◆ あれは確かまだ真夏のころだったと思うが、渋谷のセンター街からほど近い一本の路地で、奇妙な「グラフィティ」を見つけた。生命に差し障りを感じるほどの凄まじい暑さから一刻も早く逃れようと、目的地までズンズン歩いている途中だった。
◆ はじめに視界へ飛び込んできたのは、ヴィヴィットな色の紫陽花が散りばめられたレインコートを身に纏い、長靴を履いて水たまりに立つ「子供」の姿だった。
◆ 性別は、分からない。
◆ 少女のようにも見える。少年のようにも、見える。何れにしても、「子供」であることだけは伝わる。
◆ 彼/彼女の、やや松本大洋を思わせる陰影が付けられた俯き顔に表情はない。周囲に貼られ、あるいは描かれのたうっている「グラフィティ」の、見慣れたネアカさとは大きく隔たっている。壁に貼り付けられた彼/彼女が身に付けるレインコートの袖には何か英文が書いてある。近寄って、目をこらす。
【 281_Anti nuke 】
◆ 袖の横には、そう書いてある。
◆ 読む前から、彼/彼女を見た瞬間から、ぼくはそれが何を意味する記号なのか、どのようなメッセージであるのかは察していたのだけれど、案の定、というわけだ。
◆ 「!!!」という感嘆符の連発で表すのがふさわしく思える漫画的な驚きと好奇心の高ぶりを感じながらXperiaを取り出し、カメラを起動させる。彼/彼女を撮影しながら、他にもまだ「ある」かもしれないと、周囲の壁や自販機をチェックする。予想通り、あちらにも、こちらにも。レインコートの彼/彼女も、あちこちに。
◆ 降雨による被曝を恐れるレインコートの彼/彼女(I hate rain)、夏の太陽と海を恐れる水着の少女(SUMMER FEAR)、放射性標識が組み込まれたドーナツを齧る彼/彼女(CARE YOUR FOOD)、放射性標識が刻まれたおにぎり(CARE YOUR FOOD)、閉じ込められた牢獄から助けを叫ぶ福島の子供たち(HELP/children in fukushima)、放射性標識とブランコに乗る彼/彼女(PARK)、トラックによって拡散される放射性廃棄物と費やされる多額の税金(Waste TAX)、広島と長崎に投下されたリトルボーイ、ファットマンの横に並べられたTEPCOのロゴマーク(0806 Hiroshima 0809 Nagasaki 0311 Fukushima/THE 3rd BOMB WILL NEVER DIE)、ジェイソンの表情にも、TEPCOのロゴが刻印されている。
◆ すべてのグラフィティに、「281_Anti nuke」の一文が入っている。万能のビッグ・ブラザーであるGoogleで検索してみると、すぐ公式サイトへ行き当たる。サイトの「PROFILE」には「281_」という「Artist, Japan」が「anti nuclear power plant」であると書かれている(海外メディアには「281_AntiNuke」と名乗っているため、以下は同様に表記する)。
◆ 「GALLERY」には眼前の「グラフィティ」と同じものが並び、さらに多くのイメージがアップロードされている。「PHOTOS」には、それらが貼り付けられた渋谷の風景や、反原発デモの場で参加者がプラカードとして掲げているところを撮影した写真などが載っている。最初に見つけた彼/彼女の写真もある。
◆ 実にわかりやすい。極めてわかりやすい。
◆ 「281_AntiNuke」の「グラフィティ」と添えられたテキストは、3.11の震災によって発生した「環境汚染」(原発事故による大量の放射性物質漏洩)と、汚染に対する政府の対応が日本の社会に巻き起こした激しい恐怖や不安、怒りと混乱の表象であり、ささやかだが純然たる反原発・反政府運動のプロパガンダだ。
◆ すっかり有名キャラとなったもんじゅ君をはじめとして、事故を契機に無数の人々が無数の、さまざまな「Anti-nuke」のイコンを作り、ネットや街頭で拡散し、デモの場で使用している。「281_AntiNuke」も、それら「無数」の中の一つだということ。とめどないイメージの氾濫。ニュークリア・プロパガンダの大洪水。
◆ 3.11を経験した日本に限らず、世界に流通している大半の「Anti-nuke」のイコンやデモでのパフォーマンスは、作成した彼/彼女たちのあまりに濃密な「核」への憎しみ、憤怒、恐怖がなんらのフィルターも通さずにぶちまけられていて、およそ正視に耐えるものではない。
◆ 抽象化されない、「なま」のままの野放図な攻撃感情を集団で発露するさまは、いかに本人たちがそうした感情の「正当性」を主張しようとも、強く「信心」を共にする人々以外の目には忌避の感情ばかりを引き起こす(例えば、ぼくらのニッポンにおける反韓、反中デモ、そして中韓が行う反日デモのおぞましさを見よ)。
◆ たとえ攻撃対象の「悪」や「危険」を訴えるため、意図的に醜悪さを強調しているのだとしても、結果は同じことだ。万能のGoogleがここでも画像検索で大量に引っ張り出してくる「Anti-Nuke」や「NO NUKES」の「有様」は、率直なところ「おえーっ!」であり、まったく受け入れられない。
◆ これまで再三書いてきた通り、ぼくは兵器を含む核エネルギー利用に関して消極的容認を表明しているわけだけれど、ケースによっては、「Nuke」へ反対する意見に与することもある。浜岡原発やもんじゅの再稼働には到底同意できないし、実質的に破綻している核燃サイクル政策も、六ケ所村施設の利用方法も含めて大きく路線を変更するしかないと思っている。
