何がなんだか知らないが、気がつけば、落ちている最中だった。
 一方で、周囲の風景は、ただひたすら上昇していく。
 しかも、高速で。
 どのくらいの高さから、どのくらいの低さへと落ちているのか、よくわからない。
 余程高いところから落ちているようで、一向にどこへもたどり着かない。
 落下速度は徐々に加速しているようだった。だが、しばらくするとそうでもないような気がしてくるのだった。
 だが、高速は高速に違いなかった。
 

 このまま、どこかへ衝突したらその衝撃で身体はペチャンコになるだろう。手足が吹き飛んで、体は裂けるだろう。骨は砕けるだろう。落下で蓄えてきたパワーと地上の固さパワーの狭間で内蔵は圧し潰され破裂するだろう。
 ふと、子供の頃に住んでいたマンションの最上階から、水風船を投げて遊んでいたことを思い出す。
 無人の路上で静かに爆発して飛散する水のかたまりの一瞬を、ジッと眺めているのは好きだった。テーブルから落ちた完熟トマトや、鍋から床にこぼれたミートソースのことも思い出した。しかし、そんなベタベタな衝撃のイメージを想起していても、一向にどこへもたどり着かない。
 あぁ。このまま死んでしまうのだろうか。
 ちょっと悲しくなる。
 いい人生だっただろうか。それもまたよくわからなかった。
 でも仕方ないか。人間いつかみな死ぬ、死においてのみ人間は平等。
 とか、妙に達観しはじめる自分がおかしくて楽観的な気分になる。
 これも死の恐怖を本能的に誤魔化そうとしているからだろうか。そうに違いない。ゼッタイにそうだ。なんだかそんな話を見聞きしたことがあるぞ。人は恐怖を感じたときこそ笑うとか。ああ怖い。しかし、いたずらに恐怖を募らせても、一向にどこへもたどり着かない。
 どこへ行くのかも気になるが、そもそもどこを落下しているのか、落下している本人がよくわからなかった。
 少しでも風景が眺められたら、もっと落下も楽しいはずだ。
 だが、流れていく風景は、ただひたすら上昇していく。

 次第に自分は落ちているのではなく、果てしなく昇っているのではないかと思うようになる。
 ある持続的な運動に長時間さらされていると、人間はどうやらまともな感覚が麻痺してしまうらしい。
 しかし、そうすると、どうしたものか、気持ちが軽くなる。持続的運動の只中にいるという状況は何ひとつ変わらないのに、落下よりも昇天のイメージのほうが気持ちが明るくなるとは単純なものだ。
 あるいは、星の光の如く、ある地点からある地点へと得体の知れないスピードで解き放たれているのではないかと想像する。これはあれだ、ワープだ。ワープを実際に体験するとはこういうことなのだなどと興奮しはじめる。だが、しばらくすると、やっぱり落下の現実を再認識し、落胆するのだった。
  
 落ち続けるのにも飽きはじめた頃、何かにぶつかった。
 海だった。
 くっ苦しいっ、と思ったら、不思議なことに全然苦しくない。
 苦しくないが、動くことも出来ない。
 そして、また黒い海の深くへと、吸い込まれるようひたすら落ち続ける。