶え間なく生じ解体し、存在すると共に存在しないのだ、との結論を出す。しかしそのとき悟性はその把握不能な事物を絶対的とはみなせない。それは常に実現の途上にあり、つまりは決して実現されず、過去に存在するのでも、未来に存在するのでもなく、ただ現勢的な瞬間にだけ、無の二つの深淵に挟まれた無限小の一点にだけ存在することになる。
それ故に延長と運動とは存在にとって偶然的な形式であるのだ。従って延長と運動の諸モードの一切はそれ自体が下位の形式に対して偶然的な新たな要素なのだ。しかしそれらモードが生まれることは物質的な本質それ自体に一貫している法則に規定されはしないのか、そしてその法則は厳正なのではないのか?
数学的決定性の基礎的法則とは延長と運動のあらゆる解体と再構成を通じて測定される性質の不変性だ。具体的にそれは「力の保存」の定式に示されている。この法則は必然的ではないのか?
〔そうはいえない。〕その法則は延長と運動の定義そのものからアプリオリに演繹されるとしか言えない。というのも延長と運動は、前者の大きさや、後者の速度や継続を増やしても、本性を変化さすことはないからだ。
ではその法則は必然的な綜合のような精神によって置かれるのではないのか?
なるほど、もし人が測定可能な性質のなかに〔ライプニッツがデカルトに反して力学の原理とした〕活動力としての形而上学的な本質の象徴しか認めないのならば、問題になっている法則がアポステリオリに認識されないということは明らかだ。しかしこれはそういうたぐいの問いなのではない。数学は観察可能な事物しか考察しない。図と運動は感覚の下に跪いている。測定の概念は図の場所や、方向、そして図と図とを重ね合わす様式、これらからは独立したとみなされている一致の概念に帰着する、つまりは経験によって説明可能な与件に帰着するのだ。力、質量、重さ、これらは、力学的によって、数量的に測定可能になったその感覚的な大きさだ。エネルギー保存の性質の科学的定式は一切の形而上学的性格のもたない諸項で成立する。
実際、最初から人間は数学の第一原理を発見していたわけではない。人間は模索しながら、観察し、実験し、抽象化し、帰納してきたのだ。ガリレオによって発見された運動の独立に関する法則のような、何の疑問もなく今日認められている、ある種の基礎的な原理は、その初めの初めには非合理的に判断する一部の人々も含めた、数多くの反論を呼び起したのだ。
ある人はこう言うかもしれない。数学的法則の感覚を超えた性格は等号=に込められているのではないか?
しかし依然差異を前提としている、その等しさは、絶対的同一性から区別されるかのように、純粋かつ単純な限界とみなされ、その限界というのは、段々小さくなる大きさの差異を提示してくる対象を観察しつつ、同時に不可避的に存続し続ける本性なるその差異を抽象化させて、少しずつ精神が理解していくということだ。けれどもこの操作にはいかなるアプリオリな認識も折り込まれていない。もし精神がそのように創られた本質の直観をもつのだと主張するなら、或いは、数学的形式そのものにある幾何学的な図や力の集まりを、想像力の対象とみなすのなら、経験が私たちにモデルを提供してくれない以上、一種の形而上学的な意味によってアプリオリに認識することになることを認めなければならない。しかし、もしそれら対象は粗悪な形式の下でだけで想像されるのだとしたら。もしその正確な形式の下で想像されたのだとしたら、その対象はただ単純に認識されているだけだ。つまり抽象化によって消化された経験によって対象が派生したのだと認めることを邪魔だてするものは一切なくなってしまう。
最後にこう言う人もいるだろう。力の保存の原理は全宇宙に運動が生じることに関係し、〔例えばデカルトが考えたような〕原初的な衝動の絶対的不可能性を折り込んで、そういう理由で、事物の一部や断面しか認識させない経験を、無限に超越するのではないか?と。
要は、その原理には依然として形而上学的起源が必須だ、と理解しているのだろう。しかし原理が実証科学の中で使用されるという意味においては彼は間違っている。運動のあらゆる特殊法則へ連れ戻そうとする定式というのは力学的要素の有限な体系における力の保存しか折り込んでいない。そしてこのような概念は経験の範囲を超越せず、というよりも、経験それ自体の他には一切別の起源をもちえないのだ。
だから延長と運動を測定可能な量に変形せしめた保存の原理は事物や理性による事物認識に押し付けられはしない。それは経験の要約でしかない。
しかし、同じ理由で、異論のない権威を授かるものなのではないのか?実践的にはアプリオリな原理と同列におかれているものなのではないのか?純粋数学や合理的力学において純粋に分析的な展開の始点を形成するものなのではないのか?
