タイ側の国境の町、アランヤプラテートまでは列車を使い、カンボジア側の国境の町、ポイペトからはバスを利用した。
タイの首都バンコクに住んでいた10年前、ビザ更新の為に訪れたカンボジア旅行の話だ。
元々カンボジアには全く興味が無かった。しかし最初の旅行でアンコールワットのあるシェムリアップという町を気に入ってしまった。そしてその後、バンコク在住の二年弱の間に、僕は四、五日から最長一ヶ月まで、結局計五回程シェムリアップに足を運ぶ事になる。
・・・・・・彼女には少し意地悪そうな笑顔の印象がある。彼女は確か十一、二歳位で、しかし年齢の割に小柄で、しかしまたその割に大人びた美人と言って良い顔立ちだった。旅の連れとアンコールワットの付近で朝飯を食っていたら、彼女と、もう一人年少のかわいらしい少女が二人で物売りにやってきたので色々とお喋りをした。
僕ら二人が子供らしい笑顔のかわいらしい少女にちやほやしていると、イジワルそうな笑顔の彼女はいきなり少女が頭に巻いていたクロマーという鮮やかな布を取り去った。
『キャーやめて!』
恐らくクメール語で、そう言ったのだろう。
かわいらしい少女のクロマーの下は坊主頭だった。恥ずかしそうに頭を抑えて抗議してクロマーを取り返すと、かわいらしい少女はすぐにクロマーを巻き直して頭を隠した。
意地悪そうに笑う彼女は「頭にシラミがわいたのよ」と、坊主頭の理由を説明した。
彼女達は二人とも英語を話したが、特に年長、イジワルそうな笑顔の彼女はかなり流暢と言って良い。結局連れは年少の少女からポストカードを買ったが、僕は何も買わなかった。
その日一日アンコールワットとその周辺の遺跡群を廻っている間に、僕らはその意地悪そうな笑顔の少女と数度遭遇した。彼女が売る商品は会う度に変わっていくが、欲しいと思える品は無かった。その日最後に彼女に会ったのは、再度のアンコールワット見学から、夕日を見ようとプノンバケンという遺跡のある小高い丘に行こうかというところだった。彼女は遠くから僕の名を叫んで呼び止め、大きく手を振った。朝に聞いた話では、彼女はこれから学校に行くと言っていた筈だった。
「学校に行くんじゃなかったの?」
そう聞くと彼女は切ない顔に強い口調で訴えた。
「あなたが買ってくれないから行けなかったんじゃないの!!」
彼女がその時売っていたものは日本語の小冊子で、それまで彼女が売っていたものの中でも一番つまらないものだったが、それでも僕は仕方無く懐から2ドルを取り出した。その時、<この子は悪女だな、将来は随分と男を振り回す事になるんじゃないか>そう思った事を覚えている。
・・・・・・何度目かにカンボジアを訪ねた際、カンボジア人の男と結婚してシェムリアップに住んでいる女性から買い物を頼まれた。
「ポイペトからこっちに来る時、途中でご飯食べるとこに停まるでしょ?その時子供達がフランスパンを売りに来るから幾つか買ってきて。どの子からでも良いから」
変な頼みと思ったが、容易い願いではあった。彼女の言う通りにしてパンを届けると、僕にも「食べる?」と言ってその中から一本を差し出してくる。「そのままで良いから食べてみて。美味しいから」という彼女の言葉は信じてなかったが、言われた通り何も付けず何も挟まずで食べてみると、これが本当に驚く程美味い。
そういえば、カンボジアはフランスの植民地だった筈だ。後に旅行でフランス本国を訪れ、やはりそのパンの美味さに感激したが、カンボジアで食べたフランスパン程の驚きはなかった。
・・・・・・夕日を見にプノンバケンに行こうと顔見知りのバイクタクシー(皆バイタクと呼んでいた)の運転手に声を掛けた。彼は少し早めの時間から、いつもと違うルートで僕を連れ出してくれた。
アンコールワットとその周辺の遺跡群は森の中にある。現在では観光地として拓かれているが、かつて森の中に忽然と顕れるこの寺院を<発見>した西洋人達は、その眺めに随分と驚いた事だろう。
