凡例
1:この翻訳はエミール・ブートルー(Emile Boutroux)の『自然法則の偶然性について』(
[Paris,1898])の部分訳である。原著はINTERNET ARCHIVEで全て閲覧できる。
(http://archive.org/details/delacontingence00bout)2:強調を示すイタリック体は「」に置き換えている。《》はそのまま用いており、〔〕は訳者による補足である。
3:訳出にあったって、野田又夫訳(創元社、1945・11)を適宜参照した。
経験によって与えられた世界は、その発展の様々な位相のなかで必然性の相異なる徴をもたらすのだろうか?
与えられた事物の最低段階にはいまだ非決定的な、純粋で単純な「存在être」あるいは「事実fait」がある。それは必然的に存在するといえるのか?
絶対的必然性が与えられた事物については分からない以上、存在の必然性は存在に先立ち置かれたもの、即ち可能的なものに結びついたつながりのなかでしか考察しえない。
このつながりの本性は一体なんなのか?可能的なものが現にあることとは宿命的帰結のために存在を実現さすということなのか?
まず第一に存在は、三段論法の結論が前提から演繹されるように可能的なものから演繹されるのだろうか?可能的なものは存在を実現さすために要請されたものすべてを含んでいるのだろうか?純粋かつ単純な分析は一方から他方への移行を説明するのに十分であるのか?
なるほど、ある意味では、存在のなかには可能的なもの以上のものはなにもない。というのも、存在するものはすべて存在に先行して可能的であったからだ。可能的なものは存在が生じるところの材料だ。しかし、こうして可能的なものへと連れ戻された存在は純粋に観念的なものであり、現実的な存在を得るには新しい要素を認めねばならない。実際、すべての可能的なものはそれ自体にあって等しく存在を要求し、この意味では可能的なものが他の可能的なものよりも好まれて実現することには、特に理由がない。ひとつの可能的なものと真逆の可能的なものが等しくなければどんな事実も可能的ではない。もし、そこで可能的なものがそれ自体に委ねられたら、すべてが永遠的に存在と非在の間を漂い、可能態puissanceが現実態acteへと移行することは一切なくなる。だから、可能的なものが存在を含むのではなく、可能的なものとそれ以上の何かを含むものこそが存在なのだ。本来の意味での現実態とは、ある可能的なものよりも好まれた真逆の可能的なものの実現である。存在はその二項〔可能態と現実態〕の綜合で、その綜合は還元不能だ。
しかし、それはそれ自体において必然的な綜合であるかもしれない。つまり精神は可能的なものから現実態へ移行せねばならない何ものかは、アプリオリに実現せねばならないと主張するのかもしれない。
ただ、ここで問題となっているのは存在それ自体ではなく、実証科学、即ち経験のなかで与えられた事実とみなされるような存在である、と気づくのは大事だ。だから可能的なものと現実態との綜合は与えられた対象に適用可能であるとするところの意味で獲得されねばらならない。科学の領域の外に出て行く意味作用を割り当てつつ、その原理のアプリオリな起源を設定することは問題になっているものとは別のものを証明することだろう。
だから問題にしている綜合にあっては、可能的なものは、現実態の以前最中以後に、存在して存在し続けるものを指しているのではない。というのもここでいう可能態は実証科学の領域にはないからだ。それは単純に未だ与えられておらずとも、経験のなかで一種与えられやすいあり方だ。同様に、現実態は対象を創造するにも関わらず可能態のなかで実行される変化、発生する原因としての可能態の変形ではない。それは単純に経験の場における事実の、多なるものや多様なものの出現だ。
しかしながら、この意味においてさえ、可能的なものと現実態の概念はアプリオリにしか理解されてないようにみえる、何故ならば可能的なものは経験のなかには与えられておらず、一般的な現実態は与えられたもの全体だからだ。その二つの対象のどちらかに到達できる現実的経験はないのである。
しかし、可能的なものがそのようなものとして与えられないだろうということで、可能的なものの概念が経験的とみなされないと十分にいえるのだろうか?精神は事物の無限の変異と無限の変化を見ながら、様々な個体はもちろんのこと只一人においてさえある感覚の与件の矛盾に注目しながら、現れてくるものを位置づけられた視点に相関して、つまり別の視点に位置づけられると現れるものが異なってしまうように、考えるようになる。観察が繰り返されるのに応じて、可能的なものの観念はますます抽象的になり、ついには、はっきりと想像されたどんな内容も取り去られることになる。
