凡例


1:この翻訳はエミール・ブートルー(Emile Boutroux)による『自然法則の偶然性について』(De la contingence des lois de la nature [Paris,1898]の部分訳である。原著はINTERNET ARCHIVEで全て閲覧できる。
http://archive.org/details/delacontingence00bout

2:強調を示すイタリック体は「」に置き換えている。《》はそのまま用いており、〔〕は訳者による補足である。

3:訳出にあったって、野田又夫訳(創元社、1945・11)を適宜参照した。


 

 

 どのような符号で事物が必然的と認められ、それはどのような必然性の基準なのだろうか?

 もし絶対的必然性の概念を定義しようすれば、一方の事物の現存が、条件であるような他方の事物の現存に従属するあらゆる関係をふるい落とすよう導かれる。従って、絶対的必然性はあらゆる綜合的多様性、事物や法則のあらゆる可能性をふるい落とす。これでは多かれ少なかれ本質的には一方は他方に依存する事物の多様性であるところの、与えられた世界のなかでもし絶対的必然が君臨しているかどうか、探究する理由はない。

 実のところ、焦点となっている問題は次のようなことだ。つまり、どのような符号で相対的必然性、すなわち二つの事物の間の必然的関係の存在が認められるのか?

 必然的連鎖のもっとも完璧な典型は三段論法であり、そこでは特殊命題proposition particulièreが一般命題proposition généraleの帰結として示される。何故ならば特殊命題は一般命題に含まれ、一般命題それ自体が肯定されたときに暗黙に肯定されるからだ。要するに、三段論法は類と種、全体と部分の間に存在している分析的関係の証明でしかない。だから分析的関係があるところには、必然的連鎖がある。しかしこの連鎖は、それ自体、純粋に形式上のものだ。もし一般命題が偶然的であれば、そこから演繹される個別命題は、少なくともそのようなものとしては、等しくそして必然的に偶然的である。それ自体で必然的な前提にあってあらゆる結論につながらなくては、三段論法によって、現実の必然性の証明に到達することはできない。この操作は分析の条件と両立可能なのだろうか?

 分析的視点では、それ自体完全に必然的な唯一の命題は等式A=Aの命題になる。対して賓辞と主辞が異なるあらゆる命題では、たとえ二名辞の一方が他方の分解から生じさせたとしても、分析的関係の写しcontre-partieとして統合的関係を存続させる。三段論法ができるのは統合的に分析的な命題を純粋に分析的な命題に連れ戻すことではないのか?

 三段論法がなされるところの命題と、それが到達しようする命題に現れる差異は、一目で明らかだ。後者では、諸項が等号=によって結び合わされる。前者では、繋辞「であるest」によって結ばれる。この違いは根本的なのだろうか?

 通常の命題で使用されている、繋辞「である」は、おそらく等号=とはまったく関係がない。繋辞が意味しているのは、名辞の(推論の視点にある)外延の視点に置かれつつ、主辞が賓辞の一部、相対的な大きさの示されない一部しか表現しないということだ。命題《すべての人間は死すべきものであるTous hommes sont mortels》は種《人間》が類《死すべきもの》の一部で、死すべきものの数のなかの人間の数の関係は曖昧なままだ。この関係が分かれば、こう言い換えることができる。《すべての人間=1/N死すべきもの》。付け加えれば、科学の進歩は、類に含まれる種をより正確により完璧に決定することで成立し、従って、完遂された科学では、等号=は繋辞「である」に至るところで置き換わるだろう。この科学の定式はA=B+C+D+…、B=a+b+c…、となろう。その価値によって、B、C、D等々に置き換えながら、結局は、A=a+b+c+…となる。ところで、ここでの定式は純粋に分析的だろうか?

 なるほど、Aとその部分との関係は分析的だが、諸部分と全体の相互関係は綜合的だ。というのも多数性は統一〔単位〕unitéの理を含んでいないからだ。だからa+b+c+…と置き換えながらその価値によってA=Aを手に入れると主張しても何の役にも立たない。科学は正にAを分解可能な全体としてみなし、これを諸部分に分割することで成立しているからだ。

 しかし、科学が目指す理想的な分析的形式は別様に理解することができる、といわれるであろう。与えられたSとPという二名辞の間に中間名辞Mが介在することでSとPに外延の差異が生じて結果的に二つの間隔に分割される。同様にSとM、MとPの間に中間名辞が介在していけば、完全に埋めつくされるまで同じことが続いていく。そのときSからPへの移行は無感覚的である。この仕事を続けながら、最高の本質Aへの合流が行われ、すべてが連続性のつながりによって結ばれるだろう。

