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                                                                                                        渋谷 2013.5.18 撮影:東間 嶺

◆ 5月18日の日曜午前に、当En-Soph(エン-ソフ)の背景やロゴマークなどを描いてもらった小崎さんと、渋谷の文化村で開催されているアントニオ・ロペス・ガルシアの回顧展を観に行った。13時過ぎに会場を出て、少し遅い昼食にしようと駅に向かって歩いていたとき、ふと、あの「子供たち」はいまどうなっているだろうかと思った。いまもこの都市の片隅で、あちらこちらで、発見されないメッセージ/プロパガンダとして存在し続けているのだろうかと思った。

◆ 幸いにも(?)小崎さんはまだ彼/彼女たちに一度も「遭遇」したことがないというので、「第16回渋谷・鹿児島おはら祭」によって全面道路封鎖された文化村通りから地下に降り、センター街へと向かった。

◆ 観光客や歩行者、祭りの見物客でごった返した通りからみずほ銀行とマツモトキヨシのあいだの角を曲がると、彼/彼女たちは、相変わらずそこに佇んでいた。以前とは違う姿で、あるいはずっと無残な状態で。

◆ 彼/彼女たちのことは、去年の秋、「ニュークリア・プロパガンダ」というエントリで詳細に書いた。【281_Anti nuke】という日本のアーティストが福島第一原発の事故後に開始した「Anti nuclear power plant」のプロジェクト、密やかなプロパガンダとして都内に展開しているゲリラ的なグラフィティだ。

◆ 発電も含む核エネルギー利用の消極的容認派であるぼくが、そんな「過激」なプロジェクトに関するエントリを書いているのは、【281_Anti nuke】のアイコンが訴える反核のゼロトレランス…極度の不寛容に彩られた激しいメッセージが渋谷という都市に取り込まれて意味性を喪失し、キッチュな超高度資本主義空間の一部と化しているさまが強く印象に残ったからだ。およそありとあらゆるものの輪郭を曖昧にし、暴力的なまでの強さで平坦の中へと塗り込める「空気」。まさに、ニッポンのスーパーフラット。

◆ 破壊された原子力発電所から250キロの距離で、「汚染」と無縁とは言えない土地を行き交う人々の大半は、しかし日々を慌ただしく過ごす中で、「メッセージ」が懸命に訴えるあれこれの事柄について強く意識したり、考えたりすることは、まず、ない。「メッセージ」を受信することなど、勿論ない。意識している人間は、政治と行政に関与する人間たちか、避難者や生産者や研究者という立場の利害関係者か、あるいは何かしら個人的な理由で強い関心を持つに至った有象無象の属性の市民か、いずれにしても「特別な人」になりつつある。…というか、既になっている。

◆ それが日本のSF的な現在地、「二年後」の空気、ぼくらのリアリティだ。2013年春のニュークリア・ランドスケープ。

◆ その「リアリティ」は、ぼくがはじめて彼/彼女に遭遇し、【281_Anti nuke】のプロジェクトを知ったときより、ずっと加速し、強まっている。以前のエントリで触れた「批評」行為はもはや攻撃の領域になっており、頭の悪そうな上書きに塗りつぶされたレインコートの彼/彼女は、ただの落書き、壁の染みに堕している。両目を瞑り、同時に耳も塞いだまま立ち尽くす彼女のワンピースには、政府、テレビ、巨大企業、オーバー30人間は「DON’T TRUST」だと書かれているが、いかにも安易だとか、「見るのは誰か?」とか以前に、「そもそも『信じるな、オーバー30人間を!』の忠告を発する人間がオーバー30じゃないか問題」というようなことばかり気になってしまう。


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                              渋谷 2013.5.18 撮影:東間 嶺

◆ 立ち尽くす彼/彼女たちの横にある飲料用ゴミ箱にも、以前とは違うグラフィティがあった。既視感のあるピースサインの掌に書かれた訴えと、上から無造作に貼り付けられたSKAM DUSTPOKE DMSのステッカーは、制作者がそれらを敢えて声高に叫ばなければならないと決意した「二年後」の空気を生々しく顕にしている。苛立ち、焦る人々は、圧倒的な忘却と無関心の中で異様なノイズと化し、浮き上がる。

◆ そして、叫びの言葉からは、いまや週毎に参加者が減り続けている官邸前デモの集団が連呼する各種のスローガンと同様、どこか自己暗示的な雰囲気も感じ取れるのだ。

◆ 「忘れるな、戦い続けろ!」と触れ回る他ならぬ自分たち自身の3.11へのリアリティが、そもそも危機に瀕しているということ。無意識の焦りが振る舞いや言葉の攻撃性を増加させ、ますます「空気」から乖離した存在となってゆく悪循環。事故は収束していないし、事故を生んだ根本的な問題も何一つ解決していないが、それを真剣に口にすることの違和感や白々しさは急速に事故以前へと戻りつつある。まずもって、5月のうららかな陽気と、「渋谷・鹿児島おはら祭」の狂騒は、「ニュークリア・プロパガンダ」の暗さから、あまりに遠い。

◆ 「フクシマ論」の開沼博は、2011年9月13日の朝日新聞朝刊に掲載された『フクシマの希望』というインタビューで、「中央の人間が一時の熱狂から醒めて去っていった後、最後まで残るのは汚染された土地と補償問題、そこに生きる人々の『日常』です。その現実を見ることにこそ、宙づりになりつつある『フクシマ』という難問への答えと希望があります」と答えていたが、多数派が生きている、『フクシマという難問』から限りなくズレた「日常」「現実」は、それを困難にさせる。起きているのは、先鋭化か忘却かの極端な核分裂ばかりで、「特別な人」以外、抗うのはひどく難しい。

◆ 『答えと希望』は、今もなお、曖昧模糊として、見えないままなのだ。


【追記】

◆ ここまでエントリを書いたあと、久しぶりに【281_Anti nuke】Facebookページを見てみると、下記のような告知があった。


281_anti nuke
                             ©281_Anti nuke

◆ 六本木の、あの「ロアビル」の、「レストラン、バー、そして、ファンキーなイベントスペース!」であり、「会社の集まり、ウェディングパーティー、誕生日パーティー、イベントにぴったり!」という場所で、果たして【281_Anti nuke】の「ニュークリア・プロパガンダ」がどうやって「消費」されるのだろうか?「原発!原発ね!最悪だよね!ホント政府は許せないよね!セサミ・チキンフライ・グージョン一つ下さい!」みたいな?いやいや、まさか、ね…。