現実態の概念に関しては、もしそれが実際に与えられたもの全体を意味しているのならば、それは経験から派生したとは認められない。しかし、表現《与えられたもの全体》とは、文字通りに受け取るのならば、限られた量を形成する過去、現在、未来の与えられた事物としても、限られていない量を形成する事物としても、理解できないものだ。一般的に現実態や事実は限られていない外延の名辞で、知覚されるかもしれない世界の抽象的な現存である。だからはっきりいえば、現実態の概念は経験が現にあることそのものによって、事物に認められる不断の変化によって説明を可能にするのだ。存在することが別の仕方で続いていく仕方を私たちが見るにつれて、順次現実態の観念が私たちのうちに固定化し、経験的にはっきり与えられたひとつひとつが例示を提供することになる。経験的に与えられたものの無限の多数性や多様性故に、その間の固有の特殊性それぞれの観念が自ら消えていってしまう。
だから、存在を構成するところの諸項、即ち、現実態と可能的なものはアプリオリに位置づけられていると考察されるべきものではない。残るのは項の間で設定された関係だ。しかし、創造的な可能態からそれが創造するところの現実態への移行に関わる本質的に形而上学的なこの関係が問題だとしても、科学的な意味に二項が連れ戻されるとその性格は失われてしまう。こうなってしまえばそれはもはや今の経験の過去の経験に対する抽象的な関係にすぎず、過去の経験からみれば今の経験が単に可能的であるにすぎない。そのときから、一般性の最高点にある継起的な抽象化によって高められた、経験の範囲を超えることはできなくなる。
まだある。存在の要素は一方のもの(可能的なもの)のなかに他のもの(現勢的なものactuel)の原因を見ることを邪魔する非決定性indéterminationで成立している。可能的なものがいつまでも現実態に移行しないとか、現勢的なものが永遠永久に存在するということを仮定しても理性に悖ることはない。だから経験から派生されないのは現実としての存在の認識だけでない。経験は別の起源をもつこともアプリオリな綜合的判断に帰すこともないのだ。
経験に関していえば、事物の多様性が現に存在していたのを見てきたために、可能的なものから現勢へのその移行でさえ事実上の必然性を割り当てようものだがそれも経験にはできない。要するに事物それ自体が可能的で現勢化することができたにもかからわず、今後どこまでも純粋かつ単純な状態に留まって、また新たに実現されるであろうとは私たちにはきっと、できないだろう。
〔また、ある学説でいえば〕結局のところ、あらゆる可能的なものは、永遠に現勢的であり、現在は過去から構成され未来を貯え、将来は偶然的であるどころか、最高の悟性からみればそれはもう既に存在していることを認めねばならない。可能的なものと存在との区別は私たちの視点と事物それ自体の間に時間が干渉することで引き起こる幻覚でしかないのか?
この学説は無根拠で証明不能のみならず、理解不能でさえある。それぞれの事物が現勢的にすべて存在しうるものだということは、つまり私たちがしてきた認識に従えば、一方と他方とを置き換えながらでしか現存しえない真逆のものを、事物において一つにまとめ一致させるということだ。しかしどのようにして相容れない要素で形成されたその本質を理解すればいいのか?さらには、もし要素が全て同一の価値、現存への同一の権利をもつのなら、どのようにしてあらゆる形相が等しく永遠に分有するのだと認めればいいのか?結局、時間のなかで検討してみれば、事物すべては同じ度合いで実現しないのだ。あるものはすべてそれが存在しうるように徐々に生成する。別のものは発展し始めたときに消滅してしまう。この差異は永遠のなかで可能的なものを準備する現勢性より前に先んじて存在しなければならない。だから可能的なものすべてが同じ度合いで現勢的なのではない。言い換えれば、一方のものは相対的に現勢的で、他方のものは、比較的に可能的なのでしかないのだ。
現勢的に与えられた存在は、可能的なものの必然的な続きなのではない。それは、可能的なものの偶然的形式une forme contingenteだ。しかし、もしその現存が必然的でないなら、その本性にも同じことがいえるのではないだろうか? 固有な発展のなかで、存在は不可侵な法則に従順しているのではないか?存在が可能的なものとの関係のなかで免れるところのその必然性は、存在自体のなかにもたらされているのではないのではないか?
