凡例
1:この翻訳はエミール・ブートルー(Emile Boutroux)の『自然法則の偶然性について』(
[Paris,1898])の部分訳である。原著はINTERNET ARCHIVEで全て閲覧できる。
(http://archive.org/details/delacontingence00bout)2:強調を示すイタリック体は「」に置き換えている。《》はそのまま用いており、〔〕は訳者による補足である。
3:訳出にあったって、野田又夫訳(創元社、1945・11)を適宜参照した。
経験のなかに与えられたすべての事物は「存在」に基づき、存在は現存とその法則のなかでは偶然的である。だからすべてが根本的には偶然的なのだ。しかしながら、もし存在する限り存在に一貫する偶然性が世界に存在する唯一のものであっても、必然性の分担は未だ極めて大きい。もし一旦存在が置かれれば、どんな新しい要素の追加もなく、すべてが分析的に生じるからだ。
存在は単なる存在として、即ち原因結果の連鎖としてだけ私たちに与えられているのではない、ということは、そ存在の現れをみれば分かる。その上、存在の諸モードは、「類genre」や「法則」と呼ばれるグループに整理可能な類似と差異を提示してくる。小さなグループを使ってより大きなグループを形成し、以下同様に続いていく。下位のグループに含まれているすべてのモードは、当然のことながら、その下位グループそれ自体の一部をなす上位グループにも含まれている。そんな風に、特殊なものや一般的でないものは、その説明を、その理由を、一般的なものや特殊でないもののなかにもつ。そこで存在の諸モードが体系化され、統一され、思考可能になる。
このような特性は果たして存在としての存在に一貫したものなのか、それとも、存在に対しては、新しい何ものかなのか?
なるほど、論理の組織化は存在の量を増大させはしない。ブロンズ像はそれを作る金属以外の物質を含んでいないのと同じだ。しかしながら、論理的に与えられた存在のなかには純粋で単純な存在のなかにはない性質がある。存在はただ物質的条件だけを提供する。即ち、説明可能性がその性質だ。これは諸個体の離散的な多様性を整理するところの、定型や形式的単位の現存に由来している。性質は「概念notion」の現存に源泉をもつ。ところで、概念は多様ただ中の統一、差異ただ中の類似だ。概念がある程度成立したせいで、因果の結びつきの間に位階制が設定される。一方に相対的一般性が伴うと、それが他方に対して優位になる。そこを通じて、原因結果の世界、組織体と生命に先立つ象徴が生まれる。概念は類として一なるものであると同時に、種の集まりとして多なるものだ。だから本来の意味での存在には概念は含まれていず、与えられた存在である限り、純粋かつ単純な多様性、多数性が存在の本質である。存在の上位なる概念は、存在がとりうるあらゆるモードのなかで、区別の基礎となる多様性のなかにありがならも概念に適当な要素、ある程度までよく似た形式を提供する。存在から流出するのだ。そして、概念は自らの組織した体系の中央に生成しながら、それ自体で自己実現を果す。概念という一なるものは、本質上、その出現を決定する多なる諸形式と混同されないが、多なるものをとりこみ、そこで可視的かつ具体的に生成してゆく。概念が事物の不可欠な一部となっているようにみえるのは、概念が事物と内面的にひとつになっているからだ。しかし、概念が消滅しても事物が存在をやめることはないだろう。概念が消滅すれば、似たものの再統一と似てないものの分離を帰結して観念idéeを表現する事物の、この調和的な相貌physionomieは失われてしまう。もはや絶対的に不毛なカオスにすぎない。だが、分散状態で生命が抜け去った物質がそうであったように、事物は存続するだろう。
しかし、類の現存が必然的とみなされるためには、概念が存在から分析的に派生する必要はない。あらゆる経験の外で、存在は説明可能な、つまりは合理的な形式を獲得し、検討される諸項間の内実の関係を要求するところの思考法則へ順応せねばならない。そう精神が表明するだけで十分だ。一言でいえば、《存在+概念》、という綜合が、因果的綜合としてアプリオリに置かれるだけで、十分だ。しかし、果たしてそうなのか?
この問いの解決は語《概念notion》に割り当てられた意味に依存している。概念のなかに、もし与えられた事物の外に現実的かつはっきりと存在する変わらない原型type、与えられた事物が不完全なコピーでしかないところのモデルをみるなら、概念が経験によって提供された項であることを認めることはできない。同じく、特殊な事物をこのような意味での概念にとり結ぶ分有のつながりはアプリオリにしか肯定されない。しかし、事物の説明可能性が自然研究のなかに折り込まれているというのは、この意味においてだろうか?
