丹羽良徳 【デモ行進を逆走する】2011
Walk in the Opposite Direction of a Demonstration Parade, 2011
パフォーマンスのドキュメントビデオ:(10’01 min),ビデオ画像を印刷した布:(2600mm x 1450mm)
撮影:中堀徹
◆ 9月21日、つまり、あさっての金曜も首相官邸前では反原発デモが行われる。この場所での抗議活動は三月から毎週金曜の夜に実施されていて、関西電力が大飯原発の三、四号機を再稼働させる予定日を目前に控えた六月の終わり頃から一ヶ月ほど、爆発的な盛り上がりを見せていた。最近は「運動」全般の宿命であるところのルーティン化…要するにマンネリの気配が強まってきたこともあって、政党党首や議員も含んだ参加群衆のテンションは沈静化しつつあるようだが、少なくとも九月いっぱいは続くとのことだ。
◆ 官邸前での抗議を主催しているのは、首都圏反原発連合という、その名の通り首都圏の反原発団体が寄り集まった急造組織だが、福島第一原発の事故が起きてからこの一年半のあいだ、日本国内では大小さまざまな、それこそ数えきれないほどの反原発デモが行われてきたし、現在も行われている。
◆ 事故後、既存の反原発団体や反核運動家、さらに「いわゆる」市民団体は(当たり前だが)直ちに行動を起こしたし、共産党や社民党など、遠くない将来の絶滅が危惧されるレッドデータブック掲載政党も負けじと組織的抗議を行なっていた。
◆ だが、一連のデモ活動の最も特徴的かつ重要な部分は、そうした「想定内」の動きなどではなく、これまで日本の原子力発電や原子力行政に対して殆ど何の知識も、興味も、意見も持たなかった大量の人々が、次々に、口々に、恐怖や怒りや呪詛の叫びを上げ始めたところにある。冷戦末期、旧ソ連のチェルノブイリ原発が爆発事故を起こした1986年にも反原発運動の盛り上がりはあったが、いまのシリアスな勢いとは全く比較にならない。
◆ INESで最高のレベル7という大規模な原子力災害が国内で発生したのだから、市民のあいだから「想定内」以外のアクションが湧き起こるのはむしろ当然のこと=「想定内」かもしれないが、3.11以前の日本からは全く考えられなかった現象であるのは確かだ。
「…え?ゲンパツって、日本にもあるんですか?どこに?」
非常に極端な戯画化をするならば、「想定内」の運動家たちと一緒になって、事故以前はそのぐらい「平和」な、「のほほん」な意識をしていた人々が、血相を変えて官邸前やあちこちの路上で「再稼働反対!」と叫んでいる、そんな状況だ。
◆ 事故を起こした東京電力や、規制機関としての役割をまるで果たせなかった保安院、安全委員会、そしてこれまでの原子力行政全般に対して思うところや問い質したいことは山のようにあるし、それらに対して人々の怒りが向かうのは自然で、正当な部分も多々あるとは思う。
◆ けれど、そうした点を差し引いても、被災地の農作物を流通禁止にしろと訴えたり、被災材(がれき)広域処理への絶対的拒絶を主張することさえ珍しくない、見境をなくした群衆の攻撃的な絶叫には強い嫌悪を覚える。
◆ では仮に(原子力に関すること以外でも)自らの心情に近いデモなら参加する可能性もあるのか?と問われれば、反原発デモと同様にNOであり、考えたことはない。どういう類のものであれ、ぼくはこれまで「デモ」という示威の手法に対して違和しか感じてこなかったし、恐らく今後も変わることはないだろう。デモが訴えている内容の正当性/不当性を問わず、自らの生理的な部分や信条に照らして、相容れない部分が強くあるのだ。