経験のなかで与えられた存在の法則は、実際は、同じ意味をもつ複数の定式によって表現される。《原因なしには何も生じない》、或いは《生じるものすべては結果、その原因と釣り合った結果だ》、即ち原因以外にはなにも含んでいない、或いは《何も失われず、何も創造されない》、要するに《存在の量は変わらないでいる》。
この法則を存在それ自体に伴い与えられているとみなすことはできない。というのも一様性と不変性の観念はそのようなものとして与えられた存在とは無縁で、存在は本質的に現象の多数性と変化のなかで成立する。因果性の法則は現象の間にある還元不能な二つの要素、変化と同一性の綜合である。同一性の付加が分析的に続いていくには、二項のもう片方、変化が実現されたと認められるだけでは十分ではない。
しかし、おそらく、この法則は理性の自然発生的な断定として必然的なのだ。〔残念ながら〕おそらくはアプリオリに受け入れられ、そして、その資格により、存在に押し付けられている。
こういってもいい。経験の与件のなかで、《創造力》を意味する、《原因》という用語に対応する対象、そして精神が原因と結果の間に設定する《ものを生むことgénération》のつながりに対応する関係とは、どこで見つかるのか? と。
もし、このように問いが提起されたなら、因果性の原理は確実にアプリオリであるといわねばならない。しかし、与えられた世界認識のなかに折り込まれている意味においてはそうではない。ものを生む原因の観念は、本来の意味での学者が、もっぱら現象の本性と秩序を探究しようとしても、いくらも役に立たない。実際、《原因》という語が科学に関して用いられるとき、それは《無媒介的な条件》を意味している。この意味で、現象の原因は、やはりまた現象、現象でしかないものだ。さもなければ原因の探究はもはや実証科学の領域にはないだろう。現象は、別の現象が実現するのに予め存在しておかねばならなくなるだけだ。
だけれども、原因が最初に現象のなかに含まれた形而上学的実体のように理解されてきたのは実際には誤りである、というひともいるだろう。原因は現象の決定的条件でしかない。原因は存在それ自体と関係しておらず、現象の認識に関係している。そして可能な認識ならしめるのに必要な〔必然な〕ものしか折り込んでない。因果性が現象の間に置かれた関係やつながりでしかないということは正しいが、付け加えねばならないのはそれがアプリオリに置かれた必然性のつながりであるということだ。
こう理解すると、因果性の原理は事物それ自体の仮説を折り込んでいるときよりも科学の条件に近いことは確かだ。しかしながら原理は科学が求めない要素まで含んでいる。即ち必然性の観念を含んでしまっている。原因の探求が正統かつ実り豊かになろうには、現象の間に相対的に不変な結びつきが存在していれば足りるのに。しかも、現象が現象の間で必然的に束縛されるということは本質と真逆のものだ。事物それ自体の作用のモードに従属する、現象の継起のモードは、相対的な性格しかもてない。因果性のなかに現象の間での絶対的必然性のつながりを見ることは、しかし今度は現象自体を事物それ自体に昇格させながら、避けようとしていた誤ちに再び陥っている。
与えられた世界の研究での適用にあって、因果性の原理の〔誤りに陥っている〕正確な意味は、つまりこういうことだ。即ち事物にあって突発するすべての変化は、まるで条件づけられているかのように、別の変化に不変的に結ばれており、しかも別の変化というのは、任意の変化ではなく、条件づけられたもののなかには条件内以上のものが決してないだろうような、決定づけられた変化であるということだ。ところがその原理の要素は経験に全てを負っている。
アプリオリに人間には絶対的な始源や、無から存在へ存在から無への移行、非決定な現象の継起を認めるような準備がある。だが、経験がその予断を消散させた。観察の、比較の、反省と抽象化の進歩、即ち悟性によって解釈されるが、それによってとって代られるのではない経験の進歩こそ、変化が完全に新しい何かではないことを見させた。つまり、すべての変化はそれが発生する環境条件に突発する別の変化との相互作用で、ある変化から別の変化へ結ばれる関係は不変であるということになる。
だから科学を支配する因果性の原理が精神が事物において強いた法則だろうとはいえない。精神が法則を事物に押し付けるところの関係では、与えられた存在、即ち現象は、原理を実現さすことはできまい。そして、他方、現象に適用された定式は経験から派生した要素しか含んでいない。
しかし、それでも、この定式はある変化と他の変化の間での不変的関係の現存を表明し続けるものだ。さて、不変性が、それ自体で内的必然性に等しくなかったとしても、一方では内的必然性を少しも排除しないままに、その外的象徴でさえある。他方では、存在の諸モードの間に事実上の必然性と呼ばれるものを設定する。してみれば現象の必然的結びつきの原理が実践的視点では全幅の信頼に値し、そして、理論的視点でも、その反対の原理よりもずっと本当らしくあると結論されるのだろうか?〔いや、そうではない。〕