僕はバイタクの案内で、まだ未開発な裏通りから遺跡へと向かった。日はそろそろ絶好の夕景を提供してくれるかという頃合いで、左手には十メートル向こうから森が広がり、右手には赤く染まり始めた太陽と、その手前に高床式の木造家屋が広い庭を挟んで二件並んでいる。
そしてその庭では、太陽を背にして、恐らくは3、4歳、精々五歳位の子供達が7,8人で走り回って遊んでいる。髪を肩の辺りまで伸ばした女の子が一人だけシャツを着ているが、他はパンツ一枚か全裸の裸ん坊だ。――かわいいなぁ――という心の声が聞こえたわけではないだろうが、その時、一人の子がこちらに気付いて向き直し、「バイバ~イ!!!」と言って大きく右手を振りだした。 そしてそれに気付いた他の子供達も一斉にこちらに気付き、皆同じように大きく手を振りだした。
「バイバ~~~イ!!」
こちらもバイクの後ろから手を振り返す。
「バイバ~~~~イ!!!」
多分、その時の僕はこれ以上無いという位の甘い声、そしてこれ以上無いという位のふやけたような笑顔。 緑に囲まれた田舎道、僕はバイクの後部に跨り、子供達に手を振り返している。 その子供達の背後では日が暮れ始め、空をぼんやりと赤く染めていた。
僕はすぐに気付いて彼女に笑いかけた。すると彼女はそっぽを向いてしまう。『あれ、人違いかな?』そう思って再び遊んでいたが、やがて子供達の体力に負けて石垣に腰掛けて休んだ。そうして子供達を眺めていると、彼等は合図をして一斉に日本語で歌を歌い始めた。
幸せなら手を叩こう♪
幸せなら手を叩こう♪
少々たどたどしいクメール語の訛りの合間に、ちゃんと手拍子を入れて歌う。
幸せなら態度で示そうよ♪
ほら皆で手を叩こう♪
僕も釣られて歌い出し、手を叩く。
パンパン♪
彼等の歌を聴いていて『こんなに良い歌だったのか』と余韻に浸っていると、歌い終わった辺りから別の歌声が聞こえてきた。――リン、リンリーン♪――と楽しそうに調子を付けて、弾むような声で歌うように僕の名前を呼ぶ、あの意地悪そうな笑顔の少女の歌声だ。
そういえば名前を教えたかと思い出し、彼女の方に笑いかけて「ドゥユゥリメンバミー?」と訪ねると、彼女は、あの少し意地悪そうな笑顔でそっぽを向き、弾むように調子を付けて笑いながら「ノー♪」と言って笑った。
あの時子供達が歌ったあの歌だが、あの後に少々の替え歌が続いたような気がする。その歌詞自体は覚えておらず、もしかしたら記憶違いかもしれない。
・・・・・・そういえば、あのフランスパンを届けたのは友人が子供を産んだ時の事で、あれがカンボジアへの最後の旅行だった。
友人が宿泊していた産院は、平屋建ての長屋のように連なったコテージ風の洒落た建物と、もう一つ別に病院棟(といっても全部で10畳超の広さのものだ)が併設されているという、元々産院として建てられたとは思いがたい建物だった。
子供達は一日に一度、看護婦さんにタライで洗って貰う為に病院棟を訪ねる。先生が子供達の様子を診ながら行う重要事だ。
友人の子が滞りなく終わると、その次に、色の黒い(その黒は赤と青の混ざる複雑な黒さだった)、生まれ立てだから小さいという程度の小ささではない程に小さな女の子が看護婦さんに抱かれて連れられてきた。
彼女を見守るのは、両親のうちのどちらかの、そのまた両親だろう。心配そうに眺め、何事か話している。僕はそのままその部屋に居て、やはり女の子を心配そうに眺めている。
タライの中の子供達は皆当然のように泣く。しかしその小さな女の子の泣き声は一際甲高く、命の弱さを知らせるサイレンのように響いた。
その時、発展途上国における乳幼児の死亡率の高さが頭に浮かんで、僕の心がそのサイレンに共鳴した瞬間『ああ、この子は一生守ってやらないかん!』という言葉が頭に浮かんだ。
いや、それは言葉とは言えない刹那の顕れだった。瞬間頭に光ったものを、あえて言語化するとそうなるという事だろうか。
確信を持って言うが、それまでの27年の人生で僕はこの言葉を吐いた事は無かた。そのような言葉(そう呼ぶしかないのでそう呼ぶ)が、何故確信めいた力強さを伴って僕から出てきたのか分からない。
分からないままに、これが生命というものかと納得した。
