西武新宿線・新所沢の駅前と言った場合、わたしはパルコがあるほうの西口をすぐに思い浮かべる。西口の改札を出て階段を降りると、すぐ左手に鯛焼き屋があって、そこの鯛焼きを買って食べるのが楽しみだった。それは中学受験のため夕方から夜にかけて学習塾に通っていた小学6年の頃だったから、もうすでに20年が経過している。それはともかく、西口の改札から待ち合わせしたパルコ1階のロッテリアまでは歩いて5分くらいである。ぼんやり歩いてもすぐに着いてしまう。
わたしはゆっくりと駅前の道路を横切ってロッテリアに向かった。店に入るとすでに中村さんは来ており、わたしは何とも言えない安堵感を覚えた。しかし、これから自分が一度死んでいるという話をすることを考えると、何か場違いであるような落ち着かない気分になった。わたしはポケットに入っている箱からタバコを一本引き抜いて、100円ライターでそっと火を点けた。タバコがからだに悪いことは知っているが、心を落ち着ける作用があるからいつまで経っても止められないのだ。
「きょうは何か話したいことがあるそうですが、それはさえきさんの実存にかかわる話だと思って、間違いないですか」。中村さんは、わたしが席に着くとわりとすぐに話しはじめた。わたしは「そうですね。どうしても、そういうことになりますね。もしご迷惑ならあまり長くならないようにします」と答えた。中村さんは、訝しげに「いやぁ、そう簡単に終わる話じゃないでしょう?」とやや笑顔でわたしに応じる。「そうかもしれません」。きっと中村さんには話の展開がある程度読めているのだろうと思わずにはいられなかった。
「中村さんは自分が、過去のある時点で死んでしまって、いまある自分がかつて存在した自分とは別個の存在になっていると感じたことはありますか?」
「いや…、それは無いですね。ただ、そういうふうに言う患者さんには結構会ってきましたから、うーん、こういう言い方は良くないですね。きょうは休みだからか、ついつい気を抜いてしまいます。 そうだな……、さえきさんが感じているその感じ……、分かりますよ」
「そうですか。なんというかね、うまく言葉で言い表せないんですが、こう自分が何か人間の脱け殻になってしまったような、そんな感じなんです。本来の自分を、どこか遠くに、置き忘れてきてしまった感じとも言えるかもしれません。問題は、もうその自分を取り戻すことはできなくて、脱け殻になってしまった自分をひとそろい抱えて、生きていかねばならないということなんです!」。わたしの語気はついつい荒くなる。
「なるほど、良く分かります」
「しかし、問題はその脱け殻になってしまった自分を何らかの方法で肯定的に捉え直すことができるのかどうかなんです」
「そうですか。自分を肯定的に捉え直すことができるのかどうか、不安なんですね」
「はい。いまわたしはかつての自分の脱け殻を抱えた何の意味もない生命体に過ぎません…。さらに言えば、自分だけではないのです。世界に対しても何一つ意味や価値を見出だせないのです。まるで生きながら死んでいるかのようです」
「生きながら死んでいるかのよう…。それは、きついでしょうね、精神的に」
「きついですね。ただ死んでいるだけのほうが、どれだけ楽か分からないくらいです。といっても、ただ死んでいるだけの状態なんて知覚しえない訳ですから、この表現はいささかナンセンスですがね…」
中村さんは少し黙ってから、こう続けた。
「自分が死んでしまって、その脱け殻を抱えているような感じは、いつからあるのですか?」
「もう半年くらいになりますね」とわたし。
「そう感じるようになったきっかけはありますか。もし苦痛でなかったら話してみてください」
「鬱がひどい時に、時間も空間も失って、意識だけが妙に研ぎ澄まされて存在するようなことがあったんです。ただひたすら死にたいという気持ちがみぞおちのあたりにめりこんで、自分自身を見失いそうになるんですが、なんとかそこにしがみついて、死にたいけれど死ぬ勇気はないので、虚ろな気持ちで時が流れるのを待つんです。主観的には時間も空間も失っているので、厳密には習慣的な時間感覚からは疎外されているような感じで、時間が経っていく認識すら無いのですが、ふと時計を見ると軽く2、3時間が過ぎていて驚くのです」
「そうですか」
「その時の何とも言えないひどい感じからは、抜け出せたような気がしていますが、最近はそれも不安で、いてもたってもいられないような気分に襲われることが良くあります」
「そういう時はどのようにやり過ごすのですか?」
「ひたすら横になっていることが多いですね。おかげでこんなに太ってしまいました」。わたしは妊婦のように突き出た腹をかるく揺すった。
「寝ているのは良くないな。ずっと寝ていると全身の筋力がじょじょに落ちていきますからね。そこから、もとあった体力を取り戻すのは楽ではないですよ」
「そうですね。わたしもそう思います。でも、そう思えないことのほうが多いんです。なんとかやる気を出さなくちゃいけないと思っても、なかなかうまく行かないんです。糸の切れた凧のように、わたしの魂は辺土をさまよっているんです。わたしはそれをどうすることもできないんです。無力……、そう無力ですからね」。わたしは思わず感情を込めて話していたようで、知らぬうちに両の目に涙を溜めていた。
「さまよえるさえきさんの魂…。それは鳥餅で取り返せるでしょうか?」中村さんは静かに言った。
(つづく)