フランス長期留学の為のビザ書類集めに関して書かれたブログは、検索エンジンをかければ膨大な量が見つかる。その何れにも共通しているのは、やたら煩雑ということ。当たり前といえばそうかもしれない。外国人が簡単に別の土地に住み着いたら何をやらかすか分らないもんな。自国民ですら分らないのに。 

私が長期留学ビザを申請したころはまだキャンパスラングという団体を通さずに直接大使館の窓口で申請するという方法だった。留学なので当然現地の学校の入学許可書が必要になる。ネットでパリの予備校を探し、作品をメールで送ったらいくつかの学校から許可が出た。最終的には夜間コースを開催している学校が見つかり、金銭的にも安いのでそちらへ行くことにした。住居については、日本で知り合ったフランス人の子に声をかけてもらい、ホームステイをすることになった。今思うと書類の多さの割にはすんなり手続きが進んだのだが、当時はネガティブ志向の黒ループ真っ只中におり、何かどっかに不備があって、ヤッパいけなくなるんじゃないだろうかと1日に何度もぐるぐる考えて無駄に落ち込んだものだった。

9月頭に書類集めを始めてから約1ヶ月半ですべてが揃った。その後ビザもすんなり下り、友人知人お世話になった人に取り急ぎメールでごあいさつをした。渡仏前にきちんと会えなかった皆様、ごめんなさい。ここでお詫び申し上げます。纏まらない荷物を無理やり纏め、残りはダンボールに詰めてフナ便、サル便で送った。そして4月とは全く違った気持ちで10月の下旬某日、遂にパリへ発った。もしも飛行機が事故ったらドウシヨと気が気じゃなかったが、大韓航空のエアクラフトは、別に落ちることもなく無事にシャルル・ド・ゴール空港まで私を運んでくれた。パリは並木の枯葉が地面の脇を埋めていた頃で、東京よりはずっと肌寒く感じられた。この日から今に至るまでの長期留学生活が始まった。

パリでは予備校の他に語学学校にも少し通った。それぞれの場所で少しずつだが、知り合いや気の合う友人ができていった。予備校では課題制作、美術史、透視図法の理論などいろいろあったが、時間にルーズだったり、行ったら講義がなかったり、授業内容が予告なしに変更されたりなど、全体的にいい加減だった。校舎の一部は作家でもある講師のアトリエにもなっており、たまたまその先生の専門分野というだけでアクリル版画やシリコンの型取りなどができるようになっていた。課題制作は作品になるものにきちんと仕上げるというよりは、アイディアを練り、それを実現するためのプロジェクトを作らせるような指導だった。たとえば人類学者マルク・オジェの"non-lieu"(非-場所)や美術作家フランシス・アリスの”Marcher, Creer"(歩く、作る)に関連して自分なりの考えをまとめ制作・展開せよというもので、そのような切り口で制作することについて、最初は戸惑ったが、新鮮で面白かった。街ではポンピドゥー・センターやその併設図書館で調べ物をしたり、ルーブル美術館の年間パスを買っては時々訪れたりしていた。

年の終わりにベルギーへ行った。現地の友人と久しぶりの再会をし、ブリュッセルとブリュージュを回ってパリに戻るとどうもおなかの調子がおかしい。忽ち上から下から何もかもが出っ払い、何も食べられなくなってしまった。年明け早々総合病院にみてもらったら急性胃腸炎だった。原因は生活の変化、日照時間の短さ、天気の悪さ、ストレス、その他もろもろが重なっていたのかもしれない。体力は底をつき、2010年は、もうこれ以上悪くなることはないだろうとぼんやり思った。

(続く)