私のtwitterでは既に予告したが、今月下旬(予定日は18日)にブイツーソリューション様から文庫の形で初の単著を出すことになった。
タイトルは、『小林多喜二と埴谷雄高』。Amazonで税抜き価格800円で購入できるようになる。電子書籍販売サイト「パブー」で公開していた論考(http://p.booklog.jp/users/arishima-takeo)を元にしているが、加筆修正を重ねる中で殆ど書き下ろしに等しいものに出来上がった。研究書にありがちな文脈なき個別作品論の羅列ではなく、通読に耐える一書に仕上げたつもりだ。序章を入れて、全五章構成の262ページ。
以下、目次を掲げておく。
序章、「政治」と「文学」
● アクティヴィストとひきこもり
● 多喜二のリーダビリティ
● 埴谷のノンリーダビリティ
● 「政治と文学」論争粗描――政治的多喜二像
● 「政治と道徳」としての「政治と文学」
● 政治から遠く離れて――小説家埴谷雄高
● 小林多喜二「と」埴谷雄高第一章、散在する組織
● 零距離の距離感
● 臨場的興奮による団結
● 広義の散在的組織へ――物理的結節点としての『蟹工船』
● 安定的同一性の獲得
● 結節点の内面化――『党生活者』の「義務」
● 非常時共産党の特殊性
● 埴谷雄高の位階制批判
● 「組織者」首猛夫の体験
● 「目的意識」批判――仲介役としての平野謙
● 女性か組織か――多喜二の天秤
● 三つの「距離」と「抽象の体系」
● 福本イズムの「抽象」性
第二章、混在する組織
● 「ひとりぎめの連帯感」
● 不在=権力――代行の論理
● 表/裏の分節――『東倶知安行』の擬制批判
● ひとりじゃない『独房』
● 見知らぬ同志の誕生
● 潜行する成員――『工場細胞』のラムネ
● 潜行成員の特徴二つ――現実の二重化と被監視意識
● 被監視意識の成立――「マスク」の両義性
● 侵食される散在的組織
● 「超人」首猛夫の体験
● スパイリンチ事件――『死霊』におけるスパイの両義性
● 情報化するスパイ
● 忠誠と裏切り
第三章、組織の外へ?
● 埴谷雄高の孤独の発見
● 抽象に寄生する
● 自同律の不快①――相克を抱える自己
● 自同律の不快②――弾劾裁判
● 自同律の不快③――死者の電話箱
● 自同律の不快④――存在=宇宙の発見
● 自同律の不快⑤――細胞論
● 自同律の不快⑥――「不快」の両義性
● 「文学的肉眼」の系譜
● 多喜二の終わりなき世界
● 「循環小数」の絡み合い
第四章、政治「と」文学
● 虚数の世界――未生の子供
● 虚数から虚体へ
● 中心と心中
● 「最後の風景」を超えて
● 「政治」と「文学」の三本柱
● コミュニカティヴな文学
● 読者参加型文学としての「報告文学」
● テクストの傷つきやすさ
● 流通の不安――散在するテクスト
● 「白紙」の特権性――リテラシーとライブラリーの前提
● 選言と連言
● 『党生活者』再考①――禁止された「本箱」
● 『党生活者』再考②――混在するテクストの比喩
● 「か」と「と」
あとがき
本書は文学者の(とりわけ戦前共産党の)政治運動をきっかけに、政治と文学との結びつきを問い直す書物だ。その為に要請されたのが、本書の二人の小説家/運動家だ。今や共産党のアイドルとなり、古くは政治の優位性の思想の元で文学を政治の従属物に替えたと批判されてきた、戦前のプロレタリア作家、政治的な小林多喜二像が一つ。そして、一時期以降、共産党からは勿論のこと、政治全般から退却し、『死霊』という奇妙な小説一作に生涯を捧げ、今も偶像視されることの多い、孤高の文学者埴谷雄高像がもう一つだ。多喜二は政治活動の末に体制側から虐死され、埴谷は生き延び、やがて多喜二を最も攻撃的に批判した『近代文学』の同人の一人となっていく。
戦前共産党の先輩と後輩、非転向者と転向者、政治的文学者と反政治的文学者、アクテヴィストとひきこもり。本書で目指したのはこの極端なコントラストを描いている作家のテクストを使って、政治と文学の結びつきを内容(即ち文学テクストに描かれた政治組織像)と形式(即ち文学テクストの存立そのものに関わる政治性)の面から考察するという文学研究だ。大きくいって前者が第一第二章、後者が第三第四章に対応している。
極めて頭のいい或る日本の批評家は、「近代文学の終わり」を宣言していた。その同じ口が、震災以後、今度は「デモに行かなければ社会は変わらない」と断言した。その機会毎に私が思ったのは、「そんなことはない!」という強い抵抗感だった。在野という(誰の興味の引かない)場所で有島武郎という(有名であるがもはや読まれることが稀になってしまった)作家を研究していることを否定されたように感じた。或いは、国家などよりも己の決定する日々の些細な行動の一つ一つが社会を変えていく力になっていく筈だという我がアナーキズムの信念を冒涜されたような気持ちになった。批評家に対して反論したいのではない。私は只、そのような言説に違和感を覚え、「なにくそ」と思いながら本書を書き進めていた。結果それが執筆の原動力となったことは疑い得ない。
文壇ジャーナリスティックな話題は一切ない。が、それでも、本書はイマココという限定された時局がなければ形にならなかっただろうと思う。研究書の体裁を取りながらも、出来る限り多喜二や埴谷の文章を読んだことがない者にも(少なくとも知的好奇心があれば)読み進めれるように努めて書いたのは、このような同じ「雰囲気」(これは実は本書のキーワードの一つだ)に包まれているのは国文学研究者やコアな文学ファンだけではないと思ったからだ。そして何より私は本書を書きながら、苦しみつつも本当に楽しい日々を過ごした。その喜びは文学研究者だけが占有するべきものではない。あるかけがえない人があるかけがえないものにあるかけがえない喜びを感じることは決して私的にはなりようがないし、なってはいけない。喜びとは公共財なのだ。出来上がった作物にある自身の拙さに関して、落胆する夜もないではなかったが、それでも私は本書が多くの人々に読まれることを切に願っている。
本書の装丁デザインはEn-Sophのメンバーの一人である寺田めぐみ(http://www.en-soph.org/author/xxx999yen)さんに全面的に協力して頂いた。インパクトがありつつも、何処か高級感が漂う、素敵な仕事をしてもらった。そして、寺田さんだけでなく、ここの多くの同人に世話になった。改めて今、感謝している。
(2月20日追記。ようやくAmazonで発売されました。『小林多喜二と埴谷雄高』(http://www.v2-solution.com/booklist/978-4-86476-088-1.html)、税込840円。)
(3月7日追記。序章(http://p.booklog.jp/book/67334)と正誤表(http://www.en-soph.org/archives/24239000.html)を公開。)
(9月3日追記。『小林多喜二と埴谷雄高』Twitter感想集(http://togetter.com/li/556711)をまとめました。)