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Photo by Mitch Walker




注:この記事は断食を勧めるものではありません。人間の身体はひとりひとり違います。断食をする場合は、各人の責任で行ってください。
 



どこか何かバランスがおかしい。
だからこんなことをするのかもしれない。


お釈迦さまは苦行はすべきではないと教えたのだという。
苦行はいたずらに心身消耗するのみで、求めていたものは得られない。
中道を行けというのが、お釈迦さまの教えだ。

苦行をすれば、やり遂げたという充足感が得られるのだろう。

でも、行はあくまで手段だ。
やり遂げたということで満足してして、修行の目的を忘れてしまっては本末転倒だ。
そして、苦行には中毒性がある。苦行さえしていれば満足してしまうこともあるだろう。

それでも苦行、荒行には人間をひきつける魅力がある。
それは魂をきれいにする何か、人生を変える行為。やり遂げれば、何かあるという期待。

滝行、千日回峰行、五体投地、只管打坐... 
実際、このような行を積めば、成果があるのだろう。

でも、私はただ普通に瞑想するだけだ。
今のところ、これだけで満足だ。

そう言いながらも、無意識に何か苦しいことを求めているような気がしてならない。

昨年末から新年にかけて、山の中の瞑想センターに二週間滞在した。
今年はゴング・リンガーを引き受けた。毎朝4時に起きて、起床の鐘を打った。
コース終了後、500キロの道のりを運転して自宅に戻り、翌日から空手の寒稽古で連日4時半に起きた。毎朝6時から7時まで、家から45キロ離れた道場で稽古がある。
稽古のあと帰宅してシャワーを浴びて、通常通り出勤。6日間の寒稽古が終わる頃には、道着を着ている自分が本来の自分なのか、会社で働いている自分が本物なのか、山の中で瞑想しているべきなのか、わからなくなってきた。
疲労は相当なもので、上司から朝練禁止令が出そうになった。

こんなふうに疲れた時、みんなどうやって疲労回復するのだろう。

私は、身体を労わりたいときは断食する。

どうして?と言われそうなのはわかっているが。

断食というと「絶食」みたいだが、必ずしもそうではない。たとえば、イスラム教の暦に断食月があるのを知っている人は多いと思う。宗派によって多少の差はあるだろうけど、「絶食」するのではなくて、日の出から日没までのあいだ飲食を絶つ。日没後は食事することができるのだ。

私の断食も、「絶食」ではない。

レモンの果汁を絞って、メープルシロップと水でレモネードを作る。それを飲むのだ。暖かいものが飲みたいときはミントティー。レモネードを温めて、ホットレモンにして飲むこともある。本来はデトックス目的の断食法なのだが、私の場合は身体を休めて生活習慣と精神状態を整えるのにとても効果がある。肝心のデトックスのほうはこれといった効果は実感しないが、定期的に断食するようになってから頭痛に苦しむことがなくなった。

身体は間違いなく休まる。

断食中は食品の買い物、調理、食器洗いをしなくていい。時間に余裕ができるし、食べ物について考える必要もなくなる。少し疲れれば、断食中という自覚から、無理をしないで休む。レモネードを飲んでいれば空腹感に苦しむことはない。うっかり食べ過ぎて苦しい思いをすることもない。お腹には本当にやさしいのだ。

ついでにいえば、お財布にもやさしい。

季節にもよるが、カリフォルニアはレモンは安い。メープルシロップは高いけど、それでも1クォート(1リットル弱)のボトルが16ドルだ。浮いた食費は、寄付するようにしている。世の中には食べ物が手に入らずに飢餓に苦しんでいる人がたくさんいる。信じられないような話だが、豊かなはずのアメリカにも、飢えで苦しんでいる人がいる。そういう人たちから見れば、自分の意思で食べないなんて失礼な話だ。

断食で困るのは、食生活が退屈なこと。
そして、冬のあいだは寒さを感じやすくなること。
でも、それは瑣末なことだ。

食事を絶って、静かに過ごすのは心地いい。

平日は一日分のレモネードを持って会社に出勤する。
週末は長時間の外出は避けて、静かに過ごす。
飲み食いができないから、人と会う用事も作らない。
瞑想の時間も、十分に取れる。

ただ、私の場合、これだけじゃすまないのだ。過剰なのだ。

断食中でも、週に一度は空手の練習に出る。稽古は約一時間半だ。前半の45分は何とかなっても、後半は惰性と根性で動いているだけになってしまう。

なんでこんなことをやっているのか、と思う。

週に2~3回は海岸でランニングする。仕事の終わった夜6時過ぎ、海岸でランニングするのはいくらカリフォルニアでも寒い。身体も疲れている。それでも何とか、普段よりさらにゆっくりのペースで、1時間くらい走る。

理由はいちおうあって、断食中でも運動しないと筋肉が落ちてしまうのだ。

こんなふうに過ごしていても、そんなことなど預かり知らない米国赤十字社から電話がかかってくる。献血の勧誘だ。あまり何回もかかってくるので、献血しに行った。
以前は断食中に献血なんかできるのかと半信半疑だったのだけれど、まったく問題ない。献血前に検診があるが、実に健康で、いつも看護士にほめられる。
今回も体温はやや低めだが血圧は104/58、ヘモグロビン値は14.2で女性の正常値の上限に近い。貧血なんでどこ吹く風だ。献血量は1パイント(約470ml)。これで翌日は断食したままランニングできるのだから、憎まれっ子とはまさに私のことに違いない。

繰り返しになるが、なんでこんなことやっているのかと思う。

今回の断食は30日間。明日が最終日だ。
あさってからまた、少しずつ食べ始める。

私は、自分のことを痛めつけたいのだろうか?
こんなことをしなくても、穏やかな心で健康に暮らせる日が、いつか来るのだろうか?

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瞑想や自分の心のありようについて、今の時点で書きたいと思っていることは、ほぼ書きつくしました。ここまで読んでくださった読者の方に感謝します。