気持ちとしては反対だけどデモには参加できない、そういう気持ちになった人も多いと思うけど、デモに参加するつもりもないし、デモに参加しなければ反対運動もできないのであれば、いっそ逆走するしかないんじゃないかと。わからなすぎて答えがない答えを出してる。(中略)反原発デモが新宿で行われると知った時に、とても複雑な気分になったんです。もちろん、原発推進はもう許されないと感じていたけど、デモ活動だけで問題の根本を塞いでしまっていいのか?という疑問も同時にあった。デモ行進って一体どうなっているんだい?って…じゃあ、逆走するしかないじゃないかって、とても捻くれた感情があったんです
◆ 前置きが長くなったが、冒頭にリンクした丹羽良徳(以下すべて個人名の敬称略)のパフォーマンス、「デモ行進を逆走する(2011)」は、首相官邸前のデモ群衆に対する反応を象徴とした、原発への賛否をめぐる現在の日本国内に漂う殺伐とした空気、さらには「デモという示威の手法そのもの」が孕む暴力的な「何か」を具体的に顕わにする、強く同時代へコミットした「行為/作品」であると思う。
◆ そしてもう1つ。丹羽の行ったパフォーマンスと、かれが上記TOKYO SOURCEのインタビューで語っていた「状況」…原発反対のデモに対して示威をすること、逆走するしかないじゃないか、と思った「複雑な気分」…を同時に論じた、画家、水野亮のブログエントリ「デモ行進を逆走する」には、あの震災以降、「今この国に生きるもの(水野)」のあいだで、取り返しの付かない深刻さを伴いながら進行している「断絶」が、正確に描出されている。ぼくは筆者の水野と旧知の間柄だが、そういうこととは全く関係なく、上記のテキストは(丹羽の動画を伴って)広く読まれるべき重要な「震災後への批評」だと思っている。
キュレーションを担当した飯田志保子は、展覧会のステートメントにこう書く。
「丹羽良徳は原発反対のデモ行進を逆走する自身のパフォーマンスで、均質化を促す見えない力に対する抵抗と、同調された場におけるアイデンティティの不在を批評的に映像化した」
◆ なるほど、端的に表せば、彼女は「正しい」だろう。ぼくがデモに対して抱いているネガティブな感情も、簡潔化すれば、「均質化を促す見えない力」や「同調された場におけるアイデンティティの不在」との形容で表せてしまう。
◆ だが、それでは足りない。丹羽の「逆走」を表すにも、同様に、足りない。上記「デモ行進を逆走する」 において水野は、「逆走」が仮に飯田の書くようなものにとどまる「だけ」であれば、退屈なアートの「紋切り型の模範解答」に過ぎず、「イカニモ図式的」で「アイデアとしてはかなり陳腐」だと述べる。重要なのはそこではない。丹羽の「逆走」が「断絶」への強い批評性を持つのは、図式的な「逆走」という表現行為ありきではなく、「まずはじめにこのデモがあった」からだ。
◆ 「このデモ」…つまり、原発反対を叫ぶ群衆の行進に対して、自分自身がどのような姿勢を取るべきかが、分からない。
「気持ちとしては反対だけどデモには参加できない」
「…原発推進はもう許されないと感じていたけど、デモ活動だけで問題の根本を塞いでしまっていいのか?という疑問も同時にあった」
◆ そうした強い逡巡や煩悶を経た上で実行された、「このデモ」に対するアクションでなければ、「ネット上で激しく交わされている二極化した激しい応酬の片方の陣営に取り込まれるだけで終わっていただろう(水野)」
◆ つまり、反・反原発という「陣営」のデモ批判という文脈にたやすく回収されてしまっていただろう、ということ。水野は丹羽の「逆走」がその段階に留まらず、「上から目線で概念的に語る視点ではなく、あるいは参加者の目線で主観的に語る視点でもない、第三者的な目で内側から「このデモ」の細部を映す新たな視点を映像として実現している」と評価する。
…この作品で真に見るべきは丹羽の「行為」ではなく、むしろその行為が触媒となって写しだされた「このデモ」の姿なのである。作品を見ていても目につくのは、画面の奥に向かって歩き続ける丹羽の後ろ姿よりも、むしろ彼の周りに映っているデモの参加者たちの姿なのだ。では「真の主役」たる彼らデモの参加者たちは、作品を見る自分の目にはどのように映ったか?
