Johannes Verneer "A Lady Writing (1666)"
瞑想していれば、もう書かなくてもいい。
そして、もう、読まなくてもいいのかもしれない。
私は一人で勝手に瞑想を始めた。瞑想をしている知人はいなかったので、ネットで調べた。いろいろな瞑想法があり、いろいろなグループや団体があり、瞑想のコースや本やDVD、いろいろなものがあることがわかった。当事者たちが真剣なのはよくわかった。でも、私の目には胡散臭く見えるものも少なくなかった。
日本語と英語の両方であれこれとサーチしているうち、「10日間の瞑想コース」に参加した経験について書いたブログがいくつか出てきた。それを手がかりに主催団体を探して詳細を調べた。カリフォルニア州にもその団体のセンターがあること、センターでは年間を通じて10日間のコースを開いていること、オンラインで申し込めばそのコースに参加できることがわかった。
気になったのは、コース参加費は無料で、費用はすべて個人の寄付でまかなわれる、という点だった。個人の寄付でコースを運営するのは本当に可能なのだろうか?公言できないような団体から資金が出ている可能性はないのか?センターに泊り込みで11泊12日も過ごして、何事もなく帰ってこられるのだろうか?個人の信条や信念いついて、なにか不愉快なことを押し付けられる、何かを買うように言われる、あるいは有料のコースへの参加を勧誘されることはないのか?
私の家族は日本に住んでいるし、もちろん英語はわからない。
私がトラブルに巻き込まれても救援は期待できない。この団体がおかしなカルトだったりしたら、収集がつかなくなる。私はそのコースについて入念にネットで調べた。
決め手になったのは、ロサンゼルスタイムスの記事だ。タイムスの記者がコースに参加した体験を書いた記事があったのだ。これなら参加しても大丈夫だろうと感じた。
面白いと思うのは、ブログでも記事でも初回参加者が書いたものが圧倒的に多いことだ。コース参加のためにネットを検索している頃は気がつかなかったけど、コースに参加して長年瞑想を続けている人が書いたものは見当たらなかった。初回参加なら印象も強いだろうし、何か書こうという気にもなるのだろう。
でも、経験者の書いたものが少ないのはなぜだろう?
瞑想と自分の生活について書きたいとか、思わないのだろうか?
それとも、何回かコースに参加すると飽きてしまって、もう瞑想しなくなるのだろうか?
実際に瞑想を続けていたら、少しずつわかってきた。
瞑想について書くことはあまり意味がないのだ。
初めてコースに参加した後、ソーシャルネットワークにいくつも記事を書いた。その後、毎日2時間はどだい無理でも、とにかく瞑想を続けている。2ヶ月に1回くらいの割合でセンターにも手伝いに行っている。そのたびにいろいろな人と出会い、いろいろなことが起こる。いま瞑想について書いているから矛盾しているけど、そういった経験をいちいち書こうとは思わないのだ。
瞑想する時は「いま、ここ」に集中して、すべての物事は変化し続けていることを体験的に理解するよう指導される。学校で平家物語の冒頭部分を暗記させられた人も多いと思うが、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の「無常」だ。
「無常」を体験的に理解するなんて私にはなかなかできない。
でも「無常」を意味するパーリ語のアニッチャAniccaという言葉を何回も聞いていると、まるで理解できたかのように錯覚してしまう。
すべてのものが変化してしまうなら、物事を書きとめたところで、いったい、何になるというのだろう?
過去の、あるいは未来のことについて書くことに、何の意味があるのだろう?
書かれたものは、書かれた瞬間に過去のものになる。今この瞬間に着目するなら、過去に書かれた物に価値はない。
だからなのだろうか、コース中は基本的に印刷物は配布されない。
瞑想は、体験的に覚えなければならない。
スポーツやダンスと同じだ。どんなに本を読んだって、DVDを観たって、実際に身体を動かさなければ何も覚えない。瞑想方法は録音された音声で指導される。聞いて理解して実際に練習できるよう、一回の指導の内容はほんの少しだ。質問がある場合はアシスタントティーチャーと呼ばれるインストラクターに面談の予約を取り、個別に質問する。面談は小さな部屋で行われ、そのときはしゃべることが許される。
私の好きな作家の一人に、ブルース・チャトウィンがいる。
英国の作家で著作は旅行記が多いが、美術や歴史、そして少数の人々だけが守っている希少な文化への造詣が深い。
どこに書いてあったか忘れたが、「遊牧民について本を書こうと思ったが、意味がないからやめた」というくだりがあった。
今はハイテク機材を使うこともあるのかもしれないが、遊牧民の知恵と技能は個人や先祖代々の経験に根ざしている。書物で得た知識ではない。遊牧民を調査・研究の対象と見るならば、書く価値はあるだろう。
でも、チャトウィンのように、自分自身を遊牧民の暮らしや感覚に投影しているのなら、書く意味はない。いや、むしろ避けるべきだろう。
瞑想者の場合、瞑想について調査・研究なんてしてもしょうがないのだ。
大切なのは実際に瞑想すること。正しく理解すること。瞑想は対象ではない、究極的には自分の存在と同等だ。
瞑想していれば、もう書かなくてもいい。
そして、もう、読まなくてもいいのかもしれない。