ぼくの朝は祖母の咀嚼音から始まる。

だいたい、7時半。

ぼくの生活リズムでは、朝起きて絵を描いてランニングして朝ごはん、という時間。
その時間が、祖母の朝ごはんと奇しくも重なるのだ。 

祖母のことは、別に嫌いでも好きでもない。
学会員なのでやや池田大作信仰が過剰だが、おおむね善良ではある。
少なくとも人に恨まれ疎まれるような性根の持ち主ではない。 

しかし、問題は咀嚼音である。
言うまでもなく、咀嚼音とは人が食べ物を噛むときの音である。

祖母は幼いころから耳が悪く、そのせいか昔から咀嚼音が強い。
最近はほぼ聴覚を失ってしまい、全聾に近くなり、正確にコミュニケーションをとるには筆談の必要があるくらいだということもあり、さらにその咀嚼音が悪化しているようなのである。祖母の食事中、間断なく響く。

クチャクチャグァポグァポ。

入れ歯がはずれかけて、しかし収まって、また外れかけて、そこへ食べ物がまざって、はさまって、飲み込んで、外れかけて、収まって…。

クチャクチャグァポグァポ

無限に続くかとも思われる咀嚼音。
それは、きっと罪がない。そんなこと、わかっている。
罪ではない。わかり切っている。 

しかしそれを、不快で不愉快で我慢ならないと思う自分を抑えることができない。メシがまずくなるとはこのことだ。その場を早く離れたいばかりに早食いにさえなってしまう。

正直、毎朝のように思う。
可及的速やかに天に召されてほしい、つまり、死ね、と思う。思ってしまう。 

だからぼくは、テレビをつける。

とはいえ、テレビに背を向ける格好で本を読みながら食べているので、テレビが見たいわけではない。ただ、咀嚼音を別の音でごまかそうとしているだけである。 

しかし、緩和は緩和であって、解消ではない。

みのもんた他テレビの中の無数の声を、世界中の雑多な音を、その洪水を、クチャクチャグァポグァポはノアの方舟のごとくゆうに乗り越え凌駕してぼくの耳に届く。
正確に、届く。 

それに加えて、今朝はハウリングもひどいものがあった。
ハウリングとはご存じの通り、マイクとかスピーカーから時として響く、ガーだとかピーだとかキーだとか、とにかくは耳をつんざく不快音である。 

その音源は祖母の補聴器からであった。

幼少のころよりしばしばその音を聞いてきたので、それだということはすぐにわかる。
昔はその音がすると、祖母は、「いけんねえ」などといって補聴器を調整していたものだが、全聾になってしまったせいか直そうともせず、今朝はそれが小一時間、止むことがなかった。 

クチャクチャグァポグァポ、キィーピィーキュイィィーピィー、クチャキィーピィークチャキィーピィーグァポキュイィィーピィグァポ、キィーピィークチャキュイィィーピィー…。 

あまりの不快なシンフォニーに、ぼくは朝ごはんを口に運びながら、思わずひとり笑ってしまった。爽やかな朝という言葉の完全な真逆が、ここにある。それはもう、笑うしかなかった。 

しかし、これが老後というものなのだろうか?
人間、老いれば皆ああなるのだろうか?
それは避けられないのだろうか?
寛容に受け止めるのが、大人というものだろうか?
50年後のぼくは、不快音を撒き散らし背後で孫に死ねと念ぜられている祖母と同化していて大差ないだろうか? 

そういえば、まえに妹が言っていた。妹の彼氏のおばあちゃんは、耳が聞こえるのでちゃんと会話ができるし、話すことも若いし、あんなおばあちゃんだったらよかったのにと。それから、今の彼氏のことを心から良いなと思ったのは、居酒屋かどこかで、妹自身ではどう逆立ちして考えても気づけないような配慮と優しさで老人に接するのを見た時だと。

わたしには絶対にあんなことはできないし、自分には根本的に優しさが欠けているから、この人がいいと思ったのだとも、言っていた。 

その話を聞いたとき、ぼくは妙に納得した。

そう、ぼくと妹の思考はなぜか似ていて、何年か前に妹からメールアドレスを変更しましたと連絡が来て、そのアドレスが「〜pessimist〜」つまり「悲観主義者」となっていた時には、どんな遺伝子の混濁だよと苦笑したほどである。 

そういうわけで、ぼくも思う。

ぼくはどうしようもなく優しくない。だから祖母に死ねとも思うし、その他大勢のたくさんの人に対しても、別にいつこの世から消えてくれたって構わないし悲しまないし困らないと、かなり本気で思ってしまうのだ。

だから、少なくとも自分のような性根の持ち主とだけは結婚したくない。
もっと言えば、「優しさ」について考えるような人とは、結婚したくない。 

「優しさ」について考えるというのは、ある行為が「優しさ」だったのかどうかとか、自分のエゴだったのでは云々とかいうような日常よくある話ではなくて、「果たして人間は優しくあれるのか」とか「優しさはこの世に存在するか」というようなことである。そういうことを考えない人と結婚したい。

だって、「優しさ」そのものについて考えるということは、「優しさ」など無いと否定することがありえるからだ。大前提として「優しさ」は存在するという思考を持つ人と、結婚したい。 

あるとき妹に、尊敬する人は誰かと聞いた。

はじめは、「いない」と答えたが、あえて言えば誰かともういちど聞くと、めんどうくさそうに、「マザーテレサ」と答えた。

適当なようで、しかし、至極まじめな答えなのだと思った。