超感覚的な形式や観念、与えられた類の原型が、もしそれ自体において認識できるならば、それらが存在するのかどうか知ろうとしたとき、きっと役立つだろう。そればかりではない。完璧なそのモデルを手にした精神は、不完全な模写copiesの認識を軽んじ、その模写そのもの以外の対象をもたない経験を打ち捨てるが、それも理由がないではない。しかし精神は、経験の助けなしに感覚的な事物の形而上学的原型とみなされた概念や観念に内容を与えられるということを、証明できない。ここで、起源的なものは模写によってでしか知ることはできない。精神の役割は、完全さと永遠性の形式に己を適用させながら与えられた事物の抽象的原型を変貌させることにある。このような条件では、形而上学的原型は現象の研究に利用できない。こういうわけで、存在と概念の綜合は、アプリオリな認識ではありうるものの、しかし問われているのはそんな認識ではないのである。
こう言う人もいるかもしれない。なるほど、アプリオリに認識される要素はいかなる程度であれ、概念の内容、概念が含んでいる性格の総和ではないが、しかし複数の性格の間に設定された必然的なつながりのなかで要素は成立し、だから概念という着想le concept de la notionは、事物それ自体によって前提されなくとも、少なくとも事物の認識によっては前提されるのではないか?
概念のこの理解の仕方は、正確にいえば依然として実証科学を司るものではない。それは学者に自惚れや落胆を抱かせやすい。学者は定義définitionsの中に事物が閉じ込められることを確信して、その探求が達したところの定式を、決定的真実や絶対的原理へと昇格させる。体系の起源、美しく頑丈だけれど、徐々に樹液が垂れ落ちるその樹木は死の定めを抱えているのに。もし学者がもっと慎重ならば、原理に昇格させるために、定式が現実に適合するまで待つだろう。彼がそこで目の当たりにするのは、近づくにつれ、その探求の対象が逃げ去っていくということだ。研究調査の方法と道具の完璧さは、それだけでは獲得する結果の純粋に近似的な性格を段々と説いていくだけであり、これが科学的懐疑論の起源、つまり分類と絶対的法則をそこで見つけれないが故に、自然のなかに、もう諸個体と諸事実をしかみようとしなくなる。科学は現象の研究を目的とする。だから、まず現象が生じ科学の観念がそれを物自体choses en soiに変形させるならば、科学は科学自身を裏切っている。
概念は、自然研究での適用において、判明な実体があることから遠ざけられたいくつかの存在に共通する性格の集合でしかない。概念は不変であるが、与えられた事物の集合のなかで相対的に同一的であるにすぎない。概念は完璧ではなく、積極的性格をもたず、相対的に偶有的なaccidentels要素を剥ぎ落とした消極的な性格たるものだ。同様に、概念と存在のつながりは神秘的分有ではなく、まして純粋な思考を感覚へと近づけられるイメージに翻訳することや、現象と本体noumèneの間の象徴的類似でもない。単に部分と全体、内容と容器の関係に過ぎない。〔存在全体が、容器だ。〕そんな風にして、存在と概念の綜合は科学的な受容のなかで、実験と抽象化によって認識されることになる。実験によって、諸々の事物の類似と差異が私たちに示される。抽象化で恒常的かつ本質的な性格だけを把握しようと、可変的で偶有的な性格が少しずつ取り除かれる。分類の観念、即ち全体の観念はこうして形成され、その分類の判明した符号である諸性格をあれやこれや実験が教えてくれる。私たちはその存在を類似へと近づける。つまり、類似を構成している相対的全体に帰してしまうのだ。
だからこそ存在と概念がひとつになること、つまり、類の現存は、単なる綜合というよりアポステリオリな綜合なのである。即ち権利上必然的とはいえないのだ。けれども、事実上では必然的であろうことに異議を申し立てることはできないようにみえる。というのも、すべてのことにはその原因のような理由があるということを、科学の進歩が段々に示してきたからだ。すべてが体系の一部となる、と。細部が集合に論理的に結べないのだとしたら、それは事物の無秩序ではなく私たちの無知を証明する、というわけだ。
けれども、概念の下にある事物のグループ分けは、いつも多かれ少なかれ近似的、人工的であり続けることに注目しよう。一方で、概念の現実的内包は、決して正確に定義されえない。他方、確立した枠組みへ正確には当てはまらない複数の存在にいつも遭遇している。最も一般的で最も基礎的な概念ないしカテゴリーであれ、その表は決定的に作成されず、存在はその最も深い層にあってさえ絶対的不動性へ我慢ならずにいるかのようだ。確かに段々と科学の進歩によって類の内包や外延は明確に定義されるだろう。しかし、その定義が完璧で決定的になると誰が断言できるのだろうか?明確な性格の有無によって、一方と他方とが根本的に切り離される類が自然のなかに一定数あるのだと、誰が断言できるだろうか?例外なしに、複数の存在がその一般的な原型の下で正確に整理されるのだと、一体誰が?概念によって規律づけられた存在の隣りに、その整理作用に多少とも抵抗する存在のある種の量が残っていないと断言することはできない。あるいは、また存在がいつも同じ程度理解できるものだったとしても、複数の存在を類に区分することが、深さ、明確さ、調和を多少とも加減しないとは断言できないはずだ。
存在に重ねられた概念とそのあらゆる決定性は、だから偶然的な仕方に拠っている。翻って、その外部、存在の視点からすれば、概念の諸モードは運命的な仕方で生じるのではない。しかしながら、概念それ自体の発展、即ち一般を特殊に分解することが必然的な法則に従い、かくして外的偶然性は内的必然性に連れ戻されるのではないだろうか?