◆ だが、そんな煮え切らない姿勢を、思想、そして運動としての「Anti-Nuke」が認めることはない。「核」というイシューには、絶対的な嫌悪と潔癖意識のもと、思考の差異や多様性を拒絶し、「ゼロトレランス(極度の不寛容)」を叫ぶ人々が溢れている。彼/彼女たちにとっては全面的廃絶以外の主張はすべてが「敵」であり、「味方」同士も互いが互いを厳しく監視し合い、不断に「味方」を「敵」へとパージしてゆく。
◆ 「Anti-Nuke」の攻撃性と「不寛容」は、未だ原発事故の渦中にある日本にとって、汚染の害とは別の、極めて深刻な二次災害を引き起こしている。損なわれた原子炉から漏れ出た核物質が国土へ千々に降り注いだあと、事故のショックと行政府による対応への不信によって暴走し、制御不能となった「不寛容」は、被災した東北関東の土地や人間を一纏めに「穢れ」として忌み、排除する主張すら生み出した。
◆ 「ベクレルフリー」のような言葉に象徴される、いかなる比較定量化も拒む先鋭化した「核」への「不寛容」…。ぼくにとっては、その「不寛容」こそがあられもない利己主義の正当化であり、倫理的に全く受け入れることはできない。この辺りの意識は、前回のデモについて書いたエントリでも表明している。
◆ 「281_AntiNuke」の「グラフィティ」にも、「ゼロトレランス=不寛容」の意識を表すようなイメージは多数存在する。どれも原発事故や原子力行政へのプロテストとして選ばれる典型的な現象、政策、人物ばかりで、目新しいものはない。指弾する内容にも独自性はなく、ごくありふれている。ただ、ぼくが目にした彼/彼女たちも、それ以外のイメージも、みな渋谷という奇形的な輝きを放つ資本主義の街に違和感なく溶け込めるだけの美的、形式的なクオリティと節度を保っていて、そこには新鮮な印象を受けた。
◆ 先ほどのパラグラフでも指摘したように、世界に流通する「Anti-nuke」のイコンや示威行動の大半は、「核」への「なま」の感情をむき出しにした稚拙かつグロテスクなものだ。彼/彼女たちがまき散らす一種オカルトめいた負圧のオーラは、多くの人々の目に彼/彼女たちの異常性と「Anti-nuke」をセットで焼き付ける。
◆ 「281_AntiNuke」が密やかに都市の中へと置き去る「anti nuclear power plant」のメッセージは、そうした威嚇的な絶叫として拒絶されることはないだろう。より抑制され、洗練されたプロパガンダとして、「発見」「遭遇」した人たちを立ち止まらせるだろう。但し、見つけられれば、の話だけれども。
◆ ぼくが、暑熱に包まれ、不快な都市の臭いと騒音の中で彼/彼女たちに「遭遇」したとき、背後を歩き去る人々は、彼/彼女など一顧だにせず…というよりまったく気付くことすらなく、足早にセンター街へと向かっていた。写真を見ての通り、彼/彼女の姿は真下に停めてある自転車と比較しても大きなサイズなのだが、行き交う人々にとっては周辺のグラフィティと何ら変わらない、単にカラフルで意味不明な落書きであり、お馴染みの「渋谷景」に過ぎないのだ。「発見」されない、意味性を喪失した「Anti-nuke」…!
◆ 「発見されない」メッセージは、しかし、同時に「発見」されてもいる。
◆ ここでもう一度、エントリ冒頭の写真を観て欲しい。(元図)を見れば分かるが、紫陽花のレインコートを身に纏った彼/彼女の足元からは、「I hate rain」のテキストが削り取られている。痕跡から判断して、ただ単に壁から剥がそうとして諦めたのでも、自然に剥落したのでもないことは明らかだろう。どこの誰がやったのか(念のため、ぼくが犯人……ではない)など知るよしもないが、「I hate rain」の部分だけを削りとった「発見者」の行為は、どうにも批評的な読みをしてみたくなってしまう。
◆ つまり、「もう雨を忌避する必要などない」という、応答のメッセージである、と。
◆ 「真夏の遭遇」以来、渋谷を訪れることがあっても路地を利用することはなく、他の場所でグラフィティを「発見」することもなかったが、このエントリを書いていたこともあって、先日、再び足を運んでみた。
◆ 相変わらず、彼/彼女たちは表情を無くしたまま壁に貼り付いていた。ずっと貼り付いていた。新たに「批評」が加えられた形跡もなかった。相変わらず、通り過ぎる全ての人は気づくことも立ち止まることもなかった。メッセージは届いていなかった。
◆ 「281_AntiNuke」のウェブサイトを覗いてみると、ハロウィンをテーマにした新しいイメージが追加され、街に投下されているようだった。ヴァンパイアになった野田首相が、札束(税金)であふれたジャックランタンを抱えて、こちらを見つめている。どことなく、雰囲気はロッキー・ホラー・ショー。泥鰌から一気にスーパーナチュラルな、畏怖すべき存在にまでランクアップしたヨシヒコ氏は、誰かに気づいてもらえただろうか?それとも、やはり全ての人は、いっさい気づくことも立ち止まることもないだろうか?
◆ ぼくはといえば、哀れお気の毒なヨシヒコ氏をわざわざ探して回るようなことはしないが、ヨシヒコ氏であれ、彼/彼女であれ、なんであれ、いつか新たな「遭遇」をするときがあれば、何かしら、「メッセージ」に対し「批評」を加えてみようか、と思っていたりもするのだが。
【了】