(中略)
その印象を一言で言ってしまえば「他人とは思えない」ということだった。そこに自分が一緒に映っていたとしても、なんの違和感も覚えないだろう。参加者の年齢や階層は幅広く、この群衆を休日の雑踏を歩く歩行者と丸ごと入れ替えてしまってもそれほど大きな差はないかもしれない。
彼らが自分となにも変わらない「普通」のひとびとであったことに気付くとき、ネット上での原理主義的なイデオロギーの対立のなかで「忘れ去られてしまったこと」にはたと思い到らされる。そうだ、そもそも我々は同じ隣人同士だったのだ、と。同じ危機に直面し、同じ危惧や不安を共有していた、同じひとつの問題を考えるもの同士だったのだ、と。ほんのちょっとしたことの違いで溝が出来、いつしかそれが修復不能に思えるほどの「断絶」へと広がってしまったけれど、そもそもがお互い意志疎通の不可能な「別の世界の住人」などではなく、その細部を見れば自分がそこにいても不思議でないほどに「自分と同じ」なのだということを。
(中略)
イデオロギーに固執すると、ともすれば差異や異質さを抱えるものを「自分とは違うもの」として排除しがちになる。
その視線は俯瞰だ。しかし目線の位置を下げ細部へと目を向けることによって「違い」を乗り越え、彼らもまた「自分と同じ」であることに改めて気付かされるという逆転的な視座を、丹羽の作品は示し得たのではないだろうか
◆ 上記のようにデモに参加する人々を「他人とは思えない」と書く水野は、しかし丹羽の「逆走」は、さらにその「他人とは思えない」人々の群れの、「このデモ」が持つ別の側面をもあぶり出すと続ける。それが、「この作品のもっとも「怖い」ところである。その「怖さ」は、自分がいま漠然と抱いている「不安感」と見事に重なっている」と。その「怖さ」や、「不安感」は、ぼくが「デモという示威」そのものに抱く生理的な嫌悪感とはやや異なるものだが、部分的に重なってはいる。
丹羽はデモの参加者たちの「普通」さをデモの内側からの視点で映すことに成功しているだけでなく、彼のパフォーマンスによってそれらの「自分となんら変わりがない」ひとびとが示すある「異常さ」をも同時に炙り出している。
(中略)後ろにカメラを従え、デモ行進の真ん中を人の流れに逆らって逆方向に歩く派手なピンク色のシャツを着たこの青年に、デモの参加者たちは視線を向けることさえしないのである。彼ら、自分と変わらない「普通」のひとたちは、皆視線を前方に向け、人の流れを逆走する異端であり差異である作者がまるでそこにいないように、その存在にマッタク気付かぬように、訴えるべき大切なスローガンを口々に唱えながら前へ前と歩き続けるのだ。
◆ 映像の冒頭、スピーカーから流れるエレクトロなビートにあわせ、さまざまな鳴り物を叩きながら「原発いらない、原発いらない」と「大切なスローガン」を連呼しながら歩く群衆。音楽が消えても、「原発とめろ」「時間の問題」「今すぐ止めろ」と、先導する声を追っては「大切なスローガン」を唱和しながら歩く人々。
◆ 水野が言う「自分となんら変わり」がなく、「他人と思えない」、「普通」の「ひとびと」。彼彼女らの顔は多様だ。虚ろな顔、呆けた顔、笑った顔、不機嫌そうな顔、表情を無くした顔、顔、顔、顔…その顔が、すべて同じ一つの言葉を、「大切なスローガン」を「呪文」のように唱え続けながら、「前へ前へと」歩いてゆく。多様な人々の雑多な歩行であったものが、その「呪文」で、一つのイデオロギー、一つの政治的な意志をもった集団のアジテーション行進へと変貌する。
◆ 「呪文」は、さきに一部を引用したステートメントで、飯田志保子が「ひとつの正解がない問い」と形容した「問い」に対して、「ひとつの正解」を問答無用で突きつけるものだ。仮にこの群衆が唱える「大切なスローガン」が、真逆のこと…「原発必要」「原発動かせ」「今すぐ動かせ」であっても、同じように「ひとつの正解」を問答無用で突きつけるという意味においては、変わらない(実際、映像の冒頭部の唱和は、「原発ひっつよう!原発ひつよぉー!」にすぐさま入れ替えられそうなものを感じないだろうか?)。