概念の法則は同一性の原理であり、概念は己に対して同一的であり続け、あるがままに保存され、増減なしにあらゆる論理的機能を通じての充実が求められる。それは、法則は概念それ自体の不変性である、と言えるかもしれない。その法則の力によって、部分的な概念に含まれているものは、当然、全体的な概念に必然的に含まれていることになる。
この定式は、分析的に概念という着想そのものを帰結しない。というのも全体が部分を喪失したり獲得したりできることを受け入れたとしても、それは全体が存在しなくなる、ということではないからだ。典型は変化可能だが、それで典型が存在しなくなるということにはならない。
だから、概念の法則は即ち綜合的な命題だ。では、これはアプリオリに肯定すべきなのだろうか?
この法則の諸項は、様々な仕方で解釈することができる。
解釈の一つに従うなら、自然のなかには諸個体からみれば何も欠けていない、現実的で一般的な原型が一定数存在しており、つまりは偶有accidentsに比べれて実体substanceの役割が存在している、ということになる。概念の同一性はその様々な機能を通じて、実際に、唯一で同一の存在たるものを維持し、それがはっきりした現存というより無意味な現れにすぎないとみなされる、同一種の諸個体を支えている。
別の解釈に従えば、同一性の原理は物自体に関係せず、事物の認識にだけ関係する。これは経験のアプリオリな条件にすぎない。しかし、これが真に意味しているのは思考の欲求による決定づけだ。この意味では、超越的原型がどうだろうと、いつも正確に同一的で不変的な概念は、事物の説明の様々な位相に表れる。これに続いて全体的な概念が部分的な概念の内容全てを正確に含むようになる。加えて、すべての部分的な概念の不変性が、他のすべての概念を含む最高概念の不変性に由来することになる。下位の秩序の類は、すべて正確に少数で上位の類に帰し、すべてが統一されるまでそれは続く。まさにここを通じて、要するに特殊を一般へと統一するつながり、条件づけられたものを条件へと統一するつながり、説明された事物を説明的な理性へと統一するつながりが絶対的に必然的になるのだ。
しかし、どちらの解釈の意味でも、同一性の原理がアプリオリに置かれているのは明らかなことで、それというのも自然は完全に同一的な二つの事物を私たちに提示せず、しかも絶えず私たちは自分自身を還元不能な性格に直面して見出すからだ。しかし、科学によって要請されるのはその絶対的格率ではない。格率を推論の枠組みとして使うなら、詭弁にしかならない。何故なら経験によって提供される具体的な諸項は、同一性と要請に適う容量の条件に決して満足しないからだ。類の本性と類同士の関係に関するとき、そのような格率は科学的探究に正統であることができない視点、観察をゆがめる危険のある視点を押し付ける。実際、もし予め事物の全ての関係が偶有から実体の関係へ、或いは部分から全体の関係へ厳密に帰着せねばならないのだとしたら、そして、アプリオリに偶然性を排除し、必然性へと変装する諸項によって科学的問題が設定されたのなら、それが存在するのだと仮定して、一体、偶然的な要素の世界のなかでどのようにして発見が行われるのだろうか?〔行われるはずがない。〕なるほど、与えられた世界に提起された問いはどれも正統である、けれども、それは問いが隠している公準を最初から議論なしの真理に昇格させないという条件つきでそう、というだけである。それとは反対に必要なのは、その公準それ自体を問い正そうとすること、そして形成された予測に経験が異論をもつときに、最初からやり直してみることreprendre les choses de plus hautだ。
だから、同一性の原理は、実証科学への適用のなかにおいて、実体的な原型の現存を前提としない。現象と、それとは異質な本質はいかにして論理的に結ばれるのか?
