2013年07月


6.28(金)

仕事で取引先から叱られ、上司にも責められる。まことに腹が立つ。残業せずにとっとと帰宅。神楽坂のカレー屋で野菜炒めカレー。英会話。先生が来月スリランカに移住してしまうため、最後の授業。ビーチのそばに住居を構えるというから羨ましく聞こえる。日本は良い国だ、と誰もが口を揃えて言うが、東京のサラリーマン達の何割が、一体本当に人生を楽しんでいるだろうか。英会話後、マッサージ。帰宅。
 

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神の言葉と本居宣長 (矢那やな夫文芸批評叢書)
神の言葉と本居宣長 (矢那やな夫文芸批評叢書) [Kindle版]

 訳あって、というか、縁あって、矢那やな夫『神の言葉と本居宣長』を読んだ。作品解説のようなことはしない。というか、できない。いまいち何が言いたいのか分からないし、無駄に長いからだ(或いは、無駄に長いから、言いたいことがぼやけているのかもしれない)。時々頭を出してくる金原ひとみも効果的だとは思わない。邪魔だ。別に、悪口を書いているわけではない。寧ろ、ベターにはよく書けている気がするし、日本の文芸評論というのはこのようなものだと言われれば、その通りだった気もする。しかし、ここにあるのは、文芸誌から統計的に導き出された「っぽさ」であり、試験官の顔色を伺いながら行われる器用な自己PRタイムだけだ。 » すべて読む

6.21(金)  

6:45起床。33歳。胸の内部にガスが溜まっているような息苦しさがあり、天気は曇り空に小雨、台風が接近している。トーストと珈琲、コーンフレークとプラムを食べる。7:45に家を出る。満員電車。殺意。会社の朝のラジオ体操に絶対に間に合わないように、会社近くの喫茶店で時間をつぶすのが日課になっている。近ごろの珈琲の飲み過ぎを気にしてハニージンジャーティーという飲み物を注文する。まずくもなく、旨くもなく、中途半端な味だ。8:55に出社。これは部内で一番遅い出社だ。そしてあまり面白くない仕事を中途半端な集中力で始める。時々便所に行き、便器の上で少し寝たりする。17:50に退社。ある先輩社員が苦笑しながらぼくを見て、「ぼくはこれからが仕事の始まりだよ〜」と言う。「ぼく、応援してますよ」と応え、さっさと退社する。マニアックな品揃えが有名なCDレンタルショップ・ジャニスに行きCDを返し、中国書専門店の内山書店を物色し、思わず三国志演義の原書を買ってしまう。どうせ読めないくせにこういうものを買ってしまう癖がある。2000円もした。19:30より飯田橋で英会話だ。もうすぐ先生はスリランカに移住してしまうので、次で最後のレッスンとなる。21:45に終了し、不調な体を抱えこんで帰宅。シャワーを浴びて寝る。
 
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凡例


1:この翻訳はエミール・ブートルー(Emile Boutroux)の『自然法則の偶然性について』(De la contingence des lois de la nature [Paris,1898]の部分訳である。原著はINTERNET ARCHIVEで全て閲覧できる。
http://archive.org/details/delacontingence00bout

2:強調を示すイタリック体は「」に置き換えている。《》はそのまま用いており、〔〕は訳者による補足である。

3:訳出にあったって、野田又夫訳(創元社、1945・11)を適宜参照した。
 

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2006年に上梓された『地域文化のアクチュアリティ−愛媛からの発信−』という本がある。開けば愛媛の舞台芸術、音楽、美術の諸活動が広範に紹介されていて興味深い。伝統芸能からパブリックな意味を語りづらいインディー領域までを一冊で取り扱うところに、この本を世に送り出した愛媛大学地域創成研究センターの姿勢が伺える。本稿では、その基本姿勢を示す愛媛大・寿卓三氏による序論『住まうと芸術文化一彷程としての帰郷,あるいは本書の序論帰郷としての彷程一』について考えてみたい。


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地域文化のアクチュアリティ―愛媛からの発信 [単行本]
著者:愛媛大学地域創成研究センター出版:シード書房(2006-03)

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「わたしたちはこれまで、純粋な知性の国を遍歴し、この国土のあらゆる場所を詳細に観察するだけでなく、細かに測量し、あらゆる事物にふさわしい場所を確認してきた。しかしこの国はいわば〈島Insel〉であり、自然によって定められた不変の境界unveränderliche Grenzenに囲まれている。この国は〈真理の国〉であり(魅惑的な呼び名ではある)、騒ぎ立つ広い大洋weiten und stürmischen Ozeaneに囲まれているのである。この大洋は仮象のほんらいの住みかであり、多数の霧峰が広がり、すぐに溶け去る多数の氷山が聳えているために、まるで新しい国がそこに存在しているかのようにみえる。そして新たな土地を発見しようとさまよいつづけている船人たちにたえず空しい希望を抱かせ、新たな冒険を求める航海へと誘いこむ。船人たちはこの希望を断念することも、その希望を実現することもできずにいるのである」(『純粋理性批判』(第三巻)、中山元訳、光文社古典新訳文庫、2010、295p)

Wir haben jetzt das Land des reinen Verstandes nicht allein durchreist, und jeden Teil davon sorgfältig in Augenschein genommen, sondern es auch durchmessen, und jedem Dinge auf demselben seine Stelle bestimmt. Dieses Land aber ist eine Insel, und durch die Natur selbst in unveränderliche Grenzen eingeschlossen. Es ist das Land der Wahrheit (ein reizender Name), umgeben von einem weiten und stürmischen Ozeane, dem eigentlichen Sitze des Scheins, wo manche Nebelbank, und manches bald wegschmelzende Eis neue Länder lügt, und indem es den auf Entdeckungen herumschwärmenden Seefahrer unaufhörlich mit leeren Hoffnungen täuscht, ihn in Abenteuer verflechtet, von denen er niemals ablassen und sie doch auch niemals zu Ende bringen kann.
 

 
 比喩的にいえば、イマヌエル・カントという哲学者は、禁欲的なまでに海辺に広がる砂浜を踏み鳴らしていた思想家だった。踏み鳴らし、砂と砂とが擦れる音を聴きながら、彼はきっと憧れの青い海に浮かぶ白い船を羨ましそうに毎日延々と眺めていた。そして定刻になると彼は足裏の砂をちゃんと払って、とぼとぼと自宅へ帰っていった。決して泳げなかったわけではない。静かな海を眺めながら、心中、彼は戦いていたのだ。凪は海の様態の一つでしかない。凪は時化という対をなすもう一つの様態を予告している。 » すべて読む
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