◆ 遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
新年早々、放射能とか原発とかヤメてくれよというご意見もあるでしょうが、年末だろうが正月だろうが一時たりともヤメられないのが福島の方で行われている事故収束作業なのであり、従って、TEPCOに業務委託及び監視するサイドの我々も、一時たりとも考えるのをヤメるわけにはいかない、という次第なのです。もちろん、現実的にそんなことは不可能なので、「せめて、フリだけでも」ということですが…。
◆ で、件名の映画なのだけど、いやあ、酷かった。開口一番、ストレートに、その言葉しか出てこない。あまりにも酷いので、本当は年内にごく端的な「注意喚起」(こんな映画を観るのはヤメましょう、ということ)を書いておきたかったぐらいなのだけれど、結局、年をまたいでしまった。正月には、手をつける気になれなかった。
滑りに滑ったカリカチュア、あるいは安いホラーとしての「力作」
◆ 改めて繰り返すが、監督本人の意気込とは全く異なって、「希望の国」は、ひどい失敗作、ろくでもない映画だった。少なくとも、ぼくはこう断じざるを得ない。
「ヒミズ」後にあれを撮ってしまったことにより、ぼくの中で園の評価は大きく大きく下落し、かれへの認識を改める必要性を感じた。好きな監督だっただけに、残念さと苛立ちは大きい(まあ、こんなことになるんじゃないかという予感はあったが…)。
◆ 映画は【東日本大震災から数年後の20XX年、日本】の【長島県】に存在する【長島原発】(この名前のセンス!)が「またも」の地震と津波によって過酷事故を起こし、漏れ出た放射性物質によって人々の生活が破壊され、翻弄される悲惨を描いている。
言うまでもなく、映画で展開される物語は震災以後、原発を巡って右往左往し続ける日本人と日本国の有様であり、園が観察し、表現した【ぼくらの】姿だ。
◆ 劇中では、福島原発の事故による【被害】として実際に報道され、TwitterでRTされ、Facebookで共有されまくったエピソードがあれやこれやと描かれる。
情報開示の曖昧なまま行われる強制避難。家族離散と被曝者差別。【被曝した】という体験の理解や解釈の差異から生まれる【不安の温度差】と、温度差をめぐる人々の対立、偏執、孤立。政府や行政への強い不信と疑心暗鬼。そして、さらなる自主避難…。
◆ 「希望の国」が下劣無残なのは、いずれも激しくカリカチュアライズを施されたそれらが、正視に耐えないほど上滑りに滑り倒した、異常に表層的なものだからだ。誇張は事象への批評性を獲得するのではなく、役者の【熱演】は、殆どがただ悪趣味でグロテスクな猿芝居にしかみえず、不快さがつのるばかり。
◆ 特に、被曝に怯えて放射線心身症と診断され、いわゆる【放射脳】に陥った妊婦(神楽坂恵)の【怪演】は、安いホラー映画としてなら拍手ものかもしれないが、あれ?いま観ているのは、いったい何の映画だっけ?
…この調子で、最初から最後まで、観者(ぼく)の頬は、醒めた苦笑に引き攣りっぱなしたところから、戻らない。
空想と、薄っぺらさと、「不誠実」
◆ しかし、園は映画公式ウェブサイトのインタビューで次のように語っている。これをはじめて読んだときの開いた口の塞がらなさは、いまも鮮明に覚えている。
――興味がより原発の方に向いたのはなぜですか。
原発には復興のめどがたたないという問題があるからです。原発は誰にとっても重要な課題だと思います。誰もが知っている事柄を深く掘り下げたかったんです。原発事故によって一家離散した方の話や、酪農家の方が自殺した話はいろいろなところで報道されましたよね。ニュースやドキュメンタリーが記録するのは“情報”です。でも、僕が記録したかったのは被災地の“情緒”や“情感”でした。それを描きたかったんです。
――実際に被災地で取材を重ねたそうですね。『ヒミズ』を撮影した石巻や、福島に何度も行きました。そこでいろいろな町の役所の方や、避難所で生活している方たちの話を聞いたんです。そこから少しずつシナリオを書き始めていきました。今回はセリフもシーンも、なるべく想像力で書くことはやめて、取材した通りに入れようと思ったんです。勝手に書いた嘘は薄っぺらいだけですからね。空想して書くことは控えようと思いました。
