「最近調子どうですか」
中村さんが訊いてくる。
「いやぁ、何と言えば良いかな。ずっと足踏み状態というか。憂鬱感や死にたい気持ちは無くなってきたんですけど、とにかく気力が無いというか、意欲がぜんぜん出ないんですよ。何もせず、ずっとずっと布団に潜ったまま死んだように眠り続けたい感じですね…。というかそれに似たような状態ですよ、正直な話」
「そりゃ、大変そうですね」
「大変です。でも、もうこういう足踏み状態は去年の秋ぐらいからずっとですから…」
「そうですか。実家に戻ってからはどのくらい経ちますか?」
「5ヵ月が過ぎました」
「5ヵ月ですか。けっこう経ちますね」
「そうですね。実家に帰って、最初はわりとやる気があったんですよ。毎日散歩したり…」
「最近はどうなんですか?」
「まず、やる気がなくて、起きることじたいが億劫で、朝は10時くらいに起きます。それから朝ごはんを食べて、ぼんやりしていると2時とか3時です。そこで、遅い昼ごはん。昼ごはんのあと少し休憩して、何となく近所のプールに行って一時間ほど泳ぎます。プールから帰ってくると、母が夕飯を作って待っている。両親といっしょに夕ごはんを食べて、すこし読書して、11時くらいには寝ようと思うんですけど、ついついケータイでTwitterやFacebookを見てしまって、深夜まで起きていたりします。寝るのは早い時は10時、11時ですけど、だいたい零時過ぎくらいですね」
「そうですか。端から見てるとただのだらしない人にも見えますね」
「そうなんですよね。当人はとにかくやる気が出なくて辛いんですよ。辛い。でも端から見てると、怠け者にしか見えないと思います。夕方から夜にかけてはわりと元気なんですけどね…」
「うつ病の人は朝が起きられないって言いますものね…」
「もう、正直手詰まりです。妻には健康になるまで実家で過ごすよう言われてるんですけど…」
「なかなか厳しいですね、奥さんは」
「ぼくが一年以上、ベッドの上で寝たり起きたりをくりかえしていたのを見てますからね。精神的な負担も相当大きかったと思います」
「なるほど…。それは、辛いですね」
「一時は離婚寸前まで行きました。ぼくといっしょに暮らすのには耐えられないって言われて…あれは堪えたなあ。病人でもね、プライドってあるんですよね」
「そりゃそうでしょう?」
「いやぁ、仕事も退職して社会的な役割も失い、それに伴って誇りも何もかも無くなっていたと思ったんですが、そうじゃないんですね」
「というと?」
「やっぱり妻を失うのは惜しいんですよ。嫌なんです」
「そりゃそうでしょう。普通のことじゃないですか?奥さんのこと嫌いな訳じゃないんだし…」
「そうですね。そうかもしれません。でもその時は、妻に離婚を切り出されたときは、これで何もかも失うんだと思って、自殺しようとしました」
「えっ?」
「自殺ですよ。走ってくる電車に飛び込もうと思って、実家の近所の踏切まで行ったんですけど、果たせず。それでいまこうしてここで管を巻いているという訳です」
中村さんとわたしは、いつの間にか、新所沢駅前にある高山商店という立ち飲み屋に入っていた。中村さんは生ビールを傾けながら、わたしの話をきちんと聞いてくれた。わたしは手早く酔っぱらおうと、ホッピーで焼酎を濃い目に割ってどんどん飲んでいた。
「でも最近は、小説書いたりして、けっこう元気そうじゃないですか。よくぼくが出てきたりして、出演料がほしいな、なんて思ったりするんですけど。いや、冗談ですけど」
中村さんは半笑いの顔でことばを濁した。
「あぁ、あれは小説と言えるのかなぁ。とにかく虚しくてどうしようもない自分を何とかごまかしたくて、小説みたいなものを書いていますけどね…。まともな創作といえるのかどうか…」
「動機は何であれ、文章を書いて、構成を考えたり字句の良し悪しを思案しているのだから、立派な創作活動だと思いますよ」
「うーん、そうかなぁ。これを小説だと思わない人もいると思うんです」
「実録小説?」
「うーん、まぁ、なんというか私小説の系譜には連なるんでしょうかね」
わたしはうつ病の割に良く喋る。
こんなに良く喋るのにうつ病だなんて何かの間違いではないか、と思ったりした。
「まぁ、さえきさんは文章上手いじゃないですか」
「そうですかね。中村さんのアラサー入門だってなかなかのものだと思いますよ。小学生の頃に作文を誉められてからずっと文章が上手いと思い込んでいますが、いまや無職の32歳、うつ病ですよ」
「まぁ、そう自分を卑下しても何も変わらないですよ。自分ができることから少しずつやってみたらいいんじゃないですか」