その科学の演繹的な形式の幻影によって欺かれてはならない。科学の結論はその与件と同じく、純粋に抽象的だ。科学の結論は、例えばある運動可動な図が実現されたり、測定可能な量が恒常的であり続けていれば、ここから生じることを決定できるといったことだ。正統性が事実の観察にしか依拠できない原理という名の下にある必然的なもの、悪循環に陥ることなく、事実をそのようにみなすことはできない。数学的原理が価値を負っているところの経験は、自らその範囲を限定している。私たちはその原理を絶対的な真理に昇格させる権利をもたず、あらゆる科学、あらゆる道徳という通路に対して対立するものすべてを盲目的に張り倒しながらその原理を持ち回す権利ももたない。その代数的定式は事物を創造せず、統治することさえない。それは事物の外的な関係の表現でしかない。
しかしながら、この意味にあってさえ、運動が生じるとき偶然性のある度合いが現にあることも本当ではないのではないか?
二つの原理の和解が望まれ、そして一見したところ、事物はそれを可能ならしめるようみえる。力の保存は、実際に、その力の偶然的使用と相容れないものだろうか?もし偶然性が量のなかに存在しないのだとしても、〔デカルトが『哲学原理』で力の大きさと方向を分離させて方向は偶然的に変化すると考えたところの〕方向にも存在しえないものだろうか?
しかしこのような区別は実際の事例においては無益だ。というのも、力学の法則に従う運動の方向が変化するには、構成要素の運動の一つとして新たな運動が介入せねばならない、つまりは力の量を増減しなければならないからだ。
ひとは本来の意味での運動、つまり〔分子運動に対応して全体が直進する〕並進運動と、隠れた運動、つまりは分子運動とを区別しようとする。そして力の保存の法則は実のところ分子の運動量を決定し、それが与えられた並進運動を生じさすことができる。また逆もそうで決定が行われるのは一方から他方への変形だけではない、と述べてくる。ならば少なくともその変形は偶然的でありうると言っていいのではないか?
しかし分子の運動は実は内部運動の総和でしかなく、それは合力が無化されること以外に何ら並進運動と異ならないのだ。このように、分子の運動ができるのは要素の運動の方向に突発した変化によって並進運動に変化することでしかなく、つまりは依然として新しい力の介入によって、運動量の増減によって変えることでしかないのだ。
では収束する諸力が均衡状態を決定する場合に限り偶然的運動の可能性を許せば、例えば天秤が狂う場合のように、〔クルーノーのいう〕無限小量の導入が均衡を破るのに十分だといえるのだろうか?
しかしそんな理想的な均衡は決して実現されないのではないか?さらに、付加される力をきわめて小さいと想定しても、結果を引き起こすためには測定可能な強度をもたねばならないのではないか?
