曽野綾子問題で不思議に思うのは、どうしてこれほどまでに(一部の?)人々はテクスト論を理解しようとしないのだろうか、ということだ――後日譚としてラジオでのインタビューの文章も参考になる――。テクスト(端的に言葉といってもいい)は作者の意志や意図を離れて流通する。読者は特定の共同体で囲わない限り、メディアが大きくなればなるほど、作者の来歴や思想傾向や心情=真情を斟酌しない。し、たぶん、するべきでもない。
いや、時評などしたいわけではない。そういう営みは、日々のニュースを咀嚼するのに必死なコメンテーターや新聞購読者に任せておけばいい。私が言いたいことはとてもシンプルだ。つまり、恋することというのはとても大切なことだ、ということ。
一転して。ご存知かどうか知らないが、私は一貫して、友愛でもなく性愛でもなく恋愛に興味のある男であり、常に恋愛のことについて考えているのだが、どうしてそうなってしまったのかをボンヤリ考えてたら、ついに答えが出た。簡単にいうと、恋愛において人は初めてテクスト論者になれるのだ。
いや、時評などしたいわけではない。そういう営みは、日々のニュースを咀嚼するのに必死なコメンテーターや新聞購読者に任せておけばいい。私が言いたいことはとてもシンプルだ。つまり、恋することというのはとても大切なことだ、ということ。
一転して。ご存知かどうか知らないが、私は一貫して、友愛でもなく性愛でもなく恋愛に興味のある男であり、常に恋愛のことについて考えているのだが、どうしてそうなってしまったのかをボンヤリ考えてたら、ついに答えが出た。簡単にいうと、恋愛において人は初めてテクスト論者になれるのだ。
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