複数の種における類的要素の同一性も、あらゆる概念を一つの概念に還元することも、特殊から一般への必然的結びつきも、絶対的な仕方では前提とされない。
なるほど、三段論法においては同一の類的項がある種や、その種に含まれる個体へと適用される。しかし、同一性は言葉の上でだけだ。というのも、二個体にあって厳密に同じものであろう性格を見つけることは不可能だからだ。もし、二個体がある点で同一的であったなら、種の現存を帰結する類比の法則そのものによって、両者はすべてが同じになろう。だが自然はどこまでも同一性ではなく、類似だけを私たちに提供する。そして、三段論法は観察された類似から観察されてない類似へしか結論を与えない。三段論法は唯一、物質を提供できる経験的与件と、両立不能な厳格さを要求することができないでいる。
同じく、実証科学はあらゆる概念を統一へと還元する可能性を全く求めない。実証科学が求めるのはますます一般的になっていく諸概念の相対的位階制だけだ。結局、概念の体系が一つであろうと複数であろうと、その体系があろうとなかろうと、究極的な唯一の土台があろうとなかろうと、類のなかで正確に種が区分されていようと中間的な種があろうと、具体的な推論は不可能というわけではないのだ。
結局、物質におけるのと同じく三段論法の形式においても、絶対的な性格は外見上そうであるにすぎない。全体と部分の間に含まれているものの正確な関係は、正確に閉ざされていないから、それ自体での設定は望めない。たとえば、種《人間》の一部分をなすポールは、当然、種《人間》を含んでいる類《死すべきもの》の一部分をなしていると言うときだ。これが意味しているのは、極めて数多くの側面から、ポールは既に相互比較されて概念《人間》に統一された他の存在に似ており、だとすれば可死性に関してもその存在に似るだろうことが、極めてありえるのは実践的に確実である、といったことだ。けれど、こうした演繹が可能であるためには、自然のなかに類似の束があることが認められればそれで十分で、類似のある集まりが与えられれば、それと同じく別の集まりが与えられるだろうことは、極めてありえることなのだ。これが正に、類比の法則だ。
同一性の原理が、もし科学的利用のなかでこのようなものであるならば、アポステリオリな起源と両立しえない性格など一切提示しないだろう。経験には段々正確に定義される類の概念と、段々一般的になる類似と、段々恒常的になる類似の結びつきを私たちに提供する力がある。
同一性の原理は、経験から生じてきたがために権利上必然的なものとして、そして創造や事物の認識に押し付けられたものとしてみなすことができない。
しかし、それは、科学の形式自体によって、また科学が追求し、実際に絶えず近づいている理念によって押し付けられたものではないのか?あらゆる科学がその権限を受け取るところの、論理学の原理ではないのか?そして、それは実践的には必然的と認められているのではないか?
認識に不可欠であるにもかからわず、論理学が抽象的な科学でしかないことに注意することが大事だ。論理学は、現実的な事物が提示する理解可能性の度合いを決定しない。論理学は、一般的に抽象化によって修正された経験を与えられるもっとも明確な形式にある概念を検討し、悟性へ適した方法に続いていく特性へと演繹する。すなわち、その概念自体を不変性の観念のもとにおくのだ。論理学は、その概念が同一的であり続けることを前提に任意の概念へ適用的であり、一方が他方を伴って関係する法則の体系を展開する。経験がそこに内容を入れるよう求められる枠組みを、それを押し広げまた打ち壊す覚悟で論理学は形成される。もし論理学が実践的に高度な確実性を提示するのなら、経験の無限性の平均的典型であるかのような、極めて単純な概念conceptを展開させる。こうして、言葉の定義はほとんど事物の定義となる。こうして、統計学では観察の基礎がずっと伸張されるに応じて、ますます蓋然性は確実性に近くなる。というのも、一般的事実がそのまったき純粋性のなかで明らかになるには、あれやこれやの特殊性が段々打ち消し合わねばならないからだ。しかし、人間精神の便宜のため、経験によって輪郭づけられた結晶化を人工的に完成させ、自然を押し付けない語り手の厳格さを類の形で与えたそのあとで、もし論理学がその抽象化を絶対的真理や現実を誕生させた現実創造の原理に昇格させようと望んだするならば、論理学は科学の役に立つ代わりに、裏切り行為を働いている。法則はどれも諸事実の激流が通過する川床だ。事実は川床に沿っていくにもかからわず、川床を掘ってもいった。だから実践的に正当化されたとしても、論理定式の命令的性格は見かけ倒しに過ぎない。実際、客観的論理的関係は事物に先行しない。寧ろ、事物から派生する。もし、事物自体がその根本的な類似や差異に関して変化しようとするならば、その関係も変化し得るのだ。
しかし、そのような変化が生じるなどと言うことはできるのだろうか?現象を説明しようとする試みは、事物の本性と呼ばれているもの、言い換えれば不変的な関係や特性に遅かれ早かれ私たちを直面さすのではないか?もし、激流がその川床をそれ自体で掘るのならば、最初にあれこれの方向に流れるのは、激流それ自体であろうか?変化から生じる諸法則の下には、変化を決定づける法則がないのだろうか?その法則はいまだ変化しうるものだろうか?究極的には、《すべては変化する、変化の法則を除いて》ということになるのではないだろうか?
