2014年03月

近頃、ようやく鬱の海から帰還したように思えている。

発症から4年以上の月日が流れた。長い闘いだった、とややヒロイックな気持ちになるかと考えていたがそうでもなかった。しかし、病的なペシミズムから解放されるとやはり安楽である。

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その場を立ち去らずにまず聞くがよい、ここにかくも謎のごとき明朗さをもって汝の眼
前に繰り広げられるこの同じ生について、ギリシアの民衆の叡智が何を語っているかを
――ニーチェ 




 本論の狙いを一言で述べれば、ある特定のパースペクティヴから『悲劇の誕生』を読む、ということである。そのパースペクティヴとは、「道徳をあみ出さなくては生存は不可能であり、しかし道徳をあみ出せばそれが生存を断罪して止まない。この生=二律背反というニヒリズムはいかに解決できるか」という視点であり、言い換えれば、「一方では無意味性に反対し、他方では道徳的価値判断に反対すること」である。「無意味性」とは無価値性のことであり、いわゆるニヒリズムである。ニーチェによれば、「道徳的価値判断」もまたニヒリズムに他ならない。この二つのニヒリズムに陥ることなく、生を肯定する思想はいかに可能か、この答をニーチェの悲劇思想に探るのが拙論の主眼である。したがってここでは、『悲劇の誕生』の一般的理解や内在的読解などは目指されない。私の関心は「ニヒリズムの超克」だけにあり、このパースペクティヴからの再構成のみが目論まれる。それではどうしてこの問題の解決に、ニーチェを読むことが特権化されるのか?ここでは、無神論論争を簡単に振り返ることでニーチェのニヒリズム概念の射程と意義を確認し、『悲劇の誕生』の読解に取り掛かることにしたい。  

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近年ぼくはつたない音楽批評の営みから、だいぶ遠ざかっていたが、このアルバムについてはくりかえしくりかえし聴いているうちにレビューせずにはいられないという気持ちが異様なまでに高まったので、1曲ずつ所感を記していこうと思う。
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2014/03/01 マイスペース 新宿区役所横店7号室 撮影:東間 嶺 



【SBS読書会】第三十六回(2014/03/01) 
日時:2014年3月1日(土) 18:00-20:00
場所:マイスペース 新宿区役所横店7号室
指定図書:【ラッセンとは何だったのか?消費とアートを越えた「先」



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小玉重夫『学力幻想』読書会(新宿文藝シンジケート第三十七回)開催に際して、当日配るだろうレジュメの一部を先んじて公開する(引用内の〔〕は荒木による補記である)。『学力幻想』はいささか難解な書物だが、基本的に「教育の失敗を個人のせいにしてはいけない」というテーマに沿って書かれており、その基本軸を忘れなければ、読了することは難しくない。なお、読書会の日程は下記。


1. 日時:2014年3月29日(土) 18:00-20:00。
3.  備考:当日は場所代(ドリンク代込み)を各自1100円ずつ負担。読書会のあとは親睦会を予定(任意参加)。

※ この記事を見て出席される方は、荒木宛(arishima0takeo+gmail.com)まで連絡いただければ。FBアカウントを持っていれば直に「参加(→イベントリンク)」を。イベント当日飛び込み参加も可能だが、席が準備されているかどうかは不明である。
 
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【幸福否定の研究とは?】

勉強するために机に向かおうとすると、掃除などの他の事をしたくなったり、娯楽に耽りたくなる。自分の進歩に関係する事は、実行することが難しく、“時間潰し”は何時間でも苦もなくできてしまう。自らを“幸福にしよう”、"進歩、成長させよう”と思う反面、“幸福”や“進歩”から遠ざける行動をとってしまう、人間の心のしくみに関する研究。心理療法家、超心理学者の笠原敏雄が提唱している。




承前

またしても間隔が空いてしまったわけですが、前回は"症状"というものに対する私なりの考え方を書きました。主旨としては、これまでの患者さんに対する治療経験も踏まえた上で、"症状の強さは異常の程度と比例する"という、西洋医学の伝統的な考え方が必ずしも当てはまらないケースもあるのではないか?というものでした。