 実際、この視点はあらゆる命題を定式AはA「である」に還元することréductionから成立している。しかし、今度は、繋辞「ある」は等号=によって置き換えられない。というのも中間名辞を任意の数で介在させても特殊と一般の間で存在している間隔を全体的に埋めつくすことはできないからだ。突拍子がなくなっていくとしても、推移は、そこでは相変わらず非連続的だ。そしてだからこそ主辞と賓辞の間の外延の差異がどこまでもある。

 つまりは定式A=Aへ特殊的関係を連れ戻すこと、即ち分析を用いて、根本的必然性の証明に至ることは、不可能であるのだ。分析、三段論法は、派生的な必然性をしか証明せず、つまりは「もし」あることが真と認められても、別のことが偽だろうとはいえないとしか証明していない。

 分析自体で自足すると主張する限りでの、分析の不備は、最終的な説明として、同一的identique命題でしか成立しないこと、そして説明を要する命題をそのような定式に連れ戻せないということにある。同一的な命題、異質な要素の組み立てが、出発点として提供されたのでないならば分析は豊かにならない。必然的綜合を展開さすのでないならば分析は必然性を証明しない。果たしてそのような綜合は存在するのだろうか?

 経験は、空間と時間のなかでいかなる普遍的な認識も提供せず、事物の外的関係だけを認識させる、恒常的な結びつきを私たちに明かすが、それは必然的な結びつきではない。何よりもまず、綜合はそれが必然的たりうるにはアプリオリに知られていなければならない。なるほど、そのような綜合が、私たちの精神にとって必然的であるように、事物の視点でも必然的であるかどうかは、まだ分からないだろう。しかし最初は私たちの精神にとってそうあるだけで十分で、事物の客観的実在の論議が生じるには、精神の法則の次でしかないだろう。もしたまたまpar hasard事物の流れが精神によってアプリオリに設定された原理に正確に順応しなければ、精神が誤っているのではなく、物質が秩序への反乱の残滓によって非存在への参加を漏らしているのだと結論すべきだ。

 アプリオリである判断はどのような符号で識別できるのか?

 判断がアプリオリだといわれるためには、その要素、名辞と関係が、経験から派生して取り出されてはならない。名辞が経験から派生しないよう考察されうるには、抽象的であるだけでは十分ではない。経験は、結局、抽象的側面と同時に具体的側面をもたない与件など私たちに一切提供しないのだ。私は直観だけにある同じ対象の色や匂いを捉えているのではない。もっとも大胆な抽象化でも、感覚によって下書きされた細分化を、悟性が働きかけて拡張したものでしかない。それ以上に、経験それ自体は、事物について、経過や、持続や強度に従い、多かれ少なかれ抽象的な与件を提供しながら、私たちをその拡張の道に立たす。名辞がアプリオリに設定されたように考察されうるには、直接に、直観によってでも、間接に、抽象化によってでも、経験に由来してはいけない。

 同じく、関係がアプリオリに設定されたように考察されうるには、体系systèmeに似たものを経験が全く提供しないから、直観の間で、何らかの体系化が、確立するだけでは十分ではない。統一性をもっていない絶対的な直観を前提とすることは現実の条件の外に出ることなのだ。もっとも直接的な知覚でも相似た部分の集まりと相異なった対象の区別を折り込んでいる。純粋で単純な多数性は、絶対的に不可解な事物であり、もしそれが何物も思考に獲させないならば、経験のなかではより一層与えれらることはない。要するに、知覚した対象そのものには、既に、体系化のある度合いがあるのだ。だから、二名辞間に確立した従属関係が経験から派生すると主張する以前に、その関係が根本的に私たちに確認可能なもの関係と異なるのであるかどうか確かめなければならない。その関係は根本的に経験が私たちに提示してくる関係や与件で読みうる関係と異なってこなければならない。

 そもそも経験の場は明確に定められる。観察可能な事実とその関係のことだ。事実は外的事実と内的事実ないしは事実の主体である存在そのものに固有な事実とに区別される。感覚によって、私たちは前者を知ることができる。経験的な意識や心に関わる感覚によって、私たち自身において後者に到達することができる。観察可能な関係は類似の関係と同時的ないし継起的隣接性の関係から成立する。