たしかに、事物の本性のこの観念、つまり、宿命と気まぐれな力に勝利せねばならず、科学のたどるべき道に入り、そして進歩せねばならないところのこの観念に対して人間精神は強く執着する。しかし、この観念が自分の当番にあって排他的な仕方で君臨すべきではないし、別の形式になって宿命性の信仰を導くべきではない、のだ。もしそのような視点が宇宙に対して投じられた最初の視線であったら、事物がもっていた実際の不変の特性と事物のあらゆる有為転変の究極的な理が見いだせる、永遠的な本性を信じさせることができた。けれども、徹底的に試験してみれば、事物の不変の基盤のために獲得したものが未だ可動的で表層的な層でしかなかったということが示せるだろう。それは、人間が現実のなかへより進んで入っていくことに応じて、現実を前に、すべてを支えなければならない確固たるその基盤を譲歩することに応じて示すことができる。類と法則の強力な観念によって、人間精神は自然の分類法から人工の分類法への置き換えを望む。しかし、観察の進歩に伴い、自然的だと信じられていたそのような分類法の当番が人工的に現れてくるのだ。ここで問われるのが、系統樹の純粋かつ単純な運命に合理的体系化を換えるべきか否か、ということである。ところが、自然のなかに完璧に恒常的な関係を見つけることができなかったらどうか。本質的な特性や法則がある尺度では、まるで非決定的に現れたらどうか。現象を類と種に区別することの原理そのもの(科学的利用のなかで、これは結局のところ、因果的結びつきの原理に続いて、自然法則の最も一般的かつ抽象的な形式でしかない)が、これもまた、非決定性と偶然性に似るというのが当然ということになるのではないか?
だからアプリオリな思弁と同じく、アポステリオリな根拠づけraisonnementにも、自然の類と種を帰結させる類似と差異の生産に、つまりは概念の現存と法則に根本的な偶然性の観念の余地が残ってしまうのだ。内包と外延が正確に決定し、不変であろう類が存在するなどということは、決して証明されない。達せられるのは、表現される事物のなかで概念がよりよく定義されていくだろうことだ。即ち、主辞が並列した諸概念に似た諸性格を捨て去りながら、決定的な賓辞の下へますます正確に整理されるということだ。まるで創造を通じてなされるかのように、存在から生じた論理的形式は、自分の当番にあって存在を規定し、その奥深くまで入り込める。反対に、外来的な法則の下で概念によって整理された存在は、分散とカオスといわれる原初的な状態に戻ろうと努める。そして、これに続く論理的秩序の持分、事物を種と類に区別することの持分が自然のなかで減少していく、こう理解することができるのだ。
もし因果性の原理が、そのまったき厳格さのなかで認められるのなら、これらの変化は当然、観念的な可能性や幻覚的な現れの状態に留まるだろう。というのも、先件の本性が全体的、必然的に後件の本性を決定し、所与の条件に先んじて存在していない芽生えに等しい調和のためには、どんな場所もないからだ。ところで、原因は、そのものとしては調和や無秩序に無関心なのだ。原因が、それだけで委ねられると、互いに競い合うことだけに尽力し、遇運の結果に同一的な結果を付与してしまう。こうして、もし世界を構成する諸力が取り返しのつかないかたちで力の結果を生み、力の作用の全連鎖内にどんな上位の介入も認めないのだとしたら、無秩序は永遠的になり、取り返しがつかなくなるだろう。しかし、もし原因がある程度は指導を受け入れることがあるのなら、概念の力がいつまでも無益だということには、ならない。諸力の世界のなかで、概念は豊かな収束convergenceを決定する。自らの在処をうまくみつけられないで空虚の中を永遠的に動き回る力を、概念は徐々に事物の生み出すよう導いてやるのだ。