もちろん、この原理の観念が科学的認識の神経ではないと、否定することはできない。科学の誕生日は自然の原因や結果、即ち与えられた事物間の不変的な関係の現存を人間が理解したときである。その日にあって、孤立して検討される現象を生む感覚を超えた力la puissance supra-sensibleが如何なるものなのか、何故それが現象を生み出すのか、という問いかけが、説明が必要な現象とはなんであるのかという問いかけに取って代わる。科学が進歩するごとにこの概念化が確認されてきた。そして原因なしに、即ち不変たる先行するものなしに現象が生じるところの現実的世界を想像することは完全な本当らしさからは真逆のものになる。
しかしながら、自然的原因の科学的な観念が漸進的に純化された人間精神に導入されたのは、経験それ自体だということは忘れてはならない。この観念は存在のモードを支配するアプリオリな原理の観念ではなく、そのモード間に存在する関係の抽象的形式だ。私たちは事物の本性が因果性の法則から派生したと言うことはできない。その法則は、私たちにとって与えられた事物の観察可能な本性から派生した関係の、最も一般的表現にすぎない。変化できる事物が、しかし変化していないのだと仮定してみよう。実際には必然性が君臨することないけれど、きっと関係は不変であるだろう。つまり、科学は存在の内奥の本性に予断を下すことなく、純粋に抽象的で外的な形式を対象としているのだ。
しかし、果たして外的なものは、内的なものの忠実な翻訳であるといえるのだろうか?もし作用の顕示がその相互不変の関係によって結ばれているのだと認められるならば、諸作用の存在が偶然的であろうことは認めらられるのだろうか?もしプラトンの洞窟のなかを通り過ぎる影がきちんと観察された後で継起されるのなら、来たるべき影の出現を正確に予見することができるだろうし、見かけ上は影を投影する対象それ自体が変わらない秩序で続いていると予見する。もちろん、顕示と作用の集合が与えられてないことは可能だったろう。しかしその顕示の一つが与えられれば、他の顕示も同時に与えられているはずの、最も単純な仮説とは、諸作用それ自体が類似した仕方で相互に結ばれていることを認めることである。だから、事物の内的必然性を疑ってみる権利をもつためには、現象の流れの絶対的規則性に異議を申し立て、科学の公準と現実の法則の間に、たとえ僅かでも、不一致が現にあることを設定することが、できなければならないだろう。おそらく経験はその手段を私たちに提供しない。しかし経験が反対の命題に有利になるよう述べるなどということを肯定できるだろうか?
実際のところ、あらゆる実験的証明は、できる限り接近されたいくつもの限界の間にある現象の、測定可能な要素の値を閉じ込めることへ帰着する。実際に現象が始まり、終わるところの正確な地点には決して至らない。そもそも、そのような地点が存在することが肯定されず、肯定されるとしたら例外的に分割不能な瞬間のなかの、時間の本性そのものとはきっと真逆の仮説だけだ。だから、私たちは、ほとんど事物それ自体ではなく、事物の容器しか見ない。そして、その容器のなかで事物が適当な場所を占めているかどうかは疑問だ。現象が非決定的、しかも、ただある程度においてのみ非決定的で、私たちの粗野な評価の手段の影響力でもってもどうしても達しえないと仮定してやっても、現象の現れは正確に私たちがみるところと変わらないだろう。だから、ある現象が別のある現象に結ばれてあるように続いていく原理を文字通りに解するなら、事物に対しきっと理解不可能で、純粋に仮説的な決定性déterminationが帰せられることになる。《ある現象》という言葉は、厳密な意味で実験的な概念を表現しておらず、おそらくは実験の条件そのものを嫌悪している。
次に、原因と結果の間の釣り合い、つまり平等、絶対的均衡を認めることは経験に順応するものだろうか?もし事物を有用性、美学的精神的価値、要するに質qualitéの視点で検討するのならば、その釣り合いが恒常的であろうと考えるはずがない。その視点では、反対に、大きな結果が小さな原因から生じうること、そしてその反対のことが、普通に認められる。均衡の法則は、純粋な質やただ一つの同一の質をもつ量の間の関係が問題になるのを除いて、絶対的なものとは見なされない。
質の視点で、前件antécédentに対し厳密に同一的であろう後件conséquentはどこで見つかるのか? もし量においても、質おいても、前件とは異ならないのなら、それは未だに後件、結果、変化でありうるのだろうか?