その延長にあるものとして、前回の最後で、「ストレス、トラウマ理論に立脚している現在の精神医療の問題点を簡単に紹介したい」と書いた通り、今回は笠原氏の心理療法の追試を踏まえ、現在の精神医学が孕む問題点に関しての私見を述べたいと思います。
 
(主に、笠原氏の著書、『加害者と被害者のトラウマ(国書刊行会、2011年)』を紹介する内容になります。)
 
 
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水木しげる『猫楠』186p
↑水木しげる『猫楠』(角川文庫、1996)の186頁。

 南方熊楠(1867‐1941)。民俗学者・博物学者。粘菌研究者としても有名。あらゆる分野の学問を渉猟した知の巨人として興味の赴くまま広範囲に研究活動をした。「歩く百科事典」との異名をもつ。その領域横断的思考は「南方曼荼羅」として図式化され、今日、諸学問を総合した思想家としても高く評価される。主著は『南方随筆』(岡書院、1926)、『十二支考』(平凡社、1972)など。

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◆ 三年前から現在へ。2011.3.11から2014.3.11へ。

◆ 今日であの東北の震災から三年が経って、明日は福島で最初に原発が爆発してから三年が経つわけだけど、《三年》、と一言でまとめてしまうとなにか実におさまりが良すぎるというか、それは「まだ三年」なのか或いは「もう三年」なのかみたいなこととも関係なく、実際に経過した時間というものの実質が抽象化されすぎてしまい、観念性に物理量が飲み込まれてしまうような気がして、だから実はあまり使いたくない言葉だったりもする《三年》《三年》、なのだけれども、とはいえ「三年経った」こと自体は間違いなくて、なんというか、唖然とするThree years later.

◆ で、まあ、そういうわけで、なんだかんだで《三年》、なのだけどまったくの偶然から、来月発売のとあるリトルマガジンに、わたしと、その三年前の2011年3月に内閣官房長官だった人物が、同じ多数の寄稿者の一人、という立場でテキストを書いている。

◆ エダノ、というそのどこか間の抜けた響きの固有名は、しかし2011年のあの3月において、今とは全く違う存在感を国内外の人々とわたし(たち)に感じさせていたはずで、エダノ!と改めて「」まで付けて発話してみると、あのとき彼がいかに国民からの《注目》を集めていたかということと、なんでまたそこまでの《注目》に晒されていたのかということの全体が、久しぶりに、まさに《三年》ぶりくらいにまざまざと思い出されてきて、具体的に過ぎ去った月日やその記憶は、そういった個別の、固有名の、さまざまなディティールによってこそ刺激され、意識に立ち上るのだということを強く感じる。

◆ だから、さあ、もう一度、エダノ!エダノ!エダノ!

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凡例  

1:この翻訳はジルベール・シモンドン(Girbert Simondon)が1965年から1966年まで行った講義の記録 Imagination et Invention” (Les Editions de la Transparence, 2008)の部分訳(26~28p)である。 
2:イタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』、強調や引用を示す《》はそのまま用い、文中の大文字表記は〈〉に替えた。〔〕は訳者による注記である。
3:訳文中の青文字は訳注が末尾についた語や表現を指し、灰文字は訳者が自信なく訳した箇所を指している。また、太字強調は訳者の判断でつけたもので、著者によるものではない。
 
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bandicam 2014-03-04 20-00-42-708


 「本と出版の未来」を考えるためのWEB雑誌「マガジン航」に、去年自費出版した拙著『小林多喜二と埴谷雄高』の一年分の決算を報告した「自費出版本をAmazonで69冊売ってみた」を書かせてもらった。

 この記事でも書いたが、Amazonのみだと69部、印税にすると2万8980円になった。対面でも(おそらくウェブ上でも)En-Soph関係の方々にも買っていただき、またそれだけではなく、反省してみればそのほか有形無形の協力を沢山いただいたように思う。改めて感謝します。本当にありがとうございました。頂戴した印税は資料のコピー代や図書館への交通費として用いることで、今後の研究成果に還元させていただきます。

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