◆ そこでは、様々な物事(この場合は原発だが)への姿勢、判断に関する差異や個が否定され、「ひとつの正解」以外は排除される。本当は「ひとつの正解」以外に、さまざまにあるはずの「正解」や、「正解への道筋」…多様な思考は消え失せている。「シングルイシュー」の名のもとに、「ひとつの正解」への訴えが延々と繰り返される。
◆ 水野はテキストで、「普通」の「ひとびと」が他者であり異物である丹羽を「まるでそこにいないかのように」、空気のように無視することに戦慄している。だが、現在の「このデモ」は、それらの人々が、自分たちと一緒に「大切なスローガン」を唱えない、あるいは異論を挟む他者を、「意思疎通の不可能」な「別の世界の住人」として攻撃する、という状況になっている。他者であり異物である存在はしっかりと見えているのだ。「敵」として。
◆ それはまさに、「均質化を促す見えない力」や、「同調された場におけるアイデンティティの不在」が暴走した状態の顕現であり、原発事故によってもたらされた大規模なフォールアウトへの対処をいまも日々迫られ続ける日本では、単に抽象的なお題目へ留まらない、強い生々しさを持っている。
「政治、宗教と並んで、原発と放射能が人との話題でタブーになった」
震災のあと、複数の知人がそう苦笑していたが、デモへの賛否に限らず、「態度」の表明に少なくないリスクを伴う異様な「空気」は、かつてないほど高まっている。
「高い意識を持ってシュプレヒコールを挙げたり、横断幕を用意したりしなくていい。団子でも食いながら喋っていればいい。ただ歩いていればいい。なぜなら、単に群衆が現れることこそが重要だからだ」
◆ 國分は上記のように主張するが、少なくともいまの日本で起きている「このデモ」に集まっている人々は「単なる群衆」ではない。立派にイデオロギッシュな、「高い意識を持った」存在だ。ただ歩いているだけでも、団子を食っているわけでもない。権力や体制のみならず、かれらの「大切なスローガン」から外れる「敵」を広く攻撃する、レッキとした政治集団である。かれらの行為は「秩序の外」を見せつけるものでもなければ、民主主義を機能させるものでもない。
◆ このエントリを書いている最中に、尖閣諸島を日本政府が国有化したことに抗議するとして、中国各地で大規模な「反日デモ」が発生し、現在も続いている。あまりに状況が複雑すぎるので、日本のデモと同列に語ることは出来ないが、デモという示威が場合によっては容易に暴動へと発展すること、「秩序の外」を出現させることを強烈に示している。
◆ 國分は、「だからこそ体制にとっては怖い」と書くのだが(テキストは暴動を賛美している文脈ではないが、秩序の外が実際に出現するというのはそういう状態のことだ)、それでは十分といえない。「怖い」のは「市民とか国民とか呼ばれている人たち」にとっても変わらないのだ。事実、「デモ隊」は見境なく民間施設を襲撃し、略奪を繰り返し、市民のインフラと財産を破壊した。独裁は憎むべき悪だが、無秩序な混沌はそれ以上に人間社会にとって危険なものだ。
◆ だが、震災と核ハザードという危機をきっかけにして、自分をはじめとした日本の人々が、エネルギーや核という重要で厄介きわまるイシューに関して嫌でもリアルな思考をせざるを得なくなったこと自体は、現状がどんなにひどい混乱にあっても長期的には社会や世界にとってポジティブな変化につながるという予感がある。
◆ 予感というよりは、希望とか願望と言った方が適切かもしれないが、その変化が起きたあとの社会はきっと、「このデモ」も「あのデモ」も「そのデモ」も必要としないだろう。制御しきれないほどの群衆が路上に出ることも、「立ち上がる」ことも必要とされないだろう
…といったら、それはジョン・レノンにさえ「妄想」だと呆れられるだろうか?