【No Man’s Land】クリスチャン・ボルタンスキー(大地の芸術祭2012)
撮影:濱田路子
何処やらに行って、クレーンか何かが大量の古着(上げ底)をどうこうする何かに「すげえ」とか言う人は、未だに片付かないどこかの大量の瓦礫(大量の古着含む)に対しては「すげえ」とは言わないし、そもそも日常的にそうした大量の物で出来上がってしまっている「山」に対してこれっぽっちの関心も無い。但しそれに「放射能」が「含まれて」いたら、「すげえ」どころの話ではなくなり、積極的な「来るな」の対象にもなるのである。
「…或いは、古着のあの場所に、あの何分の一かの、軽自動車一台分でも良いですから、本物の「放射能入り」とされてしまっている「東北の瓦礫(上げ底なし)」を持ってきて、それをクレーンでかき回して周囲に粉塵を上げまくるといった作品であれば、その作品を作る事、瓦礫をそこに運ぶ事をも含めて、全く違った観客の反応になるでしょうね。」
「…要は、そうした反応を起こす観客に自分自身を見つめ直させる、というのがこうした作品の本来でありましょう。何も夏休みにスカイツリーに行って、記念写真を取ってくる様な、そんな観光気分を起こすためのものではないという気がしますが。とは言え、「祭り」だと割り切ればまあ良いのかもしれません。但し、「祭り」という限界は極めてあります。」
◆ 果たして、ボルタンスキーはどこまで「考えて」いたのだろうか?
◆ 先日、年長の知己である現代美術作家が、「クレーンか何かが大量の古着(上げ底)をどうこうする何か」についてウェブで短く記していたコメントを読んで、そんな風に思った(引用の強調部は東間)。
◆ パリに生まれ、現在も同地にスタジオを構えているかれが、1986年の春にチェルノブイリで起きた出来事をどう捉えていたのかは知らない。けれど、2012年の東日本へやってきて、「震災を踏まえた」発表をするとき、「未だに片付かないどこかの大量の瓦礫」が「積極的な【来るな】の対象にもなる」というグロテスクな悲劇を想像しない、踏まえない、なんてことが果たしてあり得るだろうか?直接に対象化することがなくとも、どのような距離、スタンスをとるかを考えないはずがない。…はず、だ。
◆ ましてや、【Personnes(誰もいない)】【No Man’s Land(不在の土地)】と名を重ねられた、偶然にしてもあまりに「出来すぎた」作品を発表しに来るのだから。
Personnesとはフランス語で「人々(「人」の複数形)」という意味だが、これを発音するとPersonne/ペルソヌとなり、もちろん「人」と訳せるわけであるが、フランス語で一般的に「ペルソヌ」とだけ言うと「誰もいない」という意味になるのだ。その二重のタイトルには生も死も、存在も不存在もあるのに、なぜか「死」や「そこにいないということ」に思いが行ってしまうのは私だけだろうか。kana【フランスアート界底辺日記】より
◆ 【No Man’s Land】は、2010年2月の【MONUMENTA】で初公開された大掛かりなインスタレーションである。【Personnes(誰もいない)】という名でまず発表され、パリ(グラン・パレ)のあとは、ニューヨーク(パーク・アベニュー・アーモリー。ここでは【No Man’s Land】として展示)、ミラノ(ハンガー・ビコッカ)と巡回しており、新潟、越後妻有は四カ所目となる。【第五回 大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ】の開催にあわせて新たに完成した、【越後妻有里山現代美術館】の特別企画展として招かれたのだ。
◆ 美術館自体は、2003年の第2回開催時、トリエンナーレのメインステージとして建てられた【越後妻有交流館・キナーレ】の二階部分を改装したスペースなのだが、ボルタンスキーの展示は特別に吹き抜けの広い中庭部分を使用している。動画と写真で確認できるように、有人操作のタワークレーンから伸びたアームが、総重量9~16トン、高さ7メートルに及ぶ「衣服」の「山」をクローでひと掴みし、持ち上げたそれを空中で無造作に放るという動作を繰り返している。周辺に据え付けられたスピーカーから放たれる、定率的なリズムを伴う巨大な重低音は、ボルタンスキーが「心臓音のアーカイブ」と名付けるプロジェクトで集めた約16000人の「鼓動」を編集、加工したものだ。
◆ 無造作に、うず高く(とはいえ、上げ底だが)積み上げられ、中庭一面に敷き詰められた膨大な量の「衣服」と、単調な作業を反復をし続けているクレーン…。耳をつんざく轟音の中、あたかも永遠に失敗し続ける巨大なUFOキャッチャといったシュールさを伴ったその光景は、まず、一見して、誰もが「学習によって共有」している/させられているであろう、前世紀の「歴史的惨事」や「大量死」のイメージを強く喚起させる(少なくとも、わざわざボルタンスキーを観に来る人間には)。
◆ ユダヤの血を引くボルタンスキーは、人々の生と死に纏わる「記憶」を主題とした作品によって知られる作家だ。「アーカイブ(収集)」した大量の記録写真、大量の古着、大量の遺影や遺品などを演劇的な仕立てでブリコラージュするインスタレーションによって、かれは、消え去った過去の時間や失われた記憶という無形の観念を現前化しようと試みる。そこには(直接の言及がされない場合でも)常に、「惨事」のイメージがオーバーラップしている。
