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   Photo by Sara Gartlan

山の中の瞑想センターで年末年始を過ごすのも三回目になった。
初めての時のような、未知の世界に放り込まれてアイデンティティを失うような衝撃はもはや期待できない。あの時は誰も私を知らなかった。私も、誰も知らなかった。でも今回は、コースに参加するため集まった60余名の女性の中にも、コースをサポートするメンバーの中にも、私を知っている人がいる。逃げも隠れもできない。自分自身と深く向かい合うことになったのも自然の成り行きかもしれない。

最近は瞑想を始めたきっかけをいちいち考えることもない。2010年に瞑想を始めたのは、そもそも自分の心をよく知りたいと思ったからだ。人が死んだ。もし私が自分が本当に望むことを自覚していれば、それは防げた、そうでなくても今一度その人に会う機会があったかもしれない。そう思うと頭がおかしくなりそうだった。だから今回のセンター滞在で自分を見つめることができたのは、自分自身が望んでいたことではないのか。それは魅力に乏しい地道な行いだ。ドラマも何もない。


私がやっている瞑想はヴィパッサナ瞑想というインド起源の瞑想法だ。コースは瞑想法の説明と練習が中心で理論や生活指導はあまり重視されない。それでも毎晩講話の時間があり、ビデオに収録された1時間15分くらいの講話を聞かされる。お釈迦さまが実践していたという瞑想法だから、当然仏教の理論とかぶる部分が多い。



お釈迦さまは、生きることは苦であると説いたという。すべては苦しみで(一切皆苦)、生まれること、老いること、病気になること、死ぬことは苦しみだという(生老病死)。これはアメリカのポジティブ・シンキングの伝統とは対照的だ。ポジティブに考えよう、生きていることは苦しみだらけだと愚痴ったところで何になるだろう。多少無理があっても、生きることは楽しい、老いることだって悪くはない、病になったらそれとうまく付き合ってゆけばよい、人間が死ぬのは生物である以上どうしようもないと考えていたほうが幸せだ。これは生活の知恵だ。

講話で説明される理屈は違う。生きていることはそもそも良くないことなのだ。それじゃ死ねというのではない。解脱しないといけないのだ。正直言ってここまでくると私も本気で信じていない。ただこの瞑想コースのよいところは、理論で同意できない点があれば無視していいことになっていること。だから、私も適当に受け入れている。それでも、生きていることは苦しみだらけというのは実感が湧かなかった。

お釈迦さまはパーリ語で説教したといわれている。パーリ語のドゥッカDukkhaという言葉が「苦」に相当するが、これはものごとに満足できない、思いどおりにならないというという意味があるのだという。生きるのも、老いるのも思い通りにならない。望んで生まれてきたわけじゃない、気がついたら生まれてた。老いるのは仕方ないが、できるだけ若々しい身体と精神を維持したい。でも白髪は出てくるし、そもそも仏教だの瞑想だのに興味を持つこと自体年寄りくさい。なるほど、思い通りにはならない。でもそんなことをいちいち不満に思わない努力はしている。それならそれでいいじゃないか。



でも今回、思い通りにならないと心底実感したのは自分の心だ。アメリカはコミュニケーション重視の国、言った言わない、どんな言葉を使ったかが問題になる。裏を返せば、言葉や行動で表現しなければ、殺人計画だろうが何だろうが考えるのは自由だ。でもお釈迦さまの教えは違う。正しいことを考えないといけない。そんな作為的なことをする気はもとよりないけど、コース期間中に自分が他人の行為を無為に批判し続けていることに突然気がついてしまったのだ。

コース中はコミュニケーション禁止だ。これは瞑想に集中して取り組むためで、携帯電話はもちろん持ち込み禁止、音楽プレーヤー禁止、書籍・筆記具も禁止、そして身振りやアイコンタクトも含めて会話は禁止だ。必然的に自分の心に目が向きやすい。そして気がついた...  私はずっと他人の行為を批判し続けていた。どうしてあんなに食事のマナーが悪い人が多いんだろう?男性の目がないから気も使わないんだろうけど、見苦しいことこの上ない。どうしてみんな宿舎のバスルームの掃除を手伝わないんだろう?得を積めという講話を聞いても何にもなっていない、ほんとうに嘆かわしい... 

サルが木から木へ飛び移るように、取り留めのないことを考え続けることをモンキーマインドという。私の心のサルは汚い木からまた別の汚い木へ飛び移っていく。生産的でも建築的でもない、ガラクタみたいな文句の羅列。だいたい、批判している自分はどうなんだ。私の態度を、優等生ぶっていると苦々しく思っている人もいるんじゃないのか?自分に忠実ではない、わざとらしさの塊、目障りでうっとうしいと... もしそうなら、それはどのように自分に跳ね返ってくるだろうか... 自分の心を追うだけで疲れきってしまった。ドゥッカとはこのことだろうか。これが一生続いたら、なるほど悲惨だ。



たとえ自分の心でも、心をコントロールすることには抵抗がある。正直であるというのは、心が素のまま、自然であるということではないのか?心をコントロールすることは、欺瞞ではないのか?あるいは自然な心というのはむしろ素材で、やはり磨く必要があるのだろうか?誰でもそうだと思うけど、私の心の底にはいやな思い出がヘドロのように積もっている。何十年も思い出すのもいやな記憶がまだ心の中にある。それは今の私の出発点と言えなくもない。でもその汚物を掃除したほうがよいのだろうか?そんなことをしたら、私はどうなってしまうのだろうか?初めて瞑想センターに来た時のように、自分を捨ててしまえばいいのだろうか?

汚い今の自分への執着を捨てないと、どうにも前に進めない。「きれいな自分」なんて気持ち悪いが、汚いのが好きというのもあまり気色のいいものじゃない。自分を捨てる、執着を捨てると頭でわかっていても情緒的に納得するのは難しい。実をいうとこの問いをコースの指導者に投げかけたことがあった。

答え:毎日きちんと、朝晩一時間ずつ瞑想しなさい。

いいさ、すぐに答えが見つからなくったって。私は身体は丈夫だ。どう間違っても、あと30年は生きているだろう。時間はたっぷりある。瞑想する理由がひとつ見つかって、ほのかにうれしい気もするのだ。