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http://www.systemed.fr/conseils-bricolage/serrurerie/fabriquer-ses-fers-tarabiscot,288.html
(↓で登場するタラビスコ。刳形を作る道具)


 今、私はジルベール・シモンドンという哲学者の講義録『想像力と発明』(IMAGINATION ET INVENTION, Les Editions de La Transparence, 2008)を訳しているのだが、今日は琴線に触れたシモンドンフレーズの一部を紹介したく起筆することにした。テーマはずばり、「形は物質が教えてくれる」である。

 どういうことか。シモンドンは物質と形態の間には、暴力的な関係があったと指摘している。
 
「質料=物質matiéreと形相=形態formeの間には、暴力的で専断的な関係が存在するもので、場所の持ち主maîtreという形になった粗末な思いつきに従って庭師が細かく切るあのイチイのように、形相は自然を通り過ぎて幾何学の人工的で規範的な硬さを使って質料を細分し支配するmaîtrisant。木の自然の形態は植物の立方体なり球なりという奇形=モンスター性monstruositéによって置き換えられるのだ(ミュッセはヴェルサイユ宮殿の《一列に並んだ》イチイを描写している。今日ではヴィランドリー城の庭で見ることができる)」(第三講)

 物質を意味するマチエール、形態を意味するフォルムは、それぞれ、質料=ヒュレーと形相=エイドスのフランス語訳である。いうまでもなく質料形相説はアリストテレスから始まって、哲学史では特権的な地位を占めてきた。アリストテレスに従えば、その二者が合体することで現実態(エネルゲイア)が生れる。しかし、現実的に歴史は、特に芸術の歴史は形相優位に進んできたのではないか。「イチイ」の奇形性はそれを物語っている。支配者=主人(メートル)の裁量によって木々は伐採され、然るべき均一的な「形」を与えられ、そこに美が生れる。かつてのヴェルサイユや、今日のヴィランドリー城でみれるような、イチイの並木がそれに当る。

 けれども、人間が形を与えずとも、物質には既に然るべき理想的な形が宿っていると考えることはできないのだろうか。夏目漱石の『夢十夜』第六夜を思い出して欲しい。運慶が大木から仁王を彫る姿を見て、見物人の一人は「あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出す様なものだから決して間違う筈はない」と言う。仁王像の形は、運慶の頭の中にあるのではなく、木の中に既に埋め込まれている。形をもっているのは物質の方なのだ。木が形を教えてくれる声なき声に、芸術家は耳を傾けるだけでよい。

「しかしながら、森の輪郭のように、質料の中に基本的な形相が存在している。森にはそれぞれ輪郭があり、カシワの繊維はクリノキやカエデの繊維と同じ模様になっていない。暴力的な幾何学的形態は、森に革命のポーズを押し付けながら撮影をするもののように、使える物質に生成する粗野な物質の暗黙で無声の形相を尊敬せず、引き受けることなく、延長することがない。道具が原始的であればあるほど、質料の現実的な輪郭が生き残れる。要は繊維によって導かれるがままのドローナイフplane、樽屋のあの《両手で使うナイフ》だ。拷問器具の暗黙の形態である、タラビスコとは真反対で、タラビスコというこの鉋は質料の構造との一定の関係なしに、職人が欲するのと同じくらい細かい数多くの刳型の跡を残す」(第三講)

 物質を支配してはいけない。物質にはそれぞれの輪郭(ligne)がある。タラビスコはまるで拷問器具の形態を予告しているようではないか。

「家を建てたときの壁に吊るす絵のように、芸術は長らく、追加的に対象に対象を付け加える、総合の典型であった。しかし分析的な芸術が自由になり始め、それは原始的なもの、ベースの対象を覆い隠しに来る追加的かつ二次的な対象を生み出すことはない。この芸術は始めから質料を取り扱うことで成立している。絵画や石膏なしに、地形に直接溶け込む組成textureやアスペクトを使って現れるからだ。花崗岩なり斑岩なりがきちんとカッティングされ、きちんとはまっているブロックでできてる城壁はどんな石膏も、絵画も必要としないだろう。材料それぞれは既にミクロ構造を有している。カッティング、研磨、サンドブラスト処理が付け加えも隠しも全くせず顕示することができる起源的な組成を有しているのだ」(第三講)

 付け加えの芸術、即ち総合的(synthétique)芸術から、素材を磨く芸術、即ち分析的(analytique)芸術が勃興する。それは物質の声なき声に従った芸術である。例えば、「アフォーダンス」(J・ギブソン)という考え方がある。詳しくは、佐々木正人『アフォーダンス入門』(講談社学術文庫、1863)を参照されたいが、暴力的に要約すれば、いかにも坐りたくなるような木の出っ張りといった、有機体がある行動をafford(与える)する環境込みで人間の心理を考察する、モノとヒトとの間の関係性の学である。例えばマクドナルド店内の椅子を固くして、無意識的に客が席から離れたがるように仕向け、店の回転率を上げるといった、(よく知られている)技法もアファーダンスの一種の逆用といえるだろう。
 
 思っているのは、芸術のアフォーダンスを、シモンドンの示唆から考えてみることはできないだろうか、ということだ。繰り返すが、ここで芸術作品をアフォードしてくれるのは、芸術家の頭の中ではなく、素材としての物の方だ。木目の筋や、石の硬さ、風の流れや、紙の肌触り、布のきめ細かさ、それらが芸術作品の形を予告する。しかし、その時、我々は、そもそも芸術とは何なのか、という根源的な問いに導かれるのかもしれない。というのも、我々は物質に囲まれて生活し、既に物質によるアフォードが始まっていると考えることができるかもしれないからだ。その場合、私の生活それ自体が一個の芸術作品だといっては、果たしていけないのであろうか?