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Photo by Mitch Walker


「しゃべれないのが一番つらい」
彼女たちはそう口をそろえた。

この前の記事に書いたように、瞑想コースの期間中は会話が禁止されている。
厳密には集合日の夜8時のグループ瞑想からコース10日目の午前中の瞑想が終わるまでのあいだ、コミュニケーション禁止だ。だからその前、センターに到着してその日の夜8時まではしゃべれるわけで、夕食のあいだ参加者たちは話に花を咲かせる。私が座ったテーブルには、他に4人の女性がいた。みんな若く、20代から30代前半くらいの年齢だ。初回参加者が2人、二回目が2人、そして三回目の私。初回参加者は情報収集に余念がない。コース中何が一番大変か?という話題になった時、冒頭のような結論になった。

私はしゃべるのは得意じゃない。英語ならなおさらだ。
しゃべらなくていいのは都合がいいくらいだ。10日目になってもしゃべらなくてもいいように、私はセンターに日記帳を持っていく。コース期間中は預けてしまうが10日目には返してもらう。そして瞑想ホールの周辺で日記を書く。ホール周辺は10日目も会話禁止だ。

私は夕食のテーブルで彼女たちの意見を聞いて、ささやかな疎外感を楽しんだ。


しゃべらない人間というのは、不思議な生き物だ。

 
赤ちゃんや小さな子どもがそうで、あれは単に小さい人間というよりまったく別の生き物だ。ふつうにコミュニケーションする年齢の人間がしゃべらずに共同生活している様子は奇妙としか言いようがない。

去年のことだけれど、夜の瞑想が終わってホールの外に出たら、星が非常にきれいだったことがあった。ふつうだったら、お互いに星がきれいだねといいながら満天の星を楽しむのだろう。でも、しゃべらない女たちは、冷え切った空気の中で黙ったまま、頭を同じ角度で天に向けて立ちつくすだけだった。

人間というより、人間の服を着た何かの動物のようだ。


しゃべらない人間の奇妙さが際立つのは、食事の時だ。


ダイニングホールのカウンターに食べ物が並べられて、各人がそれを皿に取って食べる。ほどほどの量を皿に盛って瞑目してからゆっくり食べ始める人もいるが、山盛りに食べ物をよそい、慌てて食べる参加者も多い。センターでは朝食と昼食しか出ない。夕食が出るのは集合日だけだ。コース中、初回参加者は夕食代わりに果物を食べることが許される。でもコース経験者はお茶だけで食事なしだ。夕飯なしとなれば昼食時にできるだけ食べておこうと思うのも致し方ない。

その中に、私が「がつりん」とニックネームを付けた女性がいた。
私と同年代か少し年上くらいの、アジア系の女性だ。

左手にフォークを持って食べているが、もの凄く不自然だった。右利きなのに、無理に左手で食べているのだろう。左手で食べれば早食いしなくてすむからなのだろうけど、それはあまり成功していなかった。
結局、「がつりん」は、早く食べたいのだ。左手では上手に食べられなくて、食べ物が口に到着する前にフォークからぽろぽろ落ちてしまう。少しでも食べやすくするために皿に顔を近づけた姿勢で掻き込むようにがばがばと食べ続ける。食べ物がテーブルに落ちると右手で拾ってそのまま口に放り込む。

そして、そのあいだ、強烈な貧乏ゆすりを止めることがない。
パワー全開で20分間食べ続けることができる女も、そうそういないだろう。

昼食時、「がつりん」と同じテーブルに座ったことがあった。
この人と同席じゃ落ち着いて食べられないなと思ったので、以来彼女と同じテーブルで食べるのは避けるようにした。その後、彼女と同席した人が食事途中で席を移動するのを、少なくとも二回見た。

「がつりん」は特別すぎるかもしれない。一般化するのは無理かもしれない。
でも、程度の違いこそあれ、食事のマナーが今一歩の女性は多かった。左手はひざの上に乗せて右手だけで食べてる人、片足をいすの座面に乗せて半分あぐらをかいた格好で食べている人、皿の上の食べ物をむやみやたらにつつきまわしながら食べている人...

かわいらしい女の子が、これ以上載らないくらいの食べ物をお皿に盛っている。
あんなにあれこれ盛ったのでは、お料理の味もわからないだろう。

みんなが変人に見えてくる。男性が見たら、幻滅するような光景だ。
(男性用のダイニングホールはこれ以上の惨事になっているのは想像に難くないが、想像しないほうが身のためだろう)

実際に見たことはないけど、女子刑務所の食堂はこんな感じなのかもしれない。


十日目になり、会話が解禁になった。


昼食の時間、ダイニングホールに集まった女性たちは和やかにおしゃべりしながら食事を楽しむ。黙々と食べ物を掻きこむ奇妙な食事風景はもうどこにも見当たらない。

会話しながら食事する彼女たちは、誰も彼もが賢そうに見えた。
「がつりん」でさえ、経験豊かな瞑想者といった趣だ。

女子刑務所なんてとんでもない。
まるで、優秀な学生が集まる女子大学のカフェテリアの様相だ。

私は、こわくなった。

黙っているあいだは、いい。
でも、しゃべっている私は、とてつもなく頭が悪そうに見えるのではないだろうか?

コース参加も三回目だから、話すネタはそこそこある。
同じテーブルの参加者たちともっともらしく話しながら食べるものは食べて、早めに席を立った。


人間を人間らしくしているのは、「しゃべる」という行為なのだろうか?


「沈黙は金」というけれど、しゃべること、どのような方法であれ、意思疎通することの価値を見直す必要がありそうだ。コミュニケーションは人間の宿命だ。
となれば、私の沈黙に黄金の価値があるとは思えない。

しゃべれない人間が沈黙したところで、何になるのか?