物騒なのはタイトルだけで、中身は大したことのない「お願い」を書き込んでおく。
今月、私は在野研究の成果である単著『小林多喜二と埴谷雄高』を発表し、現在Amazonにて販売している。勿論、是非とも買っていただきたいのだが、それでも「捲ってみたいけど、買うのはちょっと…」という人もいるだろう。そんな人(とりわけ大学生)に是非お願いしたいのが、よく通っている図書館に拙著の購入希望リクエストを提出してもらえないだろうか、ということだ。市販されているためISBN(国際標準図書番号)も取得しており、又、内容も学術的であるために、十分検討の余地があるリクエストに適うはずだ。
大学に属さず研究活動をすること、在野研究にとって、今後、図書館を協力的にさせることができるかどうかは極めて重大な問題となるだろう。在野研究者は、人にもよろうが、潤沢に研究費を使える訳ではない。本代金、図書館への交通費、資料コピー代、もちろんすべて自分でまかなわなければならない。そのような者が、極度に専門化され一般的な読者の興味をひかない研究成果を自費出版で発表した場合、図書館が協力的であるかどうかでテクストの拡がり方に大きな差異が出るだろうことは明らかだ。
私もそうだが、在野研究者の場合、学会的コミュニティ/コミュニケーションに参加してない場合が多々ある。その場合、当該のジャンルに於いて主要な献本のネットワークや参照のネットワークから外れてしまうことが少なくない。だから本を共有可能にし、ある本と本の間に置かれる物質的スペースの存在や検索システムへの登録はネットワークに割り込むためにも無視できない要素である。
是非、在野の研究を図書館に購入させて欲しい。学校のセンセーの本の間に在野研究者の本を差し込むこと。図書館にテロを仕掛けるのだ。このような願いは、決して私一人だけのものではない。しかもその傾向は年々追うごとに強くなっていくだろう。
今日、大学(院)の形骸化を仰々しく取り上げることには些かあきあきするものがある。大学は就職予備校化し、或いは、少なくとも現今の大学院生の大部分は正規の教授職に就くことはできないでいる。運良く教授になったとしても過去に比べ相対的に事務仕事は増え、充実した研究時間を確保できるとは限らない。このようなことが何度繰り返し言われてきたか。
しかし、それら困難は、研究や学びからの追放を直接意味していない。大学のセンセーでなくとも、人間は学ぶことができるし、学ぶたいと思える動物だ。もし在野研究に現在よりもマシな条件が整備されていけば、例えばアカハラで悩む院生や、授業料で悩む院生にとって、在野がオルタナティブな場所として救済的に機能する可能性は決して否定できない。
いや、それ以上に在野だからできることもある。例えば、私の本は大学院の授業料半年分に満たないで出版することができた。高い授業料その他を支払って博論を書いたとしても、そこで得られるのは大学の狭い世界だけで流通する権威という貨幣だけだ。私の実感では、世間の大部分の人は博論と修論、いやそもそも博論と卒論の違いなど認知していない。100万以上支払って、別の言い方をすれば日々のバイトの数時間分を削って、本当にそれを得たいと思っている人間は果たしてどれほどいるのだろうか。平生から私は甚だ疑問である。この世界には、大学の先生には別段なりたくないけれども、しかし研究することが好きな若者は多く存在しており(少なくとも私はそうだ)、その数は大学の凋落に従いますます増えていくだろう。そのような研究者がそれなりに活躍できる舞台を設定しておくことは公共性の観点から見たときでも積極的に肯定できるものではないだろうか。
在野という場所をもっと快適に、もっと魅力的に、もっと楽しく。私だけのお願いではない。それは、今現在の、そしてこれから現れるだろう有名無名の未だ見ぬ在野研究者たち共通の願いであり、彼等はその返礼に知的好奇心がこの世界で可能であること、知的な喜びが資本主義とは別に存在することを実践で以て教えてくれるだろう。私達の「大したことのない」行動の一つ一つが彼らを育てることができる、そして彼らから教わることができる。何よりも私達自身が彼らに生成することだってできるのだ。私達はいつだって先生であり「かつ」学生であると、在野という場所は教える。無作法な願いで恐縮であるが、是非ともご検討いただきたい。