凡例


1:この翻訳はエミール・ブートルー(Emile Boutroux)の『自然法則の偶然性について』(De la contingence des lois de la nature [Paris,1898]の部分訳である。原著はINTERNET ARCHIVEで全て閲覧できる。
http://archive.org/details/delacontingence00bout

2:強調を示すイタリック体は「」に置き換えている。《》はそのまま用いており、〔〕は訳者による補足である。

3:訳出にあったって、野田又夫訳(創元社、1945・11)を適宜参照した。


 


 
 人間は、初め、すべてが快楽や苦痛といった感覚作用だけで、外の世界を考慮にいれない。そこでは現に存在するものexistenceさえ知らないでいる。しかし、時と共に、その感覚作用そのもののなかで、二つの要素を、区別していく。一方のものは、相対的に単純で一様な、自分自身の感情sentimentであり、他方のものは、より複雑で変化に富む、外の対象の表象である。その時から自己の外に出る欲求、彼の周囲の事物を対象自体として考察する欲求、「認識することconnaitre」の欲求が人間に目覚めてくる。といっても対象が自分に現れてくるようにではなく、現実にあるように事物を見るため、置かれねばならない視点がどんなものであるのかは問われない。驚くべきパースペクティブと無限の地平を発見するのは、ただその目を、開いたままにある、視点そのものだ。そこを彼は観察の場所のように設定し、その視点が認めるままに世界を認識しようとする。これが科学の最初の位相で、それは精神が普遍的な認識を構成する注意の「感覚sens」に基づいている。そして実際に諸感覚は世界の最初の概念化を精神に与える。そうして与えられたものに従えば、世界とは無限の変化の諸事実の集合である。人間はこれら事実を観察し、分析し、高まっていく精密さで記述することができる。科学とはその記述そのものだ。問われるべきは、事実の間の固定した秩序ではない。そのようなものを諸感覚は見させない。宇宙を司るのは、遇運hasard、或いは運命destin、或いは気まぐれな意志の集合だ。

 ある時まで、人間はこの概念化で満足している。既に極めて豊かではないのか? しかしながら、事実を観察しながら、精神はその間の恒常的な結びつきliaisonsに注目する。精神は、自然が孤立した事物ではなく、一方から他方へと呼びかける現象でできているのを知る。そして感覚の視点での、現象の隣接性contiguitéは実際の相関関係の確実な指標ではないことを認める。感覚が人間に現れる秩序ではなく、一方が他方に実際に依存する秩序の中で、現象が整理できるようになることを欲するようになる。しかしながら純粋に記述的な科学は、事物の関係を歪めさせる以上、不十分、不正確にさえ彼には現れる。彼は説明用の認識を結び合わせたいと欲する。この認識、つまり感覚はそれを得ることはできない。というのも、それを獲得するには、観察された結びつきliaisonsを書き留め、恒常的かつ一般的な結びつきを見抜く仕方で、結びつきの間の感覚を比較せねばならないからだ。そうして、一度形成された感覚の枠組みが、説明用の特別な結びつきへと導かれなければならない。感覚は事物自体によって直接与えられた結びつきに到達することしかできない。しかし悟性entendementが介入し、事物を正に一般的たるものにおいて認める、より高次の視点を精神に提供するのだ。こうして精神は感覚の与件を解釈し、分類し、説明することを悟性に負わせる。

 感覚の上位に位置づけられる悟性は、最初から感覚を必要とせず、自分だけで、世界についての科学を構築できると主張する。諸観念自体によって明証的であるかのように現れるものを出発点にとれば、そして固有の法則の後でその観念が発達していけば、それで十分である、といわんばかりに。まったく感覚を借り受けない悟性のその構築実行はどの程度まで成功するのか? それを言うことは難しい。悟性が到達する科学はすべての部分が、完全にひとつである、そんな風に、本当に、部分同士が厳密に結びついている。しかし、他方でそれは、現実の事物との不一致divergenceを、演繹déductionの進歩そのものによって次第に明らかになる不一致を提示する。そうして観念の秩序は現象の秩序を説明する時にしか価値をもてなくなる。