こう言う人もいるだろう。結果を完璧に決定するために必要だろうあらゆる条件は与件のなかには見受けられないがために、複数の解決を無差別に含みこんだ問題の仮説に類似した事例が自然のなかには生じることがある。少なくともそれらの事例では、ある結果の実現は、他の結果よりも、偶然的ではないのか? と。
しかしそれは、ある結果よりむしろ真逆の結果が実現する理由がない場合には一切何も生じないという後続すべき法則を認識し損ねることだろう。
こう引き合いに出す人もいるかもしれない。細部の偶然的な可変性にも関わらず蓋然性の計算le calcul des probabilités〔公算論=確率論〕は集合の相対的不変性を理解させる。つまり、全体に一貫する決定性の発見は絶対的に偶発的なfortuits特殊事例の原初の仮説を引っ掻き回すことはないのではないか? と。
しかし現実において、特殊事例が絶対的に偶発的だろうということは、不正確だ。たとえば、袋に入っている球の数は、決定性の一要素で、恒常的な平均が現にあるということをもたらすのは明らかにその要素が現にあるからだ。けれども特殊事例に現れる非決定性は、自然のなかにある、二種の原因の存在が認められると消え去ってしまう。一つは法則を引き起こしさえもする、収束的で、不変的で、普遍的な原因だ。もう一つは収束を失い一時的に認められる、無意味な原因であり、それはかなりの程度相互に相殺しあい均衡化する。数学者は実はいい加減にこう想定しているのではないか?蓋然性の計算は与件が不完全である諸問題の事例に衝突する。ところで、それは人工的な抽象化ではないのだろうか?〔抽象化であるに決まっている。〕
最後に、与えられた世界を細分化し、そして細分のひとつで適用される力の保存の法則は、必然的かつ絶対的であるものの、少なくとも普遍的ではなく、種々の存在の一部は法則から解放されていると認めることができるだろうか?運動の様々な源泉を、一方は純粋に物質的で、他方は生物的ないしは思考的と区別することができるのか?そして〔運動エネルギーに相当する力としてライプニッツが命名した〕活力の原理の適用を第一のものだけに制限することができるのか?
しかしその区別は、方向を導く思考と知覚した運動の間に、無限の中間的なものがあるのだと考えたり、判明な経験は決して力学的連鎖の始まりに到達しないと考えたりするのなら、不当であるようにみえる。実際、ある事例のなかでは、学説は科学的説明の条件に適うことが問題になる。そして別の事例では、その条件を免れる。力学的動因に対して異質な、その上位の動因を準備するだろう力をどう測定すればいいのか?そもそも、どちら側にも受動的な仕事を含めて尚、神経内に蓄えられた力の量は、純粋な力学的〔機械的〕装置内に蓄えられた同じ力の量以上の仕事を生むのだということをどこで知ればいいのか?
要するに、運動が生じることにおける偶然性のある度合いと、絶対的と認められた力の保存の法則とを一致させることは不可能であるのだ。かくなる偶然性は、その法則が、力学的世界そのものに関しても事物の本性の必然的表現なのではない、としなければ、理解されえない。ところで、そのような学説は本当に経験と真逆のものなのだろうか?
その法則の力によって、集中する諸力とその合力とを結ぶ関係を表現する際に使用される等号=の範囲を誤ってはいけない。第一に、人間は絶対的な等しさを認めることは決してできない。続いて、その等しさがあっても、合力は前件に比べて新しい何物かである。複数の力があったのが、そこではひとつの力でしかない。複数の力がある方向をもっていたのが、もう方向は変化してしまっている。あるものは存在したが、もう存在せず、またあるものは存在していなかったが、いまや存在している。複雑な特殊的変化が基本的な一般的変化に帰着することで、少なくとも上位のその原理との関係で、変形自体でないにしても、まるで必然的に現れるということは本当だ。しかし、どんなに単純で無媒介的であったとしても一般的原理に表明された運動の変化は、消滅と創造を常に折り込んでいる。では運動が自分自身の消滅と新たな運動の出現に十分な理由だろうことは理解できるものだろうか?もう存在しなくなったものといま存在しているもの、存在しているものとまだ存在していないもの、存在と非在の間の必然性のつながりというのは認められるのだろうか?
力の保存の法則が、もし物質の原初的諸モードの全面的統治者とみなされるのならば、法則が説明せず、理解可能にさえなってないある変化を前提にしているといえる。即ち法則は絶対的ではないのだ。法則を適用可能にするために生じなくてはならないその最初の変化に対し法則は支配権をもってない。
しかしこう言う人もいるかもしれない。変化しうる要素とは事物の性質にすぎず、それは事物の実体ではない。実体は図と運動から成り、つまり数学的法則が保存を明確に断言しているその量的要素から成るのだ、と。
事物の実体をなす不変の要素と事物の現象を生成さす質的変化の間の可能な関係を理解しようともせず、この学説はより価値高い自然が私たちに提供するもの一切、つまり質的変化を、単なる外見へと結果的に還元してしまっている。
しかも、あらゆる質的変化を通じて不変性が主張される要素とは結局なにによって構成されているのか?