「お優しいことばをありがとうございます。でも何もやりたくないし、できる気もしないんです。ただ、ムダに生きてるだけなんですよ。もう、生きてる意味も無いと思うんですが、死ねないですね。自殺は怖い!」
「死ねないなら、なんとか生きていくしかないし、どうせ生きるのだったら、少しでも楽しいほうが良いですよね」。
「まぁ、一般的にはそう考えますよね。でも、なかなかそう上手くいかない。死にたい気持ちの支配からはなんとか離脱できましたよ。それでも一年半近くを費やしました。決して短い時間ではありませんでした。次は生きる気力が必要なんです。人生をどんなかたちであれ前に進めていく、ドライブしていく推進力というかね…」
「そのうち、やる気が出てくるんじゃないですか、そのうち。焦っても仕方がないことかもしれませんよ」
「確かに…。そうかもしれません。でも、このままじゃ社会復帰がどんどん遠のいていくんですよ。今年中になんとか再就職できたらいいなって考えていたけれど、いまの具合じゃ、とてもじゃないけど無理ですね」
「朝起きたり、家族との約束もうまく守れないって言ってましたもんね」
「そうですよ。一番身近な人からの信用すら得られないでいて、社会復帰だなんてとても無理です」
「自分の中に、社会に戻りたくないという気分があったりはしないんですか」
「そりゃ、またあの戦線に復帰して、くだらない仕事に従事して、魂を磨り減らしていくのは楽しいことじゃありません。中村さんだって仕事で嫌なこと、沢山あるでしょう?」
「えぇ、まぁ、良いことばかりじゃありませんよね。嫌なこと、辛いこともそりゃありますよ。でも帰りに一杯やれれば良いかなって。人生にとくべつ期待してないんですよ」
「そうは言ったって、中村さん、奧さんいるでしょう?結婚してるじゃないですか」
「結婚はしてますけど、人生に凄くラッキーなことが起きるとも、凄くアンラッキーなことが起きるとも思っていないというか」
「そうですか。中村さんは精神にも異常は無いし、夫婦仲も良さそうですね。立派ですよ。そしてうらやましい」
「そうですか?」
「そうですよ。ぼくなんてうつ病で、妻とは別居しています。いつ離婚話を蒸し返されたって、この調子じゃ仕方がないかもしれません。だってまともな日常生活が送れていないですからね」
「うーん、なんていうか…言葉に困るんですけど…」
「そうですよね。すみませんね、こんな話。面白くないですよね。とにかくやる気が出なくて、何もする気が起きない、ぐずぐずしているだけの男です。そのうち妻にも捨てられて、何もかも失うんですよ。あぁ、死にたくなってきました。死にたい気持ちは辛いです。んー、でも、いまはこの気持ちがリアルだなぁ、とことんリアルなんだよなぁ」
わたしはひとりごちるように言った。
中村さんは黙って空いたグラスを指差して、ビールのおかわりを注文する。
「実は、新所沢から引っ越すことになりました。今月の末なんですけど…」
中村さんはちょっと歯にものが挟まったような言い方をした。
「父がシニアボランティアでヨルダンに行くことになって…実家が空くんですよ、習志野っていうか、津田沼の実家が」
「そ、そうなんですか?」
「そうなんですよね。で、最低2年くらいはたぶん津田沼で過ごすことになりそうなんです」
「じゃあ、もういっしょに、ジャズバーに行けませんね…。残念です」
「うん、まぁ、でも基本的には毎日新宿で働いてますから、新宿でまた会えますよ。ジャズバーだって新所沢以外にもたくさんありますよ」
「うーん、そうですか。うーん、そうですね。でも、この新所沢ののんびりした感じでジャズバーに行くのが、良かったですよね。惜しいなぁ、いや惜しいなぁ。さびしいなぁ。さびしくなりますね。うん、さびしくなりますよ。ほんと、さびしく…」
急なにわか雨のように、わたしの目から涙がポタポタと垂れて、ホッピーのグラスを持つ手が濡れた。中村さんは唖然として、わたしを見たあと、何事も無かったかのように視線を手元のビールに移した。ふたりの間に妙な沈黙がおとずれた。
わたしはまさか泣くとは思っていなかったし、中村さんもそう思っていなかっただろう。しかしわたしは泣いた。中村さんはマルボロメンソールライトを箱から一本取り出すと、カチリと音をたててライターで火を点けた。ぱっと白いけむりが立ち上ぼり、やがてすぐに見えなくなった。
「まぁ、また飲みましょうよ、どこかで」
わたしは涙をこらえきれず、半ば号泣する声を圧し殺しながら、二度三度とぶんぶん首を振り回すようにうなずいた。
(おわり)