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 萱野稔人『ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書、2011・10)の基本的な主張は、暴力を忘れること勿れということだ。本書はナショナリズム批判を前提にしている左系の言論人やアカデミシャンに対して痛罵といってもいい程の批判の矛先を向けているが、それというのも、彼等は暴力のリアルを忘却している、所謂「頭の中がお花畑」な思考停止状態に陥っているからだ。例えば、川満信一の沖縄独立や、ネグリ&ハートの〈帝国〉に対抗するマルチチュード論が暴力論への軽視を理由に批判される。

 特に、ナショナリズム批判の古典であるベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』を相対化する手続きは素朴なものだが、注目に足るものがある。つまり、国民同士が顔見知りでもない近代的国家等「想像」の産物に過ぎない、というアンダーソンの立論に対して、一定以上の大きさをもつ共同体は時代を問わず全て「想像の共同体」だという萱野の反論は極めて説得的だ。その特徴は反ナショナリズムを標榜しているかにみえるマルクス主義的インターナショナリズムにも(というよりも、「にこそ」)適用されるだろう。この点は極めてスリリングだ。

 しかしながら、疑問もない訳ではない。

 萱野は暴力と国家の関係性をマックス・ヴェーバーの定義を頼りに分析を始めていく。
即ち国家とは「正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体」(『職業としての政治』脇圭平訳、岩波文庫、1980・3)である。これの典型例が、私刑(リンチ)を禁止するけれども、死刑制度で人を殺せるようなことだ。つまり、死刑とは、合法的に(正当)人を殺すこと(暴力)を他のものに邪魔されないで出来ること(独占)を意味している。正当、暴力、独占、このトリアーデが国家を定義する際に中核的な役割を果たすのだ。

 正当性に関しては道徳から峻別されている法律の性格(合法的な戦争であれ、道徳的に正しいとはいえない)によって議論する必要はない。しかし、「暴力」と「独占」に関する記述は、少なくとも私にとって十分な説明を与えられているようにはみえない。

 物理的暴力とはそもそも何だろうか。

 例えば「暴力violence」を自身の哲学の鍵語にした『暴力論』の著者ジョルジュ・ソレルにとって、萱野の想定する「暴力」とは「暴力」でなく「強制力force」に分類される。強制力とは、少数の支配者が、多数の被支配者を統治するために行使される力のことで、具体的には軍隊や警察の活動に代表される。

 しかし、ソレルにとって強制力は世を支配するブルジョワジーや国家の力であっても、労働力を資本家に売り渡す底辺のプロレタリアートの力にはならない。そこで、要求されるのが「暴力」だ。だが、今村仁司が述べるように「ソレルのヴィオランスは、現代日本語における通常の意味での物理的暴力(腕力、武器による軍事力など)とは相当にかけ離れている」(今村「解説」/『暴力論』下巻、岩波文庫、2007・11)。では、何が「暴」力なのか。ソレルが念頭に置いている暴力実現の典型例はジェネラル・ストライキ、つまり総罷業、みんなで働くのをやめることに求められる。この力は特に国家に対して暴力的に機能する。というのも、代議制の決議や法律やインテリの前衛観念を端的に無視し、働くことをやめることで、労働力を失った国家は固有に持っていた筈の強制力を減少させかねないからだ。

 ソレルの考察で興味深いのは、暴力とは実体的に定義できるものではなく、暴力とは常に「誰かにとっての暴力」であるということだ。確かに、強制力ではない、「暴力」を暴力的に感じる主体を私たちは想定することができる。翻ってみれば、萱野やウェーバーの暴力論は、暴力という力のイメージが無批判的に前提にされているのではないか。

 彼らは暴力が「独占」できる、という前提の上で思考を展開している。しかし、力の独占とはそもそも極めて特殊で稀有な状況のなかで可能になるのではないか。例えば殴る・蹴る・閉じ込めるといった身体を源泉にする力は老化によって衰えていくし、兵器にしても技術者による定期的な検査やメンテナンスを必要とする。或いは、組織的な兵士を養成するにしても一定期間の教育が必要となる。独占的な物理的暴力を維持するには、微視的に見てみれば、様々組み合いつつ分立するモジュール化した力の検査と交換が、絶え間なく続けられることになる。しかし巨視的にみれば、そこには独占主体が立ち現れているように見える。このような現象を「想像の独占者」と名付けてみてもいいだろう。萱野の遡行的思索が見出すのは、その「想像」的な起源であるようにみえる。

 萱野は国家が「想像の共同体」ではないことを強調する。なるほど、確かにそれは正しいかもしれない。しかし、そうした解釈の傾向性については何の解決策も提示しない(単純に左翼が馬鹿である、というだけだ)。しかし萱野自身も又、暴力が「独占」可能だ、という「想像」力を使っている限り、その問題を単に左翼の頭の悪さだけに帰結させることはできない。実際に頭が悪かったとしても、そのような人達が一定数おり、しかもある程度の発言力をもっているのならば尚更だ。問題なのは、想像力なしに国家やナショナリズムを語ることはできるのか(想像力を括弧がけできるのか)、を原理的に問う作業、そして、もし想像力が不可避ならば、その適切な運用をどのように説得的に実践していけばいいのか、ということだ。

 スピノズィストを自認していた哲学者のアランは反戦思想をもっていたが、四六歳で第一次世界大戦に志願して従軍した。彼にとって、人に災いをなす最たるものは想像力が暴走することで引き起こされる情念であり、メメントモリに代表されるように、人は想像力によって起こってもいないことで自分を恐怖に縛ばってしまう。それを克服するには不断の行動actionによって熟慮する暇をもたないようにせよ、そうアランは書いている。彼にとって戦争も同じように見えた。つまり、前線の兵士が冷静に任務を実行するのと対照的に、戦争の恐怖を味わえるのは、前線に赴かない戦争指導者や銃後の人々だったのだ。
「戦争は人々の退屈の現れである。自分で不安をつくりだし、それに夢中になる」(『幸福論』)。

 私は萱野の主張が大きく間違っているとは思わないし、本書が論理展開自体の欠陥を問う種類のものでないことは確かだ。しかし今日的な状況の中で、想像力を克服せよ、という命令は極めて難しいものだ。それは批判者の萱野でさえ部分的にせよその力に頼らざるをえないことでもよく分る。もし暴力と独占の紐帯に想像的なものが不可避的に介入せざるをえないのなら、想像的なものと手を切った純粋国家-暴力論だけで私達は満足することはできない。私的な感想を記しておけば、お花畑左翼を「馬鹿」といって切り捨てることで、今日の問題は解決しない。(反)ナショナリズムだけではない。放射能でも、原発でも、「想像」に憑かれてしまった人と如何にコミュニケーションをとるのか、という具体的な問題は、本書の意図から大きく外れてしまうだろうけれども、私にとって依然残存したままだ。

(この文章は2012年8月25日で行なわれた新宿文藝シンジケート読書会での発表ハンドアウトを元に作成した。当日、様々な意見を下さった参加者一同に感謝する)。

↓原書はここから。
新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか (NHK出版新書 361)
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