しかしその言葉はすぐに打ち消した。
『いや、この子の親じゃないし!』
残念だが、彼女の事は彼女の両親と、そのおじいちゃんおばあちゃんに任せるしかない。僕は病院棟から出た。産院の庭のベンチには、その時の旅の連れとプノンペン在住の友人が二人で座っていて、こちらの顔を見るなり、「今めっちゃ良いパパの顔しとったでェ!」と言って笑った。
その時、宿の常連の女性がふらりと現れた。
日本人の多く集まるこの宿でも、最古参の常連、30歳位の女性だった。彼女は僕に「りん、一人?」と声を掛けきて、それから互いに他愛もない現地の情報のやり取りになった。
やれどこそこのぶっかけ飯が美味い、あそこのピザが美味い、今日は何処に行った、あそこには行った事があるか……。
そして「そういえば」と思い出し、僕は子供達が歌って聞かせてくれた「幸せなら手を叩こう」の話をした。
すると彼女は満面の笑みで「ああ、あれあたしが教えてん」と言った。
まだ歌ってたのか、とかそういう事を言っていたと思う。
僕は予想もしない出会いに感激して話に熱中し、やがて彼女がなぜこれ程頻繁にカンボジアに来るのか、という話に辿り着いた。
「最初に来た時、カンボジアのドキュメンタリー映画を作りたいって言ってカメラ持って旅をしてる男の人と仲良くなって、カメラマンやる事になってん。カンボジア人の通訳と、私とその人でアンコールワット行って、子供達にインタビューして。でな、ある女の子と出会ったんよ。その子の家とかも見に行ったんやけど、酷いあばら屋で。彼女恥ずかしそうにしてたけど、なんかすれた子で、笑顔も見せてくれんし。でな“将来の夢は何?”って質問してん。そしたらな、“あたしの家見たでしょ?あたしの生活分かったでしょ?学校にも行けない、字だって書けない、それでどうやって夢なんて見るの?”って。十歳くらいの子なんよ?あたしそれ聞きながらカメラ撮りながらボロボロ泣いてな、なんかこの子の為に出来る事ないか、って。で、何回も来て、話しもして、歌も教えて、日本語も教えて。その子随分明るくなってな。でな、最近ようやっと夢持てるようになったんよ。だからもう良いかな、シェムリは。もう来なくても良いかなって思ってる」
そういって彼女は目尻に光るものを湛え、満足そうな笑みを浮かべた。
あれも確かプノンパケンだった。小高い丘の上でうろちょろしていると、初めて会った時からすると随分と大人びた風に見える彼女の後ろ姿を見掛けた。彼女も僕の視線に気付いて振り返り、次の瞬間に例の意地悪そうな笑顔を浮かべた。しかしすぐに向き直し、白人の老夫妻の元へと歩いていった。
頭も良いし、彼女の英語力なら、良いガイドになっている事だろう。
日本に帰ってきてから、旅の友人が「シェムリに信号が出来たってよ!」と教えてくれた事があった。“信号が出来る”というのがシェムリアップにとって驚きの発展なのだが、一昔前から比べて、その後の発展は想像も付かない(といっても恐らく大通りが舗装されたとか、大きなホテルが出来たとか、その程度だろう)。
プノンペン在住の友人によると、子供達が手を振ってくれたあの景色も「残念ながら多分もう無いかな」との事。
あの意地悪そうな笑顔の少女は、既にもうあの町から脱出しているのではないか。何処かの国に留学していて、もしかしたらフランス辺りでいい男でも捕まえているかもしれない。
また行く事があれば、何処かでフランスパンを買ってみようと思う。あの頃の驚きをもう一度提供してくれる事は無いだろうが、その時僕は何を感じ、どう思うだろう。
あの頃はカメラも持たずで、シェムリアップを思い出して懐かしむにはただ記憶を頼りにするしか無い。
もしかしたら、その記憶は週刊誌のグラビアアイドルのように良いように修正されているのかもしれない。
だが、それでも僕の頭の中にある一枚一枚は、カメラでは捉えきれない広がりと、僕だけに通じる真実性を持っていると確信している。あの頃見た情景の多くは既にないだろうが、それでもプノンバケンに登れば、アンコールワットの大地に沈む夕景が、あの時の全てを思い出させてくれる筈だ。