【幸福否定の研究とは?】

勉強するために机に向かおうとすると、

掃除などの他の事をしたくなったり、娯楽に耽りたくなる。

自分の進歩に関係する事は、実行することが難しく、“時間潰し”

は何時間でも苦もなくできてしまう。

自らを“幸福にしよう”、"進歩、成長させよう”と思う反面、

“幸福”や“進歩”から遠ざける行動をとってしまう、人間の

心のしくみに関する研究の紹介



(承前)

前回から、笠原氏がその治療法の元とした小坂療法について書いています。
どのような治療法であるのかについて、笠原氏の著書、『加害者と被害者のトラウマ』からp198~205の部分を要約してみます。

1960年代の後半、当時主流だった入院治療や、登場して間もない抗精神病薬の治療に批判的だった(注1)小坂英世医師は、「社会生活指導」という方法論を独自に編み出していました。(注2)1969年には急性症状(幻覚、妄想や興奮)を示している分裂病の患者に対して、その原因に関係すると思われる具体的な解決策を与えたところ、それまで出ていた症状を消失させることに初めて成功します。
この方法は、治療をする(根本的に改善させる)というよりは、再発にうまく対応する、コントロールをするということになります。(注3)

そして、小坂医師は、具体的解決策を与える方法と相前後して、再発した患者がまさにその直前に起こっていた、その原因に関係する出来事の記憶を消しているという事実に注目するようになっていました。1970年のことですが、ある再発患者に対して、再発の原因に関係しているらしき出来事を指摘してその記憶を蘇らせたところ、それまであった症状が一瞬のうちに消えることが確認されました。
これ以後、患者に根本的な変化が起こりはじめたことで、新しい治療理論を開発したとされています。

要約は以上のようなものですが、小坂医師自身は、次のように自著で症例と「新しい」治療法を解説しています。


最初は何も出てこなかった。私は念入りにこの数日間の日常を思い出させようとした。しかし、症状に気をとられていた彼の記憶はきわめて曖昧であった。私は受話器を取り上げて、母親を呼び出し、一つ一つ確認していった。
しかし、原因に該当しそうなものは何一つとして出てこなかった。受話器をおいて三分ほどしたときに、母親から電話が入った。

これはプールにいき出したばかりのときのことなので無関係と思うがと前おきして、プールで中学時代の友人Xに出あったという報告をうけたことがあるという。私は彼にむかっていった。

「今君のお母さんから電話があってね、君がプールでXという友人に出あったことが影響しているかといってきたのだけれど・・・」

「アッ、それだ」

彼はいった。と同時に緊張しきっていた彼の表情はゆるみ、1~2秒おきに神経質に口もとにいっていた手の動きがとまった。

聞いてみると友人のXは、大へん水泳上手の水泳自慢だそうであり、連日のようにそのプールに来ているのそうである。
彼はそこでEを発見すると呼びかけ、以後Eが練習しているわきで、公衆の面前もかまわずに、大声叱咤し、注意し、笑うとのことである。
本人にとっては、大へん自尊心を傷つけられることなのであった。そしてある日極端にハッパをかけられたので、次回にいく気がしなくなったのであった。彼には毎回顔をあわせているものだから、母親には別に報告しなかったとのことである。後は一瀉千里であった。彼は足どりも軽く帰っていき、プールにおもむいた。

『精神分裂病患者の社会生活指導』 小坂英世著 p26~27



次に、小坂療法の追試を行っていた時期の笠原氏の症例を紹介します。



(前略)

その頃、長期入院中の、慢性分裂病の男性患者が昏睡状態に陥った。これは、外界の刺激に全く反応しないとされる状態である。ある看護婦から聞いた出来事が昏迷の原因に関係していると確信した私は、熱心な若手の精神科医を面接場面に同席させることにした。

症状が一瞬のうちに消える場面を自分の目で見れば、それまでの批判的態度を多少なりとも軟化させることができるのではないかと、ほのかな期待を抱いたからである。まず、その医師に、昏迷状態のまま、まばたきもせず、閉鎖病棟のベットに脚を伸ばして座っている患者を、あらためて診察してもらった。型通りの診察をした医師は。「昏迷に間違いありません」と答えた。念を押しても、やはり同じ答えが返ってきた。

そこで、私は、看護師から聞いた出来事について、患者の耳元で二、三繰り返した。患者は、それだけで、涙を流し、昏迷状態から抜け出した。わずか一、二分の出来事であった。しかし、今はある医科大学の精神科教授となっているこの医師は、不思議なことに、昏迷という診断を、その直後に翻した。

(「幸福否定の構造」 p54)



このような手続きを繰り返す事によって、以下のように患者が変化していきました。



長く通っている患者たちには、いわゆるプレコップス・ゲフュール(分裂病くささ)がほとんど感じられず、私には″ふつう″の人たちに見えた。そのことも、ここで驚かされたうちのひとつである。そしてほとんどの患者が仕事を持っているか学校に通っているとのことであった。

しかし、最初から軽症の患者が集まってきたわけではない。
新しい患者たちは、まさに分裂病患者そのものだったからである。小坂によれば、新患を除くと、教室に通っている患者の中で向精神薬を使っている者は数名にすぎず、その場合ですら、一回量がクロルプロマジン(当時、よく使われた向精神薬)で五ミリグラム程度だという。


この量は、通常の外来維持量の十分の一程度にすぎない。当時の精神科医たちは、それを聞いただけでも、現実を見ることもないまま、小坂療法の信憑性や分裂病という診断を疑ったのである。

幸福否定の構造p37~p38)



(※ 上記の「長く通っている」場所は、小坂医師が開いていた「小坂教室」のことを指しています)

