2014年05月

 来る六月一日、梅田の某レコード店でハルカトミユキの3rdEP発売記念ミニライブが開催される。もちろん私も参加予定(彼女たちのライブを観るのは二月のワンマンライブ以来)なのだが、一つ、悩ましいことがある。
 
 サイン会の存在だ。
 握手会ではなく、サイン会だ。 » すべて読む
フォイエルバッハ
(↑宇都宮芳明『フォイエルバッハ』、清水書院、1983)

 ルートヴィッヒ・A・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach,1804‐1872)。宗教哲学者。ベルリン大学でヘーゲル哲学を学び、そこからヘーゲル批判を徹底して自然を基礎とする宗教的人間学を唱える。カール・マルクスに大きな影響を与えた。主著は『死と不死にかんする思想』(Gedanken über Tod und Unsterblichkeit, 1830)、『キリスト教の本質』(Das Wesen des Christenthums, 1841)。『神統記』(Theogonie nach den Quellen des klassischen, hebräischen und christlichen Altertums, 1857)。その他多数。
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承前

 


 前回は、『POOL』で歌われる「いやいや」に着目し、「書かれた言葉」と「歌われた言葉」との断絶を見た。
 今回は、前回予告したように『MONDAY』における「書かれた言葉」と「書かれた言葉」との間に表れる断絶に焦点を当てたい。
 
 前回同様、以前に書いた文章から引用する。 » すべて読む
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写真:【チェユクチョン(Deep frying)】作成、撮影、東間 嶺以下全て同じ



パク・ミョンは懐かしい香りを嗅いで、ふいに故郷の村の風景を思い出してしまった。チェユクチョンは、昔母が何度か作ってくれた料理だ。パク・ミョンは、江原道平康近くの、名前のない小さな村で生まれ育った。豚肉はまず党に供出しなければならず、本当に特別なときでなければ食べられなかった。祖父が解放戦争で戦死していて成分は申し分なかったが、両親ともに果樹園で働く労働者で、家は貧しかった。パク・ミョンが五歳のとき弟が生まれて、そのお祝いの席で生まれて初めてチェユクチョンを食べた。

(村上龍『半島を出よ (上)』、幻冬舎文庫、2007年、P293)
 

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 日々の生活はまったく変わらないにもかかわらず、この四月一日をもって、私はどこにも属さない存在となった。
 どこにも属さないこと、つまり、大学を卒業するということは、何よりもまず奨学金が入ってこなくなるということを意味した。 » すべて読む

承前

 歯切れのよさに回収されない「ハルカ」の言葉。
 
 今回は「嘆き」という側面について書いてみたいと思う。
 まず、私がかつて書いた文章を引用する。 » すべて読む
 
 ハルカトミユキに『Vanilla』というタイトルの曲がある。

 長らく私はなぜこの歌のタイトルが『Vanilla』なのかまったくわからなかった(もちろん、今でもよくわからないと言えばよくわからない)。

 しかしながら、福島遥のある短歌を目にしたとき、私はハッとした。 » すべて読む

”マイクロフィッシュ”

デジカメやスキャン、ハードディスクなどの記録媒体にほぼどんな情報も収められる今日では、普段の生活で見かけることはないだろう。図書館などで、電子化され損なった程度に古い新聞記事を閲覧する時位しか利用する機会を思いつかない。

テキストやイメージなどの画像情報を縮小する試みは写真の発達と共にあった。
複数の情報をなるべく小さくして纏め、離れた場所に送し、そして読む際には拡大展開するという情報伝達システムは19世紀の中ごろに開発され、発展した。写真を極小サイズへ変換することに成功した発明者はフランス人写真家、ルネ・ダグロン(Dagron, Prudent René-Patrice)。しかし、彼はその技術を初めから遠距離間における情報伝達の手段に用いようとしていたわけではない。
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(↑『中河与一全集』は異同が激しく使い物にならなかったので、小説の引用は初出誌を用いた。わざわざ国会図書館でコピー。散財全開)。

 今月、中河与一論第二弾である「懐疑・無意識・伝染――大正期の中河与一文学――」を書いた。第一弾「形式・飛躍・偶然」では、中河の昭和初年代の評論について、具体的にいえば形式主義芸術論(昭和四年周辺)と偶然文学論(昭和一〇年周辺)の連続性について考察した。今回は、それら評論作品の根本的なアイディアの表出として、つまりは中河文学の原質として、大正一〇年の処女作から始まる初期小説群を読解した。文字数は21679字、原稿用紙に直すと54枚程。……長い。目次は以下。


  • 序、偶然性の心中小説――『或る心中の話』『ビスケツトと裁判』
  • 一、懐疑から解釈へ――『祖母』『木枯の日』『義足』『鵞鳥か家鴨か』
  • 二、精神医学的テーマ――『清めの布と希望』『午前の殺人』『黒い影』
  • 三、「無意識」と形式主義とシュルレアリスム
  • 四、原点としての『悩ましき妄想』
  • 五、伝染恐怖の批評性――『彼の憂鬱』『赤き城門』『地獄』『肉親の賦』
 

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 今回紹介する『フルートベール駅で』も、前回取り上げた『それでも夜は明ける』と同様、実話が基になっています。この映画の事を知ったのは、資料として参照したWikipediaに、サミュエル・L・ジャクソンによる以下の発言が紹介されていたからです。


 
「『それでも夜は明ける』こそ、アメリカの映画界が人種差別に真摯に向き合おうとしていないことを証明している。もし、アフリカ系アメリカ人の監督が本作を監督したいといっても、アメリカの負の歴史を描くことにスタジオが難色を示すであろう~(中略)~過去の奴隷の解放を描いた本作よりも、現代における理不尽な黒人殺害事件を描いた『フルートベール駅で』を作ることの方が勇気のいることだ」

――Wikipedia「それでも夜は明ける」より、【著名人の反応】から抜粋。
 

 
 この映画は、2009年1月1日に起こった黒人青年射殺事件(参照:AFPニュース)が題材になっています。事件後には全米規模で抗議集会が開かれ、一部では暴動になるなど大きな騒動に発展しました。

 作品の構成は至ってシンプルです。まず、主人公のオスカー・グラント(マイケル・B・ジョーダン)が射殺されるという事件のクライマックスが冒頭に置かれています。そして、その日の朝まで一気に時間を遡り、そこから《その時》までを時系列順に追っていきます。単純といえば単純ですが、冒頭のシーンがあまりにも衝撃的な為、観客はのっけから映画の世界に引き込まれてしまうでしょう。

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