◆ 【Personnes/No Man’s Land】も、当初の企図とすれば、過去に試みた手法の大がかりな「変奏」以上のものではない。これまでに、それこそ、「すげえ」などの素朴な賛辞と感嘆、と同時に「物量による虚仮威し」であるとか、「自己模倣、マンネリズムに陥っている」との批判もなされている。
◆ しかし、繰り返しになるが、大規模な核ハザードも含むカタストロフ(環境激変)を経たあとの東日本、とりわけ福島県にすぐ隣接し、「汚染」にも巻き込まれている地域へやってきて、【No Man’s Land(不在の土地)】という名称の発表するという行為は、ニューヨークやミラノへの巡回とはまったく異なる意味性を持つ。「変奏」は、もはやただの「変奏」として存在することはできない(作品内容そのものとは関係ないが、もっとも直接的な影響として、ベン・シャーンの回顧展と同じことが起きる可能性もあった。周辺事象の要素だけをみても、それは作者と作品、作品と観者、作者と観者の関係に重大な変化をもたらす)。
◆ 3.11の約半年前、【瀬戸内国際芸術祭2010】にあわせて来日したボルタンスキーは、ART itによるインタビューで、【Personnes/No Man’s Land】を含む自作に関して以下のように述べている(強調部は東間)。
…パリのグランパレでのモニュメンタプロジェクト「Personnes」(2010)では、古着の山を作りました。誰かを殺すのはもちろんあってはならないことですが、人の名前を消すのはさらに残酷なことです。ナチスの強制収容所にいた捕虜たちは名前を奪われ、番号で呼ばれていました。私はそれこそがホロコーストの恐ろしく残酷なところだと思います。
…私の作品では常に、この大量における唯一性ということを考えています。したがって、もし私がこの「心臓音のアーカイブ」で世界中のすべての心臓音を集めることができるなら、それぞれが唯一のものであり、たとえすべての心臓音が非常に似ていたとしても、なにかしらこうした集合体のなかで個体を識別できるものがあるのです。…長い間、私は死者の身体、写真と洋服を同じように見ていました。これらはすべて不在の主体に関連した物体たちです。あなたが誰かの写真を持っているとき、あなたはそれを手に取ることができます。物体だからです。もし古着のコートを持っていれば、これも不在の主体に関連した物体です。それが死体だとしても、それもまた不在の主体に関連した物体なのです。そこには誰かが存在した、そして私たちは今、形のある物体を持っていて、それを破壊することもできる。なぜならそれは物体でしかないからです。…そしてホロコーストにたとえると、ナチスは常に人々ではなくて物体として人を扱っていました。例えば「今日は20トン到着した」というように。それは決して「1000人」ではなく、「○○トン」と言われていました。それがナチスの専門用語だったのです。
…私にとって主体と物体の関係は、名前と人との関係と同様に非常に重要です。たとえば誰かが「戦争に行くけれども、それほど酷い状況にはならないはずです。たった1000人が死ぬだけでそれほど多くありせん」と言うことを想像してみるのです。でもそれは1000人ではなく、スパゲッティが好きだった人がひとり、ガールフレンドがいた人がひとり、サッカーが好きだった人がひとり、常にひとり+ひとり+ひとりなのです。民主主義それ自体はひとりの集合体であるべきで、グループを一括して数えることは非常に危険なことだと思います。私は、すべての人が重要でありながらとても壊れやすいので、2世代、3世代経て行くことによって、すべての人が忘れられるかもしれないということを心配しているのです。
◆ 「不在の主体」とボルタンスキーは繰り返している。「遺され/残され」た「物体」は、死体だろうが、写真だろうが、衣服だろうが、「不在の主体」を象徴するという意味においては等しくフラットな存在である。そして、「不在」になった「主体」の「大量における唯一性」…、すなわち「常にひとり+ひとり+ひとり」であり、「それぞれが唯一のものであり…集合体のなかで個体を識別できるもの」…、について、常に考えているのだ、と。「グループを一括して数えることは非常に危険なこと」だから。
◆ パリやNY、ミラノでの公開においてホロコーストのメタファーを纏っていた「衣服」は、越後妻有で再び敷き詰められ、積み上げられたとき、新たな「山」としてぼくらの前に立ち現れる。不毛な動作を反復するクレーンと共に、津波によって溺死した1万5千余の「不在の主体」と、破壊された広大な都市や大地の姿を顕現させる。
◆ ユダヤの民とは違い、東北関東で被災した死者たちは、「名前を奪われ、番号で呼ばれる」ことや「重量」で括られることはない。未だ発見されない三千の遺体も、一人ひとりが「集合体の中で個体を識別」されている。すべての「不在の主体」は、「それぞれが唯一のもの」として公的に記録されている。「すべての人が忘れられ」ないように。
◆ だが、「瓦礫」は?