外見が一様で不明瞭な塊しか示さなかった特性の豊かさ、変異、個体性、生命を、観察の進歩はますます明らかにする。従って、同一の質の純粋で単純な反復、美もなく関心も引かないその事物は、自然のなかにはどこにも存在せず、同質的な量は存在の観念的表面にすぎないのではないか?遠くから眺める星星は、実際には様々な幾千の実体substancesが組み合った世界であるのに、幾何学的な図figureのようにしか現れてこないものだ。また内包量quantité intensiveの変化、つまり同一の質の増大減少についていえば、結局のところ質的変化に連れ戻される。これというのも、ある点まで進むと、それとは反対の質への転化に達し、驚くべき強度的変化に顕示する特性は、そのような変化を、総和であるところの細部の諸変化の内に必然的に先んじて存在していなければならないからだ。
当然、あらゆる質の純粋な量という仮説が残っている。しかし、そのような対象を作り上げるのはどんな観念なのだろうか?量は何物かの大きさや度合いでしかなく、その何物かは明らかに質、物質的ないしは道徳的にあることの様式だ。質は量の実体であっても、量が質の実体であるとみなされることは不可解だ。というのも、質は限定として、交差点としてしか意味を得ていないからだ。あらゆる限定は限定された事物を前提にしている。
もし、存在の最も基本的な形式にまで、何らかの質的要素、現存それ自体の必要不可欠な条件があるのならば、質の視点からしてみれば結果は原因に対しては不釣り合いでありうると分かる。つまり具体的で現実的な世界のなかには、因果性の原理はどこにも厳密に適用されない、ということを認めなければならない。
原因、つまり無媒介的条件は、本当に結果を説明するのに必要なものすべてを実際に含んでいるのだろうか?原因と結果を区別するところ、つまり因果関係に不可欠な条件である新たな要素の出現を、原因は決して含まないだろう。ならばもし、結果が原因に対しあらゆる点で同一的であるなら、結果は原因と共に一つになり、真の結果でなくなってしまう。もし結果が原因と異なるなら、ある点まで別の本性があるからだ。そのときに文字通りの平等性は理解不能なものだとしても、如何に結果と原因の間の釣り合いを設定するのか、如何に質的異質性を測り、同一条件のなかでいつも同じ度合いでそれが生じることを確認するのか?〔設定できず、確認もできないのだ。〕
最後に、細部の変化を恒常的一般的な関係へと連れ戻し、つまるところ特殊な事実の相互的異質性は相対的必然性を排除しないというようなことが私たちにできるとしても、科学の進歩は、特殊の関係が要約されたその一般的関係それ自体もまた、変化させざるをえないのではないか?もっとも本当らしい帰納inductionは、検討された関係が如何に単純でも、観察の基礎が極めて大きくても、絶対的に固定された法則に到達することは不可能だということではないだろうか?そして、もし真の集合にはその細部に偶然性の何らかの萌芽rudimentがあらなければならないのではないか?そもそも無限小のなかに無限大の変化の原因を見抜けないにしても、その無限大それ自体のなかで変化が殆ど知覚できないというのは不思議なことではないか?
変化の現実は、恒常性の現実と同じく、明証的だ。そして、二つの正反対になされた変化が恒常性を引き起こすことを理解することができれば、絶対的恒常性が変化を喚起するのだと理解することはできなくなる。即ち変化とは原理であるのだ。恒常性は結果でしかない。だから事物はそのもっとも無媒介的な関係のなかにまで変化を認めねばならない。
しかし、事物の変異がもたれかかれる固定した点が存在しないならば、事物の本性たる存在の、絶対的保存を主張する因果法則は、経験に与えられたものに正確に適用されなくなる。なるほど、それが表現しているのは、非常に一般的な存在の様式だ。しかし、やはり劣らず現実的かつ第一義的な、真逆のものからは絶対的に独立しているとしてその存在の様式を提示しながら、変化と生命以前に決定性と恒常性を置きつつ、経験がそこに悟性独自の介入を暴く。つまり、悟性はただ現実を観察する代わりに悟性に固有の傾向性に適合した形式を準備するのだ。だから、抽象的かつ絶対的な形にある因果法則は、科学の実践的格率として正当に存在することができ、そこで対象はひとつひとつ無限の緯糸の列に後続することになる。しかし、生命と現実的に存在することを構成する、変化と恒常性との相互浸透、普遍的な織り合わせを思い描こうと努めるとき、因果法則はもはや不完全で相対的な真理でしかない。現実的に存在することの統一〔単位〕のなかで検討される世界は、根本的な非決定性を提示する。それは、事物の流れの極小部分だけ観察してみれば極めて弱々しいものだが、媒介の長い連鎖によって一方と他方とが切り離されている諸事実を比較するとき、しばしば見えやすくなる。人間と人間を誕生させる要素との間、発達した存在と形成途上の存在との間に均衡はなく、純粋で単純な因果関係はないのである。