● TV版エヴァの手

evanngelion hand 1
コラージュ作成:荒木、以下、掲載画像全て同じ。
引用元著作権:「TV版」及び「劇場版」=
(C)GAINAX/Project Eva・テレビ東京。
「新劇場版」=(C)カラー。



 『新世紀 エヴァンゲリオン』というテレビアニメは、「手」のイメージに支配されている作品だった。


 『エヴァンゲリオン』を鑑賞しながら、手へズームアップしたショットを取り出すのに苦労することはない。第一話、碇シンジは数年ぶりに父親と再開するが、人造人間エヴァンゲリオン初号機に乗って使徒と呼ばれる謎の外敵と戦うことを強要される。一度は拒否するものの、負傷中にも関わらずシンジの代替を頼まれた一人のパイロット綾波レイの血で汚れた自身の「手」を見、彼は決心し直す。第十六話、エヴァンゲリオンの操縦にも慣れ、(エヴァと心を通わせる度合いを示す)シンクロ率もパイロットの中で一番になったシンジは、帰りのバス内で「手」を握り開きしつつ自身の自信を確認するも、同乗していた小学生にその振る舞いを笑われ、羞恥する。第二四話、パイロットとして送られてきた少年、渚カヲルが最後の使徒だったことが発覚し、シンジは命令に従って友をエヴァの「手」で握りつぶす。

● 劇場版エヴァの手

 『エヴァンゲリオン』はテレビアニメだけで完結せず、その後二度の劇場版が制作されたが、そこでも「手」のイメージは留まる事を知らない。

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 使徒による精神攻撃によって倒れたパイロット、惣流・アスカ・ラングレーを見舞うシンジは、彼女の病室でオナニーを始める。精液で汚れた「手」を前にしてシンジは自己嫌悪の情に襲われる。或いは、ラストシーンでは、エヴァの力によって形而上的(超現実的)世界から現実世界への復帰を果たしたシンジが隣りで横臥するアスカの首を「手」で絞めるが、締め切れず嗚咽してしまう。そして、今になっては余りにも有名なアスカの台詞「気持ち悪い」が発されて幕が閉じる。

 『エヴァンゲリオン』で頻出する「手」を丹念に拾っていくと、一つの重要な傾向性が見えてくる。つまり、そこで登場する「手」は皆、誰にも握られることのない孤独な手である、ということだ。自信を確認する手、精液で汚れた手、握りつぶす手、絞め殺す手。その手は極端に孤独で不安であるか、他者に対して攻撃的にしか振舞われない。

● 新劇場版エヴァの手 

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 それはテレビアニメから10年後、既に三部を劇場公開している『新劇場版 ヱヴァンゲリヲン』と題された今日の新作シリーズとの対照で明らかだ。新作では、明らかに孤独な碇シンジが他者の「手」を握り、又握られる物語として編集されている。第一作「新劇場版:序」では、上司である葛城ミサトが使徒との決戦に怯えるシンジの「手」を握り、本部に隠された或る秘密を明かし、彼を元気づけようとする。第二作「新劇場版:破」では、使徒の体内に取り込まれてしまった綾波レイを救出する為、シンジはエヴァの隠された力を借りて彼女を助ける「手」を差し伸べる。第三作「新劇場版:Q」でも、荒廃した世界をやり直す為に渚カヲルと握「手」して共にエヴァに搭乗することになった。加えて、カヲルが手で握りつぶされる場面が大きく変更されていることは強調していい。

 端的にいえば、「序」は葛城ミサトと手をつなぐ話であり、「破」は綾波レイと手をつなぐ話であり、Qは渚カヲルと手をつなぐ話であった(或る意味で、この傾向から次回作が大ざっぱにどのようなものになるか、推測できるように思われるが、ここではそれは問わない)。それは旧テレビシリーズ・旧劇場版と明らかなコントラストを描いている。孤独で不安で攻撃的な手、そして、つなぎつながれ助け助けられる手。もっと簡単に、手がつなげない話と手をつなごうとする話と言い換えてもいい。新劇場版は旧劇場版では諦めてしまった人間存在(実存)同士の連帯の可能性を問う試みであり、それ故に、同一のイメージのしかし意味論的には真反対の質的転換を図っているのだ。世紀末から今日までのこの日本(社会)の10年間の歩みは『エヴァンゲリオン』という作品に対し、強烈な転向を強いることになった。

● 小林多喜二と埴谷雄高の手

 拙著『小林多喜二と埴谷雄高』を書きながら漠然と感じていたのは、多喜二と埴谷の文学的意義が『エヴァンゲリオン』の転向が端的に象徴している時代的文脈性と「シンクロ」しているような奇妙な感覚だった。