 科学のみで科学を構成することの不可能性の前で、悟性は感覚との分担に同意する。世界を認識するのに共同で働くのだ。一方のものは事実を観察し、他方のものはそれを法則に昇格させる。この方法を続けながら、精神は以前よりも広い世界の概念化を目指す。世界とは事実の無限の変異であり、その事実の間には必然的で不変のつながりliensが存在している。変異と統一、偶然性と必然性、変化と不変、これらは事物の二つの極である。法則は現象の理由を回復させる。現象が法則を実現させるのだ。世界のこの概念化は綜合的であると同時に調和的で、それというのは概念化は全面的に反対のものを許し、にも関わらずその間で反対なものを和解させるからだ。その上、概念化は経験がそう示すのと同じく、現象をますます的確に説明することを予見させる。その優位に打たれ、精神は概念化でますます悦に入りすべてをそこで判断する。

 けれども、この概念化それ自体は決定的なものだろうか? 感覚の与件を操り悟性を創出することのできる科学は認識すべき対象と完璧に一致する可能性があるのだろうか?

 第一に悟性が提案する、多数のものから一つのものへ、変化するものから変化しないものへのこの絶対的縮減とは、結局のところ、矛盾したものの混合ではないのか? そして、絶対的なものが理解可能なものであるとして、この混合はどうして正当なのか? 続いて、精神が真に中心的な視点に置かれるためには、悟性が感覚と分担すればそれで十分なのだろうか? 実のところ、この譲歩は自然法則の探究にしか関わらない。世界の概念化そのものに於ける変化を折り込んでいない。悟性が自らの必然的結びつきのカテゴリーを科学に押しつける時、少なくとも理論的には、感覚が認識の作業に結び付けれられているかいないかなどは問題でなくなってしまう。完璧な知性は科学全体を知性自身から、あるいは少なくとも要素の全体性のなかで考察された、ひとつの事実の認識から引き出してくるというのがずっと本当のことになる。これでは世界は完全に完璧な一なるもの、部分が一方から他方へ必然的に呼びかけ合うシステムだ。

 さて、悟性に固有のこの必然的結びつきのカテゴリーは、事物それ自体に実際にあるものだろうか? 結局のところ、不変の関係を定義する学説が、そう想定しているように、原因は法則と混同されるのだろうか?

 この問いは形而上学に関すると同時に実証科学に関するものである。というのも悟性において知識の最高の視点に位置づけられる学説は結果的に個別の自然発生性を幻覚の世界のなかへまるごと追いやろうとするからだ。最終的には結果を生じさせる原因の必然的秩序の内的再生産しか見ようとしないのだ。自由意志の感情を私たちの行動の結果の無知に引き戻そうとするのだ。そして唯一不変の作用ですべてを生じさせ統べる、真の原因だけしか残そうとしないのだ。その上、この学説は観察の絶対的必然性と実証科学での実験について満足のいく報告をしてくれない。そして区別ない全ての自然現象はおろか、心理学、歴史学や社会科学のなかにさえ、多かれ少なかれ偽った、宿命論fatalismeを導入する。

 法則とは異なる現実的な原因が存在するかどうか知るためには、現象を支配する法則がどの点まで必然性の性質を帯びているのか探求せねばならない。もし結局のところ、偶然性contingenceが、決定的条件での多かれ少なかれ徹底している無知に負う幻覚でしかないならば、原因は法則のなかで発された前件、あるいは一般的たるもののなかでの法則そのものにすぎない。だとすれば悟性の自律性は正当だ。しかし、真に還元不能な偶然性のある度合いが明らかになって与えられた世界に到達するならば、自然法則が法則自体で自足するのではなく法則を支配する原因のなかにその理由raisonをもつのだと考えることは当然だろう。これに従えば悟性の視点は事物の認識の決定的な視点ではなくなるであろう。