 もしアプリオリに設定されるのなら、綜合的判断は主観的には必然だ。しかし、事物の視点でも、その判断が、必然性の記号であろうには、その上に更に、比較する諸項間の必然的な関係を、肯定せねばならない。大前提が偶然的関係を言表するならその性格があらゆる帰結に伝わる。さて二項の間に存在しうる客観的対象は四つに帰着する。原因から結果への関係、手段から目的への関係、実体から属性への関係、全体から部分への関係。実体から属性への関係と全体から部分への関係は換位的な因果性causalitéと合目的性finalitéへと連れ戻される。結局、そこには、因果性と合目的性しか残らない。

 ところでどんな目的であれ必然的に実現せねばならないと言うことはできない。というのもいかなる出来事も、ただそれのみでは、完全に可能的なもの、ではないからだ。反対に、考察される出来事とは別に可能的なものの無限infinitéが、ある。この出来事実現のチャンスは他の事物の実現のチャンスに関していえば無限のうちの一なるもののようにある。だから与えられた何らかの目的の実現は、現象の継起の一様性であれ、それ自体にあって、あまりにも無限に蓋然的で、必然的であることから程遠い。さらには、仮に実現される以前に目的が設定されたとしても、その視界で用いる手段は同時に決定づけられていない。あらゆる目標がそれぞれ様々な道によって到達されうるのと同様に、あらゆる目的もそれぞれ様々な手段によって実現される。当然手段それぞれがすべてそれ自体で単純で適当なのではない。しかし、その差異にあっても目的は、目的そのものとしては、関係しない。そして、それが考慮されるならば、手段それ自体が二次的な目的に昇格する。様々な手段による目的の実現は認識すること、好みを選ぶことや完遂することができる動作主agentを前提としている。つまり目的の実現はそれ自体で必然的ではないのだ。

 原因による結果の生産は、原因という語を生産力という厳格な意味にとれば、目的の実現と同じではない。結果を引き起こさないならば本来の意味で原因は原因ではない。しかも、原因はその本性の力vertuにあってのみ働き、結果の美的ないし道徳的価値には一切関わらない。原因から結果の純粋かつ単純な関係のなかにある度合いの偶然性を認めるべき理由は存在してないのだ。この関係は第一義的必然性の、完璧であるが、唯一の典型である。

 客観的および主観的な必然性に属するのはアプリオリな因果的綜合だけだ。それだけが完全に必然的な分析的帰結を引き起こす。

 要するに、関係の必然性の基準はその関係を主観的客観的に必然的な綜合に分析的に連れ戻す可能性にある。事物の必然的結びつきの原理、いわばあらゆるリングに力を伝える磁石でありうるのは、アプリオリな因果的綜合だけだ。

 しかしもし与えられた事物の認識の構成的ないし統制的なconstitutifs ou régulateurs原理としてそのような綜合の正統性を設定することが不可能であるということがあるならば、どんな必然性も幻覚に成るのではないか?

 そのような場合では、確かに、与えられた世界を支配しているものとしての、根本的な必然性を問うことはもはやできなくなるであろう、というのも、仮に経験に含まれたある綜合がそれ自体必然的で、この場合では、精神は、それを確かめる状態の外にある。ただし経験と分析の組み合わせは未だある種の必然性を、それだけを、表明する。実を言えば、その二つが一般に実証科学を追いかけるのだ。実際、経験的に与えられた特殊の綜合はより一般的な綜合、更に一般的な綜合へと導かれ、それは実践的に還元不能な多かれ少なかれ限定された数の綜合に達するまでそれは以下同じく続いていく、ということが認められる。理想はすべてを唯一の綜合に導き、最高位の法則が、あらゆる宇宙の法則を、特殊ケースとして、含んでいるようになることだ。なるほど、結局のところ経験に基礎づけられた、この一般的定式は、存在しないことがありえないものではなく、存在するところのものを認識させる性格を、唯一の綜合に保存する。定式がそれ自体で必然的であることを証明することは全くできない。しかし定式はあらゆる特殊の事実の間に、その資格において、必然的な関係を確立する。細部の極小の変化は宇宙の大混乱bouleversementを折り込んでいる。権利上の必然性の傍らには事実上の必然性の可能性を認めることができる。権利上の必然性とは精神によってアプリオリに置かれた分析を綜合が発展させ結果と原因を併せ持つときに存在するものだ。〔事実上の必然性とは〕その綜合が、アプリオリに知られることなく、知っている事実の集合ensembleの中に織り込まれており、そして絶えず経験によって承認されているとき、綜合は、全ての必然性を除いた、少なくとも部分それぞれの必然性を、他の部分が実現されているだろうことが前提の上で、表明している。