純粋かつ単純な量か?――しかし量は測定するもの、抽象化、理想的限界でしかなく、現実ではない。
様々な性質の量か?――しかし相互に比較できるのは、唯一の同じ性質に関する測定だけだ。
唯一の同じ性質の量とは、明らかに図形化され運動可能になった延長ではないのか?――しかし、その理屈でいえば、実現せず、求められた決定性と固定性を決して獲得することのない量か、それともその不断の変動を量に押し付ける、量の本質に反する質か、どちらが実体であるのだろうか?量とは別の本性の要素に新たに従属されるものだろうか?そして、その条件では、量がそれ自体で存在した場合と同じように働くのか?図形化され運動可能になった延長と同じくらい基本的な質のなかでさえ、抽象的な数学が前提とする決定性や同一性が見出されるだろうか?そもそも、その質が他の質に内面的に結合されているのは、上位の領域のなかで物理的化学的特性が少しづつ生命に関係するのと同じように、無感覚のグラデーションによって結ばれていなければならないのではないか?例えば、振動運動は、その中間的な度合いの一つを表出しないのだろうか?まさにそこで、次に問われてくるのは、あらゆる現実の運動の間には本性の完璧な同一性があるのか?ということだ。一方の運動は他方の運動よりも振動運動を引き起こしやすく、もしそうならば、構成要素たる諸力の集まりが完璧に同質的な全なるものを形成するとはいえないのではないか?
現実の条件そのものの外へ出るということは、同質的な質に関係して量を考えること、或いはあらゆる質を除外することabstraction faite deにある。存在するもの一切は諸性質をもち、その資格によって、質の本質といっていい非決定性と根本的可変性があずかる。それ故、量の絶対不変の原理は正確には現実の事物に適用されない。現実の事物は尽き果てることのない生命と変化を根底にもっているからだ。抽象的科学としての数学が提示する独特の確実性は、厳格で単調な形をしており、私たちが現実の正確なイメージを見るようにように、数学的抽象化を見ることはできない。
他方、経験が極めて広いからそれが現実の基盤だろうとされても、私たちには完璧に安定的な力学的集合はどこにも示されない。一様にみえる、天体の公転そのものは、しかし絶対的に同一的な周期をもっていない。固定的法則は観察者を前にして譲歩してくる。全てを観察できる、そう仮定してみれば、その法則を達成することはできる。しかし、空間と時間のなかの、全てとは一体何か?最も重要な力学的集合に関する平均内に抗い難く存続している非決定性は、細部の偶然性にその由来を本当にもっているのだ。
では、一般的公転は極めてほとんど感覚することができないくらい極めて鈍いなら、公転を決定する細部の変化はどうあるべきなのか? 要は、実際には全てが動き、生き、自らを展開させていくにも関わらず、瞬間ごとに眺められた自然は、不動であるようにみえるのと一緒だ。もし力学的世界の偶然的進歩が、当然のごとく、連続的推移によって生じるなら、或いは、もし一方が他方を打ち消しあう基本的変化が、その強度というよりかは、その数や、持続や、一致によって作用するならば、人間が事物を分析しながらでしか正確に研究ができない以上、現にあるものを直接的に立証することは誰にもできない。実際にそもそも、純粋に力学的な余波が、次々に甚大な結果を招くという事例にあって、無意味で微小の変化それ自体だけで決定は十分なされる。例えば時々起こる均衡の急変。雪に覆われた山にいる鳥の嘴から植物の種が一粒落ちれば、谷間を埋めるだろう雪崩が起きることもある。
かくして、物質とその諸モードの出現は必然性に対する事物の新たな勝利であるといえる。即ち、物質の上位の価値か基づきながらも、それと同じくらい原因と性質の織物の弾性élasticitéに基づいてもいる勝利だ。それは物質の誕生と展開の新たな形式を許したのだ。