◆ 東北三県でのべ1800万トン超、総量にして数十年分ともいわれる、被災財を含んだ廃棄物は、「不在の主体に関連した物体」でもある。ボルタンスキーが、象徴性において遺体と同列なのだと語るそれらは、「重量」として扱われる。「ひとり+ひとり+ひとり」の「物体」が積み上がったはずの「山」は、単に処理されるべき「1800万トンの瓦礫」としてすべてが一括りにされる。
◆ ばかりか、その「未だ片付かないどこかの瓦礫」は、福島第一原発からの広範囲に渡るフォールアウトによってパラノイアックな恐怖に囚われた人々から、すさまじいばかりの憎悪と拒絶という仕打ちすら受けるのだ。もはや「瓦礫」ですらない、「核廃棄物」という忌み名を持った、「積極的な【来るな】の対象」として。
◆ それでも岩手と宮城では人間が戻り、破壊からの再生が進められている。他方、政府の指示によって禁忌の地…【No Man’s Land(不在の土地)】が生まれた福島の浜通り沿岸に、人影はない。「不在の主体に関連する物体」は、置き去られ、朽ち滅びてゆく。
◆ 日に幾度もその傍らを通るバスには、白装束めいた奇妙な服に全身を包む人々が満載されている。彼らが封じ込めに向かう破壊された原子炉は、いまも原子核の崩壊する熱と放射線を出し続けている。完全な埋葬には数十年の時間がかかる。大地に降り積もった核物質の影響を取り除くにも、長い時間がかかる。
◆ それまで、【No Man’s Land(不在の土地)】がどうなっているのかは分からない。【Personnes(誰もいない)】のかもしれないし、違うかもしれない。
◆ この作品が、もし、仮に、「すげえ」(アトラクション的な意味で)としか、「夏休みにスカイツリーに行って、記念写真を取ってくる様な、そんな観光気分を起こす」ものとしてしか受け止められないのならば、敢えて「間違っている」と表明しておきたい。
◆ その上で、ではボルタンスキーが「本物の【放射能入り】とされてしまっている【東北の瓦礫(上げ底なし)】を持ってきて、それをクレーンでかき回して周囲に粉塵を上げまくる」ようなアレンジをしていれば良かったのかと考えると、それも単純な賛意は表しにくい。
◆ 「フクシマ以後、安全を語ることは野蛮である」と宣言しているアート・ユニット、【イルコモンズ】監修の【アトミックサイト】など、震災以後に国内で発表された「放射能関連」作品の多くには、サブカル的俗悪さとオカルティックな雰囲気のミクスチャーが濃厚だが、それは一連の「危機」に怯え、憤る人々から熱心な賛意を集めるのと同時に、少なくない数の観客にとって、著しく不快なプロパガンダともなる。
◆ 上記のような対立が起きているなかで、「祭り」の場所へ、直にフォールアウトを浴びた(とされる)「瓦礫」を持ち込むことは、露骨なスキャンダリズムとなり、国民間のコンフリクトをさらに煽るだけの結果に繋がりかねないように思える。
◆ 結局、これは観者の問題、ぼくらの意識こそがより問われるべきことなのだと思う。
…アーティストというのは、顔の代わりに鏡を持っている人間で、人々が彼を見るたびに『これは自分だ』と思えるような存在だ…事実や虚構を含めて自分自身の話をしながら、実はだれもがその中に自分を確認できるような、あらゆる人間のことを語る存在だ…
◆ ボルタンスキーは、「クリスチャン・ボルタンスキーの可能な人生」(佐藤京子訳、水声社)の中で上のように語っているのだが、今回の作品を「【祭り】という限界」に収まるぐらいの解釈しかできず、「すげえ」(アトラクション的な意味で)という次元の反応だけで終わらせてしまう人々ならば、たとえボルタンスキーが「瓦礫」を使っていようが、今度は闇雲に「やべえ」とでも連発するだけではないか。何が「やべえ」のか、「自分自身を見つめ直」すことなど到底期待できず、というか「見つめ直」せる自分を持っていないことにさえ、気づかない。鏡に映っているのが誰なのか、あなたには永遠に理解することができない。
◆ 自作と日本人と震災とについて、そこまで考えた上で、ボルタンスキーは「瓦礫」を使わなかった(使ってもムダだから)のなら、ずいぶんとずいぶんな話なのだが、さすがに考えすぎだろう、さすがに…。なあ、そうだろう、クリス?
【了】