先月、研究成果である『小林多喜二と埴谷雄高 [文庫]』を発表発売した。
以下、その正誤表を掲げておく。二週間程時間をとって、注意を払って校正に臨んだつもりだったが、多くの誤りを出してしまった。深く反省する。これも含めて今現在の自分の無能と受け取り、今後さらに精進していきたいと思う。次の活動に、この経験が生かせれば幸いだ。
32頁16行目、(誤)林俊美→(正)林淑美
34頁2行目、(誤)研究』、昭→(正)研究』昭
54頁3行目、(誤)個人に置いて→(正)個人に於いて
63頁15行目、(誤)があった→(正)があつた
65頁15行目、(誤)埴谷が強調するのが、→(正、削除)
67頁16行目、(誤)節くれだった→(正)節くれだつた
70頁7行目、(誤)湿った→(正)湿つた
81頁5行目、(誤)組織組織→(正)組織
85頁6行目、(誤)「偉い人という→(正)「「偉い人」という
101頁8行目、(誤)てておらず→(正)ておらず
109頁7行目、(誤)『闇について→(正)『闇
110頁11行目、(誤)シャッフルリング→(正)シャッフリング
115頁10行目、(誤)彼ら等→(正)彼等
118頁8行目、(誤)前者から供給→(正)後者から供給
135頁4行目、(誤)六)。として→(正)六)として
140頁2行目、(誤)「ある時代の背景」→(正)「或る時代の背景」
145頁6行目、(誤)「不在作家」作→(正)「不在作家」を作
146頁5行目、(誤)文春』、昭→(正)文春』昭
147頁11行目、(誤)事件によって『悪霊』を生み出したごとくに、私達はリンチ事件によってまだ私達の『悪霊』を生み出していないけれども、敢えて大ざっぱにいえば→(正)事件によつて『悪霊』を生み出したごとくに、私達はリンチ事件によつてまだ私達の『悪霊』を生み出していないけれども、敢えて大ざつぱにいえば
150頁3行目、(誤)ゆくときとき→(正)ゆくとき
152頁17行目、(誤)あげらられ→(正)あげられ
152頁17行目、(誤)あげらられ→(正)あげられ
155頁5から6行目、(誤)手がかり逆用し→(正)手がかりに逆用し
164頁9行目、(誤)まったく→(正)まつたく
166頁4行目、(誤)「無関係」→(正)無関係
172頁9行目、(誤)真っ暗→(正)真つ暗
177頁11行目、(誤)まったく→(正)まつたく
180頁16行目、(誤)内在ており→(正)内在しており
187頁8行目、(誤)或いそもそもは→(正)或いは
195頁13行目、(誤)すず』、平→(正)すず』平
197頁3行目、(誤)を対応→(正)に対応
198頁5行目、(誤)争う→(正)争い
217頁7行目、(誤)掻い」る女性→(正)掻い」てる女性
244頁16行目、(誤)の所蔵して→(正)に所蔵して
255頁2行目、(誤)『埴谷雄高の存在論』→(正)『埴谷雄高と存在論』
256頁14行目、(誤)走ってリレーするなら私は十メートルでもいいけれど、とに角走って→(正)走つてリレーするなら私は十メートルでもいいけれど、とに角走つて
257頁1行目、(誤)思って→(正)思つて
257頁11行目、(誤)野間宏『海鳴りの底から』と堀田善作『我塔はそこに立つ』→(正)野間宏『わが塔はそこに立つ』と堀田善衛『海鳴りの底から』
(しかし、一冊の本をつくってみて、つくづく思うのは、当たり前のことかもしれないが、本というのは基本的に一人でつくるものではない、ということだ。執筆、編集、校正、装丁、印刷、販売などの複数のタスクをひとりでまかなおうとすると、能力的・身体的な限界にぶつからざるをえない。もちろん、かといって、オルタナティブな出版の可能性にケチをつけたいわけではない。事実、少し前に比べてみれば個人でできることは格段に増えてきている。問題なのは、その条件をどうすれば最大限に活かすことができるのか、ということだ。もしかすると訓練次第によってすべてのタスクをこなすジェネラリストが育つものなのか、或いはそれとは別方向で、各人在野でありながら、タスクに最適なメンバーが一時的に集いチームを組めるような組織の在り方が可能なのか? 私自身の宿題にしたい)。
164頁9行目、(誤)まったく→(正)まつたく
166頁4行目、(誤)「無関係」→(正)無関係
172頁9行目、(誤)真っ暗→(正)真つ暗
177頁11行目、(誤)まったく→(正)まつたく
180頁16行目、(誤)内在ており→(正)内在しており
187頁8行目、(誤)或いそもそもは→(正)或いは
195頁13行目、(誤)すず』、平→(正)すず』平
197頁3行目、(誤)を対応→(正)に対応
198頁5行目、(誤)争う→(正)争い
217頁7行目、(誤)掻い」る女性→(正)掻い」てる女性
221頁10行目、(誤)読み手が書き手に、読み手が書き手に→(正)二項関係の前提をつき崩し、読み手が書き手に、書き手が読み手に
230頁12行目、(誤)置けれて→置かれて244頁16行目、(誤)の所蔵して→(正)に所蔵して
255頁2行目、(誤)『埴谷雄高の存在論』→(正)『埴谷雄高と存在論』
256頁14行目、(誤)走ってリレーするなら私は十メートルでもいいけれど、とに角走って→(正)走つてリレーするなら私は十メートルでもいいけれど、とに角走つて
257頁1行目、(誤)思って→(正)思つて
257頁11行目、(誤)野間宏『海鳴りの底から』と堀田善作『我塔はそこに立つ』→(正)野間宏『わが塔はそこに立つ』と堀田善衛『海鳴りの底から』
(しかし、一冊の本をつくってみて、つくづく思うのは、当たり前のことかもしれないが、本というのは基本的に一人でつくるものではない、ということだ。執筆、編集、校正、装丁、印刷、販売などの複数のタスクをひとりでまかなおうとすると、能力的・身体的な限界にぶつからざるをえない。もちろん、かといって、オルタナティブな出版の可能性にケチをつけたいわけではない。事実、少し前に比べてみれば個人でできることは格段に増えてきている。問題なのは、その条件をどうすれば最大限に活かすことができるのか、ということだ。もしかすると訓練次第によってすべてのタスクをこなすジェネラリストが育つものなのか、或いはそれとは別方向で、各人在野でありながら、タスクに最適なメンバーが一時的に集いチームを組めるような組織の在り方が可能なのか? 私自身の宿題にしたい)。