動物と人間の差異とは何だろうか。直立二足歩行や言語使用など勿論様々に説明できるが、その一つに継承可能性の有無が挙げられるだろう。勿論、動物にもある種の継承形式は存在する。即ち、(過去と現在との)個体経験の継承と(親と子との)遺伝情報の継承だ。体細胞の記憶と生殖細胞の記憶。しかし人間にはこの二形式に加え、哲学者ベルナール・スティグレールが「第三の記憶」と呼んでいるような、特別な継承形式が存在している。即ち、技術の継承、文化の記憶である。
 
 石板、木の皮、布、紙、レコード、CD、ハードディスク等に保存された何千年前の事柄を想起せよ。人間は本来(即ち動物のレベル)ならば決して知り得なかった、自分は勿論のこと肉親も知り合いも存在していなかった100年、1000年前の記憶を、印刷や録音録画といった様々な技術の力を介することで継承することができる。技術の力とは、言い換えれば物の力だ。物は、生物と違って、そもそも生きていないのだから死ぬことがない。それ故、物だけが、死物にならず、多種多様様々な記号を担い刻み、物体の保存管理を操作することで気の遠くなるような時間を超えた記憶の継承を可能にしてくれる。こうして世代のインターバル、生の隙間を物がパテのように埋めてくれることになる。メディア化する物、即ち物が記憶の環境=中間milieu(mi-は間、lieuは場所を意味する)に生成する。それを私たちは技術と呼ぶのだ。

 技術という環境条件は、文化的創造行為に大きな役割を果たしていることは明らかだ。展覧会や美術館が若き画家に、古本屋が若き作家に、大学図書館が若き研究者に、どれ程のインスピレーションを与えてきたかはわざわざ言う必要はないだろう。インスピレーション、即ちspirite(精神)を吹き込むことができるのは、生きてもなければ死んでもない物のアレンジメントなのだ。正にスティグレールに大きなインスピレーションを与えた哲学者ジルベール・シモンドンは『想像力と発明』の中で次のように述べている。

「もし創造créationが作り手である生物のアクティヴィティーから独立した仕方で意味があり意味を持つことができる物choseの構成を意味しているならば、動物の社会に欠けているのは諸対象objets創造の力能であって組織巧みな自然発生性の能力ではない。諸対象創造は進歩を許す、一方から他方への支え、先行するものを総括したより最近のものを獲得する発明の織物tisssuである」(第四講)

 もしも生物の活動力から独立した(つまり、生物の意図や意識を問わず存立する処の)、物を生むことが創造という行為ならば、動物たちには創造行為が殆どない。それは物と生物とを独立させることができないからで、物(対象=オブジェobjet)は先行する時間と後続する時間の蝶番のように、人間的継承形式を確保する。「発明の織物tissu d'inventions」には近々のものは勿論、太古の糸が既に織り込まれている。

 勿論、動物にも世代を超えて継承される物がないではない。シモンドンは巣や領土(テリトリー)の一時性に比べて経時的に機能しうる「支持材support」について言及している。

「巣や領土の組織化はそれを構成した対やグループと共に消える。少なくとも先行世代によって構成され分泌された対象の保存は後続する世代の組織化された支持材(珊瑚礁、森の腐葉土)として最大に効果的であることは最も基本的な作法formesである」(第四講)

 幾度となく重なり合う形式formeは、formes、即ち作法やしきたりに等しいものとなる。珊瑚礁とはイソギンチャクやクラゲの仲間であるサンゴ虫の堅い骨格の集合体が作る特別な地形であるが、その歪形と多空孔の空間は小さな生物の棲家として、そしてそれを食べる大型生物の捕食場として利用され、生物多様性の舞台として機能する。腐葉土も同様で、落ち葉を分解するバクテリアやミミズといった土壌動物によって生まれた自然の肥料は、動植物の成長に最適な生活圏を提供する。このように、先行世代が生んだ物やその死骸が、現行世代の生に役立つことはある。

 しかし、この「重複的」(先行と現行の)効果が「明確で決定的な仕方で、続いて再び現れるのはヒトの種を伴うか文化の為に意味をもって創造された対象の形になるかだけである」とシモンドンは指摘する。

「一方の文化、他方の対象の産出、前者と後者を独立させるている限り、確かな進歩はない。創造された対象は明らかに取り外し可能détachableであるかのように組織化された現実的なものの要素である。何故ならば要素が生じるのは対象利用を許す創造の場所からも時間からも遠ざかった文化の中に含まれたコードに従ってであるからだ」(第四講)

 潜在的なレヴェルに文化の層、比喩的にいえば〈文化の腐葉土〉が足元に広がり、そのコードに従って、顕在的なレヴェルで対象創造(産出)が展開される。人間は時間を掻い潜るこの創造体制を確立している。その内実は、創造物は「現実的なものle réel」を経時的に要素変換する混在の形式を設定する処に認められ、それを支えるのは物と創造者との寸断なき接触(タッチtache)の関係に、時間的にも空間的にも取り外し可能性détachabilitéを導入する人間の技術環境である。空間の取り外しは普遍性を、時間の取り外しは非時間性を対象にこめる。その非時間性は永遠性と言い換えてもいい。

「創造された対象の普遍性universalitéと非時間性intemporalitéの性格は多かれ少なかれ高い度合いで顕示されることがある。というのも、文化は社会と共に変化するからだ。対象それぞれや作品それぞれは与えられた時代に限定された拡散のエリアをもっている。しかしながら、創造された対象には創造する主体の内的感情に対応する、普遍性と潜在的な永遠性が存在している。創造する主体はトゥキディデスの表現に従えば、《永久ノ持前ktéma es aei》を、或いはラテン語の詩のように表明すれば《我ハ完全ニ死ナズNon omnis moriar》、《私は完全には死なないだろうje ne mourrai pas tout entier》を生むつもりなのだ。たとえ創造された対象の個体性が継起的な発明の間に保存されずとも、この潜在性は図式や要素の形になって後続の作品や創造に再び取り入れられる絶えざる可能性として成立する」(第四講)

 死すべきものを意味する英語mortalは、端的に人間を表す言葉だ。然り。人間は動物のように死ぬ。しかし、その領分を越えて人間は(恰も神のように)永遠を欲しもする。当然のことながら、どんなに頑張っても「完全に」生き続けることはできない。しかし、と技術は留保をつける。即ち、取り外し可能な、接触から切断された創造物を文化の腐葉土に保存しておくことによって現世での「永久」を目指すことができるのだと、技術は耳元で囁くのだ。文化の腐葉土は現今の様々な創造物を支えている。それは別にインスピレーションやリスペクトといった分かりやすい形に限定されない。例えば、「図式や要素」の形になって先行の創造物は一種の傾向性として、非意識的に、後続の創造行為に寄与することになる。技術は創造の形式のベースとして、巨大なアーカイヴを提供するのだ。

 落ち葉の雨は今も昔も私達に降り注ぐ。断言しておこう。この世に無駄な創造物など一切存在しない、残念ながら。大きい小さい、軽い重い、赤い黄色い、心形腎形へら形、様々な葉が降り注ぐものの、全ては〈文化の腐葉土〉に着地し、その内部で分解処理され、要素分配され、そのアレンジメントが新たな若芽を育んでいく。落ちて、分かれて、生えて、また落ちること。永遠回帰するのは魂ではなく技術の蔵庫に仕舞われた物たちの蠢きだ。