 小林多喜二も埴谷雄高も、『エヴァンゲリオン』と同じく、「手」というイメージを重視した書き手だった。多喜二は獄中での書簡でチェーホフに触発された「手を握る」という結びの言葉を好んで使い、或いは別にマルクス主義的な労働者同士の「握手」の場面を小説内で階級闘争の象徴として繰り返し描いている。「労働者と農民は手を握り合わなければ」という問題意識が底流する『沼尻村』、「私達二人は固く固く手を握った」という一文で終わる『地区の人々』、そして貧困農民と都市労働者との「握手」を訴える『不在地主』(これについては以前論考を書いた。「小林多喜二の手」http://p.booklog.jp/book/28941)。

 非合法の戦前共産党で多喜二の後輩にあたる埴谷雄高は、共産党の位階制的秩序に失望し、マルクス主義は勿論のこと、政治活動から一切逃れ、『死霊』という小説執筆に一生を捧げた。このノンポリな書き手は最早「握手」としての、連帯の象徴としての「手」を信用していない。中絶された『死霊』の最後の場面では「のっぺらぼう」の挿話が挿入されている。のっぺらぼうの「掌」が顔の目鼻口を撫でるとそれがなくなって、つるつるの表面だけが残る。それと同じように膨張を続けるこの大宇宙を撫でてしまう「巨大な掌」があるのではないか。埴谷にとって「手」は極端に抽象化され、それは何物をも握らず、或る宇宙が生成し又消滅する神的な場所のように捉えられている。『薄明のなかの思想』にも同じようなイメージが登場するが、何れにしてもその手は只只孤独(単独)に抽象的な世界を把持している。

 埴谷の好きな言葉「妄想」を全開にすれば、多喜二は新劇場版を、埴谷は旧劇場版を好むだろう。連帯の手を信じれる者と信じれなくなってしまった者がここにいる。私的なことを記しておけば、私は圧倒的に埴谷雄高という書き手のその感覚や思想を信じている。多くの場合、人と人とが連帯するという事態は絵空事に過ぎないし、たとえ連帯が実現したとしても、そこでは個々人の振る舞いや性格のほんの些細な差異が、連帯を冒涜されたような「許しがたい」という意識を活性化させてしまい、内ゲバやリンチ紛いの状況を用意してしまう。埴谷が旧左翼を指弾する新左翼として活躍しえたのは、強く連帯していた筈の同志たちが(同じ志を抱くが故に)引き起こしてしまうリンチ共産党事件やソ連の悲惨な状況に辟易していた時代的雰囲気を代表することができたからだ。

 しかし、拙著の最後で、私はそのような埴谷の思想が反映された孤独な文学者イメージを批判した。詳細は本文に譲るが、文学者が孤独に執筆に勤しむことができるのは様々な条件をクリアした上で初めて可能になるのではないか。そもそも、ある物質(石、布、木の皮、紙)に託されたテクストがその形のまま流通し保存されるには、様々なインフラを必要としており、その恩恵に預かれる者は、選別された特権的な書き手に他ならない。連帯を拒否できるということ、それは一個の豊かさの徴なのではないか。

 勿論、そのようなことを言ったからといって連帯を拒否する者たちを指弾したいのではない。そもそも私自身があらゆる(社会的、会社的、学術的、運動的)連帯から距離のある人間であることははっきりしている。しかし、単に手をつながないことが「カッコイイ」と言うことや、「新劇よりもやっぱり旧劇だよね」としたり顔で諭すことは、少なくとも、誠実ではないのではないか。

 手を握ることを信じた多喜二を読みつつ、孤独な埴谷雄高を読むこと。或いは逆に手を握ることを諦めた埴谷を読みつつ、連帯の小林多喜二を読むこと。連帯の為にテクストをリーダブルにした作家を読みつつ、連帯を拒むノンリーダブルな極端な難解さに包まれた作家を読むこと。再びその逆から。この横断的な読解から、戦前の革命政治組織にあって連帯するとはどのようなことだったのか、そして、これから先どのような形で可能なのかを考えれるように思われた。

 手をつなぐことと手をつながないこと、或いは手をつなげないこと。震災以降、コミュニティの復権や災害ユートピア的物語が流布する中で、しばしば党派的な原発事故を巡るコミュニケーションが活性化した。連帯の可能と不可能を巡る問題系を今一度考え直したいと思い、執筆に臨んでいたことを仰々しく書き記すべきだろうか。結論は未だ出せていない。しかし、拙くとも、今現在私が考えうる限りのことは記し得たように思われる。お「手」にとって下さった方々に、心から感謝申し上げる。

小林多喜二と埴谷雄高
著者:荒木 優太
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