笠原氏が言うように、小坂医師の治療で患者は根本的な変化をしていくわけですが、しかし、同時に新たな問題も起きてきます。患者が、「いやらしい再発」と小坂医師が呼んだ状態になってしまう事と、引用でも少し触れている、精神分裂病の診断を簡単に翻したり(例では混迷の診断をあっさり撤回)、追試を行わずに(確認をしない)小坂療法を否定する治療者側の不可解な態度が原因で、小坂医師、笠原氏ともに小坂療法を続ける事自体が難しくなってゆくのです。

(続く)


注1:小坂医師は薬物療法・ショック療法をとらない理由として、対症療法である事、原因の追究が難しくなる事、副作用、後遺症、身体的危険がある事、患者との対人関係などを挙げており、入院治療に反対する理由については、患者の自由権、生存権を奪う点、家族が医師たちに依存的になる点を問題視し、自身による治療法(小坂療法)が開発されている点を強調しています。
但し、原因を探れないなど、やむをえない場合については反対はしていなかったようです。
参照:『精神分裂病読本』 小坂英世 p80~81

また、未治療の在宅分裂病患者が、長期入院患者よりもはるかに社会性をもっていること、当時まだ残っていた座敷牢に監禁された分裂病患者たちが、ホスピタリズム(病院ぼけ)を起こす事も理由の一つだったようです。
参照:『幸福否定の構造』 p40



注2:群馬大学精神科が、1962年から「生活臨床」という分裂病の長期的治療方針に基づく取り組みを行っていました。分裂病の患者は、「色・金・名誉・身体」(異性との接触や交際、金銭的な損得、名誉心の傷つき、身体的不調や障害)という4つの要素でつまずいた時に再発を起こしやすいので、生活に規制を強くことで、それらへの関わりを避けさせるという試みです。

小坂医師の社会生活指導も群大の取り組みと類似する面を持っており、実際に生活臨床グループとの交流もあったようです。

参照:加害者と被害者のトラウマp198~199



注3:コントロールの一例を小坂氏の著書から引用します。この頃は、治療理論を開発したというより、対応可能な範囲が増えたことによって、入院、投薬を減らす事に成功したと言えるでしょう。

【…ある時、自宅療養中の男性が、高額商品を購入し、その代金を父親に渡して銀行に振り込んでもらった。ところが、その領収書には収入印紙が貼られていなかった。それに気づいた本人は、銀行に抗議に行こうとした。しかし、それまでのように短絡的行動を起こして失敗するのを恐れ、そのことを小坂に電話で相談した。本人から事情を聞いた小坂は、銀行に電話を入れ、担当者を本人のもとへ謝罪・訂正に来させるように手配した。だが、行員はなかなか来なかった。

“いら立った彼はしだいに興奮状態に発展していった。大声で、数分おきに私に電話してきた。しまいには嗄声になってしまった。はじめのうちは、銀行側の来宅が遅い、待っているといらいらするなどといっていたのだが、しだいに支離滅裂な、苦悶状の内容になってきた。ついには苦しいので入院させてくれと喚くようになった。

在宅していた両親もオロオロしてしまい、今までにない興奮で、あたりちらし、手のつけようがない、入院させてくれといってきた。私は電話で、あるときは本人をなだめ、あるときは本人を叱りつけるいっぽう、患者の手もとにあるクスリを追加服用させるようにした。

そして本人と両親に、行員が謝罪・訂正にきさえすればおさまるはずだから、それまで辛抱して待つように指示した。やっと行員が到着し、謝罪と訂正が行われた。まるで引き潮のように、本人の興奮はしずまっていった。】

『精神分裂病患者の社会生活指導』p37-38




補足:小坂医師は「社会生活指導」も含めて小坂療法と呼んでいたようですが、笠原氏の追試は「反応」を追いかけながら、再発の直前の記憶が消えている部分(出来事)を探り、指摘するという手続きのみです。「社会生活指導」などは行っていません。


補足2:小坂医師は、症状の原因となる、記憶が消えている出来事を探る手続きを、「抑圧解除法」と呼んでいました。「反応」「抵抗」については、「抑圧解除の効果判定」(上記『精神分裂病読本』 p78)でも以下のように解説されています


1)的中しておれば、患者に反応が生ずる。それは軽い場合にはハッとした表情、姿勢の変化であり、極端な場合には驚愕反応である。一般に、再三再四の再発の場合よりは、それよりは初発、さらにそれよりは幼少期の場合のほうが反応は大きいものである。また、単に事件についてのみ指摘した場合は反応が小さく、もちあじの関与もあわせて指摘した場合のほうが反応は大きいものである。

2)症状が即座に反応する。

3)あるいは強い抵抗が生ずる。抵抗とは、反発・拒否・ふてくされ・話題ずらし・ごまかし・たぬき寝入りなどである。もちろんこの場合は、症状は消えない。ただし抑圧は解除されているのである。

4)薬物を使用していた患者の場合には、間もなく副作用が出現する。つまり薬物が不要ないし減量を要する状態になるのである。

5)全く的中しないまでも、的のそばをかずめた場合には、症状がさして、あるいは全く改善されず、不快な反応(頭重・悪心など)が後に残る。


笠原氏の心理療法は、小坂療法から出発しているので、反応、抵抗といった用語が踏襲されていますが、内容が若干違います。

「反応」…笠原氏の反応では、あくび、眠気、心身の変化が主になっています。

「抵抗」…笠原氏が使う抵抗は、幸福に対する抵抗です。原因がわかり、解消することができる事は本人にとっては幸福に繋がるので、治療に対する抵抗も含まれますが、小坂医師が使う抵抗という用語には幸福に対する抵抗という意味はありません。