マックス・ヴェーバーは『職業としての政治』のなかで、政治家なるものを三種類に分類している。
ヴェーバーが言及した順とは逆に紹介していくが第一に、「本職」の政治家がそれで、これは説明するまでもなく、国家議員のような所謂政治家のことを指すが、ヴェーバーは更に詳しく、彼らの多くは相克的な生き方を内に抱えている、と説明している。つまり、政治の「ために」(fur)と「によって」(von)――フランス語ならば、pourとparといった処だろうか――の対立だ。政治家の経済的な側面でその差異は露わになる。(鳩山由紀夫さんのように)裕福な家柄や安定した収入源を確保できる者にとって、政治活動は金策から分離させることができ、純粋に報酬なしに政治の「ために」活動することができるが、そのような収入の当てのない政治家にとっては政治活動「によって」報酬を獲得しなければならない。金権政治や世襲の問題に直結するだろうが、この二つの変数のバランスのなかで生活しているのが正規の職業政治家、「本職」の政治家である。
第二に、「副業的」な政治家が存在する。例えば政治団体の世話役や幹事、何とか委員会のメンバーなどがそれに相当し、彼らは第一義的に政治で生きている訳ではない準本職の政治家だ。
最後に、「臨時の」政治家が存在する。このカテゴリーは市民のカテゴリーと殆ど重なるものだといっていい。選挙権をもち、ある政治家に一票を投じる時、人は臨時の政治家になる。或いは、それに相当する、政治集会での拍手、演説、デモやストライキといった抗議活動をするとき、その人を臨時的に政治家を務めることになる。
ヴェーバーが本質的な政治的役割を本職>副業>臨時の順で考えていたことは言うまでもない。『職業としての政治』という本は、第一次大戦でドイツが敗北し革命の雰囲気につつまれた1919年に、若い学生に向けて行なった講演を元にしているが、そこで彼は甘ったるい正義感とセンチメンタリズムに支配された倫理から政治を峻別し、その汚い権力追求を政治の本質的性格として認めている。その観点からみれば、臨時の政治家にとってその峻別は曖昧で、権力の汚い部分に触れることなく適当な正義感や義務感から限定的に政治参加をしているに過ぎない。
しかし、技術環境の進歩が、臨時の政治家に新たなアスペクトを用意するかもしれないという期待が今日提起されている。目立つ処では、東浩紀の『一般意志2.0』(講談社、2011・11)という著作がそうだ。この本を強引に要約すれば、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』再読を通じて新しいテクノロジーを使った新しい民主主義を構想することにその骨子があるといっていい。
特に注目されるのが、ニコニコ生放送のようなリアルタイムの匿名コメントを政治的討論の場に表示することで、一般市民の集合的な意志を政治に活かそうという発想だ。勿論、その断片的なコメントは政策立案や専門的討議を具体的に産み出すものではない。しかし、その無数に流れるコメントの一定の傾向性が、「大衆の欲望」、国民の「空気」を表象することで、「本職」の政治家は国民不在のまま議論を進めていくことが難しくなる。近代代議制は、代議士と国民の乖離を抱え、意志反映の制度であった筈の選挙という方法も形骸化して久しい。選挙で一票を投じることでしか意志表示のできなかった旧来システムに、オルタナティブを提示するのが「民主主義2.0」であり、その内実は「世論」の新たな表出方法だといってもいいだろう。
コメントはかつて臨時の政治家が行なっていた、拍手に等しい。ニコニコ生放送でよく流れている、笑いを意味する「wwww」、或いはそのものずばり拍手を意味する「8888」といった文章ならざる文字の流れは、新しい技術環境下で「臨時」的政治活動を再現する可能性をもっている。社会学者の清水幾太郎はジャーナリズムや思潮の上では現れてこない、正に一般意志に相当するような、庶民が日常生活のうちで信じている精神的傾向性のことを「匿名の思想」(『世界』1948・9)と呼んでいたが、それを表出する技術的条件があるのだからそれを活用しない手はない、というのが東の主張だ。
要するに「2.0」の所以とは「可視化」可能性にある。今日に至るまで、その精神的な蓄積が具体的かつ直観的に政治に活きていることを実感させる方法がなかっただけで、勿論、一般意志(或いは、匿名の思想)自体は昔から存在していたし、それなりに政治決定のプロセスに参加してきた。只、その可視化の装置だけが整備されず、今までの歴史では、代議士などを通じて間接的に意志を表出するに甘んじてきた。この結果が、国民の政治への無関心に帰結したことは言う迄もない。
意志は見えにくかっただけで、存在していなかった訳ではない。この点は看過できない。だからこそ、私見からすれば、臨時の政治家の活動領域やアクセサビリティを増やすこと自体が重要なのではない、と主張したい気になる。
大事なのは、私たちの意志と政治を取り結ぶ回路そのものが未だ存在しうるのだ、と私たちが信憑することにある。逆に、その信憑さえ獲得できれば、既に臨時の政治家2.0は実現している。例えば、買い物をするのに近くのコンビニを使うのか、それとも少し遠い商店街を使うのかは極めて「政治的」な選択だ。或いは、何処に就職するのか、或いはフリーターで居続けるのかという選択も「政治的」だ。(因みに私が「就活ぶっ壊せデモ」に違和感があったのはこのような理由のためだ。もし就活などしたくなければ、端的にしなければいいのではないか。ソレルがいう「暴力」を使うように)。
ハイデガー的な言葉遣いを借りれば、私たちは「政治-内-存在」(être-dans-la-politique)であり、その一挙手一投足が間接的であれ政治プロセスに関与してしまっている。問題はその事態を信じれるかどうかにある。だから政治問題とは往々にして宗教問題のような様相を呈してくるのだ。
思い出すのは映画『フィッシュ・ストーリー』だ。この映画のなかでは、世界が終る危機に際して、それを全く意識しない人々の勇敢な善行の偶然的連鎖が、結果的に世界を救済する奇跡発生の条件を整えることになる。勿論、今日、個々ばらばらに離散した行為の集積が、「神の見えざる手」宜しく、予定調和的に大きな善、大文字の政治に資すると主観的に信じることは困難になっていることは言うまでもない。その為に「可視化」の要請が持ち出されてくる。
しかし、逆にいえば、見えないことを信じることで明日からでも市民革命は始まるのだ。臨時の政治家はその時、臨場の政治家へと転化するだろう。パート・タイムの政治家から眼の前に臨む現場現場を政治の舞台として捉えるリアル・タイムの政治家へ。こうした行動を通じて政治という概念は拡張されていく。政治思想もまた、政治内的にしか存在しないからだ。