◆ 原発にこだわっている人間だと自称していながら、もし本当に、あれが園の感じた被災地の【情緒】とか【情感】であるならば、「誰もが知っている事柄を深く掘り下げた」のであるならば、この人の現実認知は呆気にとられるほど表層的であり、脳が記号化、パターン化しているとしか言いようがない。
◆ でも、さすがにそこまで素朴なはずはない。もっと【不誠実】なものが根底にはあるのだろう。つまり、原発も、福島=長島も、目の前にどのような光景が出現しようが、避難者や被災者が何を喋ろうが、はじめから答は決まっているし、あらかじめ自分が持っている記号的イメージのフィルタをかけて処理してしまうつもりだった、ということ。
「勝手に書いた嘘は薄っぺらいだけですからね。空想して書くことは控えようと思いました。」と語る監督が【書いた】ものが、まさにただ単なるスクリプト、【空想】と何ら変わらない「嘘」になっているのは、【不誠実】を考えなければ説明が付かないたぐいの悪い冗談だ。インタビューで語られる以下の発言を読むと、はっきりとそれが分かる。
――「見えない戦争」というセリフが登場しますが、“3.11以降”の日常に対する園監督の認識が、そのようなかたちで提示されていると思いました。
別にメッセージ性のあるものを作りたかったわけじゃないんです。政治的な映画を作りたかったわけでもありません。原発がいいか悪いかという映画を撮っても、それは映画としてあまり有効でないような気がします。映画は巨大な質問状を叩きつける装置なんです。だから、そこで起きていることを認識して、ただ映画にするだけで十分でした。そうすることで、見えてくるものがいくつもあるんじゃないかって。取材した場所の中には、もちろん壮絶な被害を被ったところもありましたが、一方でとても落ち着いている場所もある。だから、センセーショナルなものとして描きたくはありませんでした。
◆ 否定の言葉とは裏腹に、どう好意的に解釈しようとも、園が「メッセージ性のある」「政治的な映画」を、「原発がいいか悪いかという映画」を撮りたかったのは明らかだ。
(ひょっとしてひょっとすると、あまり意識的ではないのかもしれないが、まさか…)。
◆ 【有効】だと考えているからこそ、「そこで起きていることを認識して、ただ映画にする」ことを選択しなかったのだ。劇中のエピソードが、訴えのシリアスさが纏う衣とは裏腹なものを見せるのも、下品に言ってしまえば【反原発】という硬直したプロパガンダへ従属しているからなのだろう。
◆ 少なくとも、多くの観客はそう受け取った。だからこそ、「感動した」とか「胸が苦しくなりますが、観て下さい」とかいう感想がwebを飛び交っているし、「原発事故はこんなにむごい」というプレゼンに使われ、さらにそうしたものに対して、このエントリが書かれている。
(そんな悲惨のなかで、名優、夏八木薫と大谷直子の演じる、【汚染された故郷を捨てない】老夫婦の姿だけが映画唯一の美点なのだが、老いや死へのより普遍的な問いかけを含む二人の関係性は、このツギハギの物語とは無関係なところで観たかった。インタビューでは「家族の映画」「愛関係や職場の関係に興味がないので、自然と血のつながった関係性に興味が行ってしまう」として、夫婦についての言及はないが、やたら強調される父子関係がどうにも浮き上がっているのに比べて、はるかに印象的だ)。
「誰も観たくない」、【劣化コピー】としての【フィクション】
◆ さらに、園は金銭的な支援不足について愚痴っているが、ここでも大きく勘違いしていると思う。
製作的には、資金調達がこれまで以上に大変でした。やはり、いまの日本ではこういった映画を作ることが困難なんだなと。みんなでがんばって前へ進もうという作品なら違ったのかもしれませんが、暗部を見せるものにはみんな尻込みする。ただ、そうでなければやる意味がないですからね。最終的に、海外資本の協力を得ることになりました。
◆ 違うんだよ、「希望の国」に資金が集まらなかった(?)のは、「暗部を見せる」とか関係ないんだよ。単に、誰も観たくないようなシロモノだと判断されたからだ(でも、結果としては【ヒット】しているんじゃないの?)。ぼくは料金を払ってこの映画を観たことを後悔したし、制作費自体が無駄金だったと思っている。大規模な自然災害と同時に起きた原発事故で国土に「立入禁止区域」が発生し、住民があちこちに避難したうえ、原子炉の封じ込めと汚染除去を行う収束作業は数十年の単位に及ぶ。
◆ こんなSF的な【現在】が続く状況を前に、その劣化コピーみたいな【フィクション】がどれだけの説得力を持つというのか。
◆ 「希望の国」を観た日の午前中、舩橋淳監督によるドキュメント「フタバから遠く離れて Nuclear Nation」を先に観ていたので、余計に前者の痛々しさが際立った。現実の【避難者の声】がもつさまざまな(ときに矛盾を孕む)感情の振幅や含みと比べれば、園の書いた台詞/言葉がいかに【空想】なのか、「勝手に書いた嘘は薄っぺらい」のかを示していた。それはもう、殆どいたたまれないぐらいに鮮烈なものだった。
【写実主義】と、【説得的な虚構的描写の不可能性】
◆ 「希望の国」の無残な有様は、作品自体を超えて、いまの日本が陥っているような事態に対し、いかなる【フィクション】であろうとも意義を欠くのではないか?という疑念を芽生えさせもする。虚構による語りの無力、その【有効性】に関して、前回のエントリでボルタンスキーについてGoogle検索をしていた際、下記サイトで港千尋とスラヴォイ・ジジェクによる興味深い発言を見つけた。
…港千尋『映像論』(NHK出版、1998年)は、ドキュメンタリー映画『ショアー』(クロード・ランズマン)を取り上げ、実際に肉体的に起きた「記憶の抹消」を顧みない記録映像の使用を「特権的な態度」だとしている。
『ショアー』は記録映像を使わず、かつて起きたことの想起という営みによって作られているのである。一方、スラヴォイ・ジジェク『ロベスピエール/毛沢東 革命とテロル』(河出文庫、2008年)においては、アドルノの言葉「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」を匡そうとしている。アウシュヴィッツ以降に不可能になったのは詩ではなく、散文だという指摘だ。「アウシュヴィッツで起ったことについての説得的な虚構的描写を制作するよりも、アウシュヴィッツについてのドキュメンタリー作品を観るほうが楽なのは、なぜだろう?(略)ドキュメンタリーの写実主義は、したがって、虚構に耐えることができなくなった人びとのためにある。その重さ、それはあらゆる物語的虚構で作用しているファンタジーの過剰である。収容所という耐え難い環境を詩〔創造〕的に喚起することが正鵠を射ているのだ。それに失敗したのは、写実主義的散文のほうである。」
◆ 「ドキュメンタリー作品を観るほうが楽」かどうかはさておいて、「あらゆる物語的虚構で作用しているファンタジーの過剰」が震災以後の【原発】を扱おうとしたある種の【芸術】を歪ませ、「説得的な虚構的描写」を困難にしていることは明らかだ。
◆ ここでは詳細な具体例へ立ち入る余裕はないが、ひとまずショアーのランズマンがシンドラーのリストに浴びせた「出来事を伝説化するものだ」という非難は、「希望の国」に対しても完全に当てはまる。数々の震災ドキュメントが、ドキュメントであるという担保によって【伝説化】の罠を逃れられるわけではないが(ドキュメントも、場合によって十分に物語的虚構足りうる)、【写実主義】は、ぼくにとって【虚構】よりはるかに価値あるものだ。
「これで終わり」でかまいません。「まだ」もいりません。
◆ さて、ここまで延々と【悪口】を続けてきたのだが、まだもう一つだけ言っておかなければならない。先ほど長々と引用したインタビューの最後で、恐ろしいことに、園は続編に言及しているのだ。
…この映画を撮り終わったとき、まだこれで終わりにはできないと思ったんです。放射能の映画、福島の映画は、まだ撮っていかなければいけないなと。3部作になるというわけでもないし、近いうちに次を撮るのか、それとも少し距離を置くのかもわかりません。ただ、おそらくテーマとして今後も抱え続けていくのだろうなと思っています。
◆ いえ、いえ、もう「終わり」でかまいません。「まだ」は不必要です。親族に被災者がいるのと同時に、「冷たい熱帯魚」を高く評価する身としては、「テーマとして今後も抱え続ける」のは心底、勘弁して欲しい。
それよりは、主犯が自殺してしまったとはいえ、尼ヶ崎事件の方が絶対あなたに向いていますよ。「恋の罪」だって